可憐な王子の騒がしい恋の嵐

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50

 熱い波にさらわれる。
 呼吸するのも難しく、ぼんやりとした意識の中で漂い続ける。


 ――アドル様。


 呼び声が曖昧な意識のアドルバードの脳内に響いた。
 忘れようもない、愛しい人の声だ。
 レイ、と彼女の名前を呼ぼうとするが、肝心の声が出なかった。


 行かないと。彼女の側に行かないと。




 ――――レイ。





 伸ばした手は虚空を掴んだ。
 目が見えない。暗闇の中にただ落ちていく。感覚も徐々に鈍くなっていく。


 ――アドル様。


 もう一度声が聞こえた。応えなきゃ、と焦りだけが広がっていく。
 何度も何度も――呼び声だけは耳にはっきりと届く。落ちていく深い闇にアドルバードが飲み込まれないようにと、命綱にでもなっているかのようだ。


 頼むから。


 そんな、泣きそうな声――――。





   ■   ■   ■




「……では、もとはシェリスネイア様のグラスだったのですか」
 はぁ、とため息を零しながらディークが頭を抱える。
「つまり、最初はシェリーが狙われたということでしょ、ディーク。何度も言うように、シェリーがグラスに触ったのはアドルに渡す時だけよ」
 リノルアースが、この国一の剣の腕を持つ男にも恐れずに睨みつける。
「そう睨まんでも信じますよ。あなたたちのことはこんな小さい頃から存じ上げているのでね」
 嘘を見抜くのもお手の物だ。レイほどではないが。レイは空気の読み方や即座の判断力は全て父親から受け継いだ。
 がちゃ、と扉が開いて一人の騎士が書類をディークに手渡す。
 ディークはその書類をさっと読み、ふぅ、と深く息を吐き出して、ソファに沈む。
「――――姫が狙われたというのは定かではありませんでしたが、そうなのかもしれませんな。殿下が飲んだ毒は南国に生えている毒草から作られたもののようです。ディガリト草というものらしいのですが」
「……猛毒です。飲んだ量が多ければ死んでしまうわ」
 シェリスネイアが青ざめたままで、そう呟く。
「幸い殿下が飲んだのは致死量ではありません。しかし南国の毒となるとハウゼンランドの医師でも解毒は難しい。それが命に関わらなければいいのですが」
「……助からないの?」
 リノルアースが不安げに問う。ディークは救いになるようなことは言ってくれない。そういうところは、やはり親子なのだなと思わされる。
「……グラスを持ってきた侍女からも詳しいことは聞き出せていないのでしょう? 犯人なら簡単ですわ。私を殺そうとする者で一番疑わしいのはヘルダムですもの」
 震えるような声でシェリスネイアがきっぱりと言い切る。
 ヘルダムはあの後部屋で待機となった。入口には騎士が護衛という形で見張っているので逃げ出すことも、証拠隠滅することも不可能だ。
「決めつけるのは良くないんじゃないかしら? シェリー。ヘルダム様に罪を着せようとしている者の犯行かもしれないんだし?」
「それでも! 可笑しいではありませんか! こんなに都合良く、あの男が来てからこんなことがまた起きるなんて――」
 シェリスネイアが命を狙われたのは、山へ行ったあの時以来一度もなかった。ハドルスとルザードによる嫌がらせはあったが、命には関係ない。
「だから、そう思わせるのが目的かもしれないじゃないの。冷静になりなさいな」
 椅子にどかりと座って、頬杖をつくリノルアースは実に偉そうだ。若干不安そうではあるものの、冷静なリノルアースにシェリスネイアが声を荒げる。
「どうしてそんなに冷静なんですの!? 王子があんな状態だというのに――!」


 しん、と部屋が静まった。
 ひんやりとした空気がリノルアースの周囲に纏わりつく。


「――なに? 私が心配していないとでも言いたいの?」



 リノルアースの声は冷たい。
 その青い瞳がまるで氷のような鋭さをもってシェリスネイアを射抜く。
「馬鹿言わないで。正直こっちはあんたなんかの話に付き合ってないで、アドルのところに早く行きたいのよ」
 まぁ、今行ってもお邪魔でしょうけど、と続けながらリノルアースはため息を吐きだす。今頃はレイがアドルバードについているだろう。
「人のこと血の通ってない人間みたいに言わないでよ。そっちに思いやりがあるっていうなら、くだらない話をきっちりまとめて早く終わらせてくれない?」
 苛立ちを露にしたリノルアースの声は重く、シェリスネイアはただ押し黙るしかない。ごめんなさい、と言おうとしてそれすら場違いに感じてしまってからは、シェリスネイアが紡ぎだせる言葉は少しもなかった。




「――姫、一度部屋にお戻りください。騎士をつけますので、部屋からお出になりませんよう」
 凍りついた空気を溶かしたのはディークの呆れたような声だった。
 シェリスネイアは力なく頷き、護衛の騎士と共に部屋から出ていく。リノルアースはその後姿をちらりとも見なかった。
「それでは、友人ができませんよ。姫」
 諭すような声に、リノルアースは片眉を上げた。
「小言なんていらないわよ。友達なんて必要ないもの。私にはアドルとレイとルイがいればそれでいい」
 それこそ小さな頃から何度も聞かされた言葉だった。リノルアースの視野は実際狭く、その限られた世界を守るために彼女は奮闘する。
「狭き世界に閉じこもるおつもりですか」
 あからさまにため息を吐かれ、リノルアースはますます機嫌が悪くなる。
「アドルよりは社交的に装えるけど? 本当に信じられる人間がいれば、友達なんて意味ないじゃない」
「それだけではいけないこともあります」
 そういう言い方、レイみたいだわ――親子なのだから当たり前かとリノルアースは紡ごうとした言葉を飲み込んだ。





「王子のもとへ行かれなくてよろしいのですかな」


 厭味でもなく、ただ急かすように微笑むディークをちらりと見る。
「……私ね、アドルの運の良さはとっても良く知ってるのよ」
 もったいぶったようにリノルアースは呟く。頬杖をついて、リノルアースは窓の向こうに視線を投げる。つられてディークも窓の外を見た。白く靄がかかったように、細かな雪が降っている。
「だから簡単には死なないわ。心配はしてるけど、信じてるから」
 駆け付けなくても、側にいなくても――アドルバードが儚くなることはない。リノルアースの中の何かがそう告げていた、双子故の確信か、どうか。
「それに、今はレイがしがみついてる頃でしょうよ」
 少し前に走り去ったレイがつきっきりで世話してるところだろう。――彼女も、邪魔されたくないだろう。今、たぶんきっと泣きたいくらいに辛いはずだ。




 華奢な少女が、ハウゼンランド一の剣の腕を持つ大男を見上げる。
 その瞳は押し負けぬほどに強い力が宿っていた。


「ディーク、話したいことがあるの。他の誰にも内密に」


 娘と同じように察しの良い彼は、ただ一度しっかりと頷いた。




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