可憐な王子の騒がしい恋の嵐

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32

 走り去ったリノルアースを追おうとして、ルイは一瞬躊躇う。
 自分に追いかける資格があるのかと自身で問いかけ、その答えを見つけられずに、ただ扉を見つめた。


「っ! リノルっ!!」


 躊躇いもなく追いかけようとしたアドルバードを、レイが止める。
「なんだよ! あの様子じゃ絶対っ」
 泣いている、と。そう言おうとして、レイを振り返るが、アドルバードはその顔を見て大人しく引き下がった。
「……いい加減、妹離れしてください。どう考えても、今駆けつけるべきなのはアドル様じゃないでしょう」
 レイの静かな声だけが、広い部屋に響く。
 部屋が静まり返り、時計の音が嫌に大きく聞こえた。
「――――ルイ」
 沈黙を破ったのは、やはり涼やかな声で。
 怯えたように姉を見たルイは、何も言わずにただ立ち尽くしていた。
「ここで言われなければ行動もできないのか」
 静かな怒り。確かにレイは怒っていた。
 その言葉でルイは躊躇った自分を、叱り付ける。
「すみません」
「それを言う相手を間違えている」
 レイはさらに追撃し、ルイは苦笑して扉へと向かう。
 そして何も言わずに走り出し、リノルアースの姿を探し始めた。






   ■   ■   ■





 部屋から飛び出し――自分の部屋まで逃げ込もうとして、リノルアースは断念した。
 広い中庭の植え込みの中に隠れ、堪えていた涙を溢れさせた。人に泣き顔を見せたくなかったから、本当は自室に籠もりたかった。けれど、もう我慢できない。
 それでも大声で泣くことはできず、声を必死で堪える。そうすると随分情けない、子供のような泣き声が漏れた。


 ――なんとなく、予想はしていたことだ。
 ルイの選択を拒むことは許されない。
 そしてその選択肢を与えずに誓わせた言葉で、彼を非難することも、できない。
 分かっているのに。


「――――――ルイ」


 漏れる泣き声が、時折勝手に彼の名前を呟く。
 命令でも約束でも何でも良いから、彼が側にいて欲しいのに。
「はい」
 呼んだわけではない名前に、答える人はただ一人だ。
 驚いてリノルアースは思わず顔をあげてしまった。泣き濡れた顔を、見られたくない人に見られてしまう。
「こんな所にいると、風邪をひきますよ。リノル様」
 そう言いながら、ルイは上着を脱いで膝を抱えて座り込むリノルアースにかける。咄嗟のことに反応できなくて、しばらくリノルアースはルイを見つめていた。
 その手が優しく、リノルアースの涙を拭うまで。


「なっなんでここに……っ」


 羞恥で顔を赤く染めたリノルアースが動揺して声を荒げる。
 部屋にも行かずに、中庭に隠れていたのに。リノルアースがそう簡単に見つかるような所で泣くはずがない。
「部屋に戻ったのかなと思ったんですが――途中ここを通った時、なんとなく」
 困ったようにルイが微笑み、リノルアースの濡れた頬を撫でるのは、止めない。
 その手が心地よいのに、恥ずかしくて、振り払うこともできずに、逃げることもできない。ただ泣き顔を見られ続けるのだけはプライドが許さず――ルイの胸にそのまま顔を埋めた。
「……あなたは、私の騎士でしょう」
 吐き出した言葉はやはりルイを責めるものでしかなくて、そうしてしまう自分がリノルアースは心底嫌になった。
「そうです」
 ルイはリノルアースの身体を支えながら、静かに答える。
「だったら命令よ。ずっと、ハウゼンランドで、私の側にいて、私を守りなさい」
 引き止めたいという気持ちが、リノルアースに言葉を紡がせる。こんなことを言っては駄目なんだと冷静な自分が頭の中で騒いでいるが、それすら気にならないほどに、願望が強い。



「……すみません。その命令は聞けません」



 静かに、しかしはっきりとルイは答えた。
 その声がリノルアースの耳に痛いほどよく響く。
「私の命令よ!? どうして聞けないなんて言うの!?」
 最早それは泣き声でしかなかった。リノルアースがルイの胸を拳で叩きながら、泣き叫んでも、ルイは前言を撤回しない。
「…………どう、して」
 嗚咽と共に零れるのはそんな言葉だけだった。どうして、どうしてと、ただそれだけを繰り返す。
 リノルアースをただ支えていただけのルイの腕に、力が籠もった。
 強く抱きしめられ――リノルアースは息を呑む。枯れることを知らないように流れていた涙が一瞬止まった。


「あなたが、好きだからです」


 耳元で聞こえるその声を、幻聴ではないかとリノルアースは思う。
 ルイが自分に好意を持っていることくらい、ずっと前から分かっていた。気づかないほど鈍感じゃない。けれど、どうしてかずっと聞きたかったその言葉を聞いた時には、嘘だと思った。
「我儘で、お転婆で、強がりで、実はブラコンで、寂しがり屋なリノルアース様が好きです。他の誰よりも」
 何度か好きだと繰り返され、リノルアースはようやくこれが現実なのだと理解する。
 そして同時に、どうして、という問いがまた浮かんだ。
「でも俺はただの騎士で、あなたに釣り合うものなんて何も持ってない。挙句、この思いは姉さんやアドル様の障害にもなりかねない。何か問題が起きても俺はあなたや姉さんに振り回されてるばかりだ」
 何の力にもならない、とルイが自嘲気味に思いを吐露する。
 リノルアースはいつもの雄弁さなんて忘れてしまったかのように、ただルイに抱きしめられていた。寒い外気が、まるで寒くない。互いのぬくもりだけでこんなにも暖かいのだ。
「だから俺は力を手に入れます。俺がアヴィラの王子になれば、事は随分と楽に運ぶでしょうから」
「そんな、こと」
 必要ない、私がどうにかしてみせるから。
 そう続けようとしたが、それはルイの言葉に遮られた。
「たまには、俺にもかっこつけさせてください」
 苦笑しながら、ルイはそっとリノルアースを解放する。涙なんていつの間にかに止まっていた。それなのにルイの手が優しく頬を撫でる。
「俺はいつどこにいても、ルイ・バウアーです。いつまでも、あなたの騎士です。長い人生の中の、ほんの少しの時間、側から離れるだけですよ」


 だから、大丈夫です。
 そう言いながら微笑むルイを見つめて、リノルアースもいつもの調子が戻ってきた。




「…………五年、いえ、三年しか待たないわ。分かってるでしょ? いつまでもあんたを待ってるなんて出来ないんからね!? こちとら大陸中から求婚が来るんだから」
 心なしかリノルアースが頬を赤く染めて、続ける。
 ルイはきょとんとした顔で、ただリノルアースの言葉を待った。

「それまでに、私を迎えに来なさい」

 その言葉の意味を、分からないわけがない。
 ルイは頬の筋肉が緩むのを感じながら、精一杯真剣な表情を保つ。


「――――はい。我が姫」


 必ず、あなたのもとに帰ります。
 そう答えたルイを、リノルアースは満足そうに見つめる。
 寒い風に肩を震わせ、二人で部屋に戻りながら、ルイは「それにしても」と突然切り出した。


 ――あなた達兄妹は、人をじらすのが好きですね。


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