可憐な王子の騒がしい恋の嵐

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60

 涙が零れ落ちないように、シェリスネイアは顔を上げて走った。華奢な靴ではそう速くも走れないが、それでも全速力で走った。
 今ウィルザードに捕まってしまったら、揺らいだ決心が崩れてしまうかもしれない。


 一緒に踊れた。
 甘い恋だと思い出にもできる。
 幸せだ。


 ――心残りは、もうないと思えるほどに。





 唇を噛みしめてシェリスネイアはパーティ会場から抜け出る。
 人目のない場所に――そう思いながら走った。パーティから抜け出す人間はまだそう多くない。会場から出てしまえばもう人気はないに等しかった。
「――そんなに慌てて、どこに行くの? シェリー」
 凛とした声がシェリスネイアの身体を止める。まるでそう約束していたかのように、リノルアースが壁にもたれて立っていた。
「……リノル、どう、して」
 シェリスネイアが驚いて目を丸くする。
 リノルアースはどこか頼もしい様子でにっこりと笑う。
「あの馬鹿が何かしたのかしら? それとも――何か企んでるの?」
 図星をつかれて、シェリスネイアは困惑した。咄嗟に誤魔化すだけの余裕が今はない。
「そ、れは」




「これはこれはシェリスネイア姫。お待ちしておりましたよ」


 何か紡ごうとしたシェリスネイアの言葉を遮り、下品な笑みを浮かべた男が暗闇か姿を現す。
「おやおや。ヘルダムを連れてくるように指示があったはずですがね? しょうがない方だ。まぁ、そちらの姫でも十分に価値は――」
「彼女に手を出したら、私が許しませんわ!」
 リノルアースを眺めにやりと笑った男に、シェリスネイアは毅然と言い返す。
「私がここへ来たのは――あなたを始末する為よ」
 シェリスネイアがリノルアースをかばうように立ち、懐から短剣を取り出し、その切っ先を男に向ける。





 アドルバードに毒を盛ったことは失敗し――そしてサジムの遣いから、密書が届いた。


 曰く、パーティの喧騒に紛れてヘルダムを誘い出せと。
 そこでヘルダムが殺されるだろうということくらい、シェリスネイアにはすぐに理解できた。
 彼は私を嫌っているだろう。
 幼い頃、あんなに良くしてくれた相手に向って牙をむいているのだから。自分と、自分の母の保身のために。


 この平和な国に、争いを持ち込ませたりしない。
 ここの穏やかな日々を、侵したりしたくない。


 なら私は罪を負おう。そして故郷でサジムに殺されることになろうとも。




「噛みつくということですか。あの方に」
 ひんやりとした声がシェリスネイアの背筋を凍らせた。
 だがもう引き返せない。ヘルダムを殺す手助けをすることも――この双子を傷つけることも、もうシェリスネイアには無理だ。
「初めから、サジム様に飼われていたつもりはありませんわ」
「――あなたの母君がどうなっても良いのですか?」
 びく、とシェリスネイアの握る短剣が震えた。シェリスネイアはもうその母がこの世にいないことを知らないのだ。
「シェリー……いや、シェリスネイア姫」
 背後の声を聞いて、シェリスネイアが驚いて振り向く。
 『シェリー』と呼んだ声は間違いなくリノルアースだったのに、『シェリスネイア姫』と言った声はアドルバードのもので――。
 振り返った先にいたのは、凛々しく笑うリノルアース――いや、アドルバードだろう。
「……アドルバード、王子?」
 確かめるように声をかけると、アドルバードは少し照れたように笑う。
「不本意ながら。ヒーロー登場のようにかっこ良くはなくて申し訳ないです」
 そう言いながらアドルバードはシェリスネイアを背にかばう。その背中は思いのほかたくましく、頼もしい。ドレスの中に隠していた剣を出し、アドルバードはリノルアースの姿のままで男と向き合う。
「――まぁ、あなたのヒーローは俺じゃないので、勘弁してください」
 くすりとアドルバードは笑う。
「あなたの出番も、まだでしょう」
 シェリスネイアを背にかばっているアドルバードの言葉に、返すように静かな声が聞こえた。その瞬間に、目の前の男が低く唸って倒れる。
 月夜に、鮮血が静かに散る。
「――――レイ。美味しいところを持ってくな」
 ぶす、と不貞腐れたようにアドルバードが呟くと、倒れた男の向こうから銀髪の騎士が現れる。
「私はあなたの騎士として当然のことをしたまでですよ?」
「そうです。それにそんな恰好で真正面から挑むのは無謀ですよ、アドル様」
 そう言いながら姿を現したのは、ルイだ。偽物のリノルアースの側にいたのはルイだから、最初から潜んでいたのだろう。
「怪我は、ないみたいね?」
 優しい声が聞こえ、シェリスネイアは来た道を振り返る。アドルバードの姿をしたリノルアースが、微笑んでいた。かつらをつけたままだから、二人を見分けるのは声と表情のみだ。
「リノル……」
 無事で良かったわ、とリノルアースは微笑みながら、シェリスネイアに歩み寄る。そのリノルアースの後ろにはウィルザードがいて、胸がちくりと痛んだ。
 ウィルザードはシェリスネイアを見つめて、何も言わない。
「……シェリー、あのね」
 リノルアースはシェリスネイアの手をとり、じっと見つめてきた。その瞳はとても深く澄んだ青だ。故郷の空の色に、海の色にも似てる。
 リノルアースが紡ごうとした言葉が、シェリスネイアとウィルザード以外には分かったんだろう。しんと静まりかえって、リノルアースが俯く。
「あなたの――――」


「リノルアース様」


 リノルアースの言葉を、ルイが遮った。
「俺の口から、言います」
 あなたが負う必要はない、とルイがリノルアースに優しく微笑む。
「これは、俺が言うべきことですから」
 この場にヘルダムはいない。それならば――母の死を伝えるのは兄である自分の役目だろうと、ルイは笑う。
 強がり、とリノルアースが呟いた。シェリスネイアの手を離さなかったのは、彼女なりの優しさだったのかもしれない。
「……何が」
 あったというの。そう問おうとした声は、ルイの優しく厳しい声に遮られる。


「シェリスネイア」


 初めて、ルイは兄として口を開いた。
 名前を呼ばれて、自然と緊張した。目の前のルイはハウゼンランドの騎士としてではなく――シェリスネイアの兄として立っていた。






「母上が、亡くなった」





 その声に、シェリスネイアは深く突き落とされた。






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