可憐な王子の騒がしい恋の嵐

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 脱いでしまうのは少しもったいない気がして――シェリスネイアはパーティに着たドレスのまま、ぼんやりと夜が更けるのを待っていた。
 朝になれば、明日になれば――この国ともお別れだ。あの騒々しい双子とも、それに付き添う美しい騎士にも。
 そして、初めての恋とも。
 もう、二度を会うことはないだろう。彼と自分は、似ていても住んでいる世界が違う。


 きゅ、と唇をかみしめて涙を堪えた。
 浮かんでくる欲望を握りつぶすように目を瞑った。


 これではいけない。
 このままではあの汚れた国に帰れない。


 ふぅ、とため息を吐き出してシェリスネイアは立ち上がる。突然部屋から出ようと歩きだした主人を見てあわてた侍女に「散歩よ」と笑って部屋から出た。











 廊下は部屋の中よりもずっと気温が低い。南国育ちのシェリスネイアには刺すような寒さが、今はちょうど良かった。それくらいの方が余計なことを考えなくて済む。
 窓の向こうは故郷とはまるで違う世界が広がっている。振り積もる雪が夜の世界を白く浮かび上がらせていた。
「雪のように」
 跡形もなく消えてしまえたら――何度そう願っただろう。
 なのにあの双子は見事にシェリスネイアの計画を潰してしまった。その上、シェリスネイアの罪を見てみぬふりをしている。
 故郷に戻ればあるのは身内同士の醜い戦争だけ。
 そしてたぶんシェリスネイアはヘルダムとルイに守られて、大切にされて――サジムから隔離されるだろう。しかしサジムも裏切り者を許すような人間ではない。しばらくは安心できない日々が続くだろうなとシェリスネイアは苦笑した。




「シェリスネイア」




 突然聞こえた声に、シェリスネイアはびくりと震えた。
 いつまで経ってもその声に名を呼ばれるのは慣れない。他の誰とも違う、ほんの少し特別な感じの響き。
「……何してるんだ、こんな場所で」
 慌てたように駆けよってくるのは――シェリスネイアが一番会いたくて会いたくなかった人だ。
「少し、散歩をしていただけですわ。あなたこそこんな時間に、どちらに行かれるつもりなのかしら? ウィルザード」
 もうパーティは終わった。あとはそれぞれ余韻に浸っていることだろう。
「散歩ねぇ……それにしたってまだ着替えてなかったのか」
 風邪ひくぞ、とウィルザードは慣れた様子で上着をシェリスネイアの肩にかける。断るタイミングを逃して――シェリスネイアは頬を赤く染めながらそのぬくもりに包まった。
「こんなドレスを着るのも今日で最後ですもの。少し、もったいなくて」
 アヴィランテとはまるで作りの違うドレスに最初は戸惑ったものの、慣れるとその美しさには年頃の乙女同様、心躍るものがある。
「まぁ、確かにもったいないか」
 ウィルザードが柔らかく微笑みながら、シェリスネイアを見つめる。
 その視線にいたたまれなくてシェリスネイアは視線を床に落とした。そんなシェリスネイアをじっと見つめて――ウィルザードは口を開いた。
「……アヴィラには、キスが挨拶なんて習慣はないよな」
 その声にシェリスネイアの肩がびくりと震えた。むしろそんな習慣があるのは北の方で――それも挨拶程度は頬にキスと決まっている。
 あのあと、どうにか追及から逃れたというのに、こんなところで捕まってしまうなんて。
「あのキスの意味、聞いてもいいか?」


 最後だったから。
 それで最後にするつもりだったから。
 下手すれば死ぬかもしれない賭けだったから。


 淡い恋の名残が欲しかった。
 何もないままこの想いを枯らしてしまうのは、どこか寂しかったから。




 シェリスネイアは床を見つめたまま、熱くなる頬をこの冷たい空気が冷やしてくれないだろうかと願った。
「――理由なんて、聞いてどうなさるおつもり?」
 口調だけは弱々しくならないように虚勢を張った。いつもどおりの自分を演じなくてはすぐに足もとから崩れてしまいそうだった。
「どうせ、もう会うことはないでしょう?」
 自嘲的に笑うシェリスネイアの顔は、ウィルザードには見えない。
 ウィルザードは手を伸ばし――シェリスネイアの小さな手を掴む。シェリスネイアの視界でその二つは繋がれていた。
 何の用だとシェリスネイアが顔をあげると、ウィルザードは苦笑した。
「まぁ、聞かなくても分かるけどな」
 繋がれていない手がシェリスネイアの頬に触れた。壊れものを触るような優しいそのぬくもりに、シェリスネイアは縋りつきたくなる。


「――俺が好きだろう? シェリスネイア」


 なんて傲慢で、なんて不敵な笑みだろう。
 何故か涙があふれてきて、シェリスネイアの黒い瞳が濡れた。
「だれが、あなたなんて」
 否定しようとしたのに、ウィルザードはまるで本気にしてくれない。
「好きだろう?」
 続けられた同じ問いに、シェリスネイアの涙腺は崩壊した。
 頬に触れる手が優しくその涙を拭い、それでも止まらない涙を唇が掬いとった。目元におりる優しいキスに、シェリスネイアは酔うように目を閉じる。


 唇におりたぬくもりを、シェリスネイアは拒まなかった。










 誰も来ない寒い廊下で、ウィルザードに抱きしめられながらシェリスネイアはどうにか泣きやんだ。
 誰かに見られたらなんていう心配は、どういうわけか吹き飛んでしまっていた。
「ネイガスに来ないか。国王妃でもないし、もしかすると公爵あたりになるかもしれないけど。今までのような暮らしはさせられないし、アヴィラよりずっと寒いけど」
 ウィルザードが優しく髪を撫でながらそんなことを呟く。
「争いとか、そういうことのまるでない暮らしをしよう。どこかの領地にでも引っ込んで――子供を育てて、晴れた日にはのんびりと日向ぼっこなんかして、雪が降ったら手をつないで散歩したり――そういうありきたりで幸せな」
 なんて贅沢な夢だろう――そう思えばシェリスネイアの瞳にはまた涙が溢れてくる。
 サジムがいる限り、そんな生活は送れないだろう。しかしいつか、そう遠くない未来にヘルダムが王座に座る時が来たら――叶うだろうか。そんなささやかで贅沢な夢が。


 否、たぶんあの双子なら言うのだろう。
「叶えてみせると」
 ただ自分の大切な人達が最高に幸せな未来を手に入れるために大国さえも動かす彼らならば。


 いつか、とシェリスネイアは呟く。
「いつか――アヴィラの情勢が整って、その時の国王陛下からのお許しがあったなら」
 微笑むシェリスネイアと見て、ウィルザードは困ったように笑う。
「そう長くはないでしょう。それまでにあなたは少しでも私が嫁げるような、大きな男になっていてくださいな」
「難しい注文だな」
 苦笑しながら、ウィルザードはシェリスネイアの額に口づけを落とす。





 たぶん――叶わないほど贅沢な夢ではないはずだ。





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