グリンワーズの災厄の乙女

 深い深い森で独りきり。
 足元に咲くのは小さな白い花。
 周囲にあるのは森特有の薄暗い闇だけで。
「――レギオン?」
 不安で名前を呼んでも、金髪の青年はどこにもいない。あの綺麗な紫の瞳が見つからない。
 どうして、と叫びたい自分と、ああやっぱりとどこかで諦めている自分がいた。災いを呼ぶ人間の傍になんて、誰もいてはくれない。いつも優しい仮面をつけて、心の底ではこちらを値踏みして、そして疎んでいる。
 塔にやってくる人間の中には、こちらを憐れんで話しかけてくれる人もいた。しかしそれは純粋な優しさではないのだ。塔での勤務の間、ただ相手をしているだけ。ちょうど野良猫にその場限りで餌を与える行為に似ている。優しさだけを与えて、本当の意味で救ってやろうなんて思っていない。
 だから、諦める癖がついていた。
 手を差しのべられても、簡単にその手を取ろうとはしなくなっていた。ただ笑って誤魔化して、自分自身が必要以上に懐に入ることを防いだ。
 裏切られて、傷つきたくないから。


「マリーツィア」
 ふわりと優しい声が頭上から降ってきた。
 うっすらと目を開けると、そこには当然のようにレギオンがいた。紫色の瞳が微笑みながらこちらを見ている。
 ――ああ、夢だったんだ。
 そう思うと同時に、心の底からほっとした。いつも諦めることには慣れていたはずなのにおかしいな、と笑う。
「ご飯の時間?」
「ああ、部屋に運んだから起きろ」
 うん、と答えながらレギオンをじっと見つめる。レギオンはただ笑いながら手を差し伸べてくれる。
 その手を躊躇なくとる自分に気づいていた。大きな掌は私の手をすっぽりと包みこんでしまう。剣を持つレギオンの掌は固いけれど、それすら私に安堵を与えるなんて変な話だ。この手が握る剣に切られることを、望んでいたくせに。
 森から出て、まだほんのわずかな時間しか経っていない。
 レギオンと出会ってから共に過ごした時間も、そう長いものではない。
 あまりにも淡い繋がりに、無性に不安になることがあるなんて――彼に言ったらどうするだろう。
 いつか彼も、私の手を離してしまうんじゃないか。
 私はいつまでもこの手を握りしめることができるのだろうか。
 そんなことを考えていたせいか、温かい夕食はあまり味がしなかった。

 夕食を食べ終わると、食器を片づけに行くレギオンは立てかけていた剣を持ち上げた。食器を片づけるだけなら剣は必要ないはず、と気づくと慌てて私はレギオンの服の裾を掴んだ。
「どこか、いくの?」
 あんな夢を見た後だからだ。
 一人残されるのが嫌だった。そのまま置き去りにされるのではないかという不安が胸の中から溢れ出してくる。
 レギオンは一瞬だけ目を丸くして――そのあとで微笑んだ。
「泊めてもらうからな、用心棒代わりだよ、一階にいる」
「私も行く」
 レギオンとマダムのやり取りから、ここが普通の宿として使われていないことはなんとなく察していたので、用心棒が必要だというレギオンの言い分は分かる。だから一緒に行こうと即答すると、レギオンは困ったように笑った。まただ。子どもに言い聞かせるような、そんな笑み。
「おまえは部屋にいろ」
「やだ……傍にいたい」
 ぎゅ、と裾を握り締める力が自然と強くなる。レギオンが不審げに身体を屈めて私と目線の高さを合わせた。
「どうした?」
 端的だけど、適確な問いに少しだけ切なくなった。
 ぎゅうっと胸が締め付けられて苦しい。
 どうしてこの人を疑ってしまうんだろう。たぶんきっと、レギオンは私のことを置き去りになんてしないのに。疑うばかりで信じることができない自分が情けなくて嫌いだ。
「独りで、いたくない」
 レギオンが部屋から出て行ってしまえば、私は手持無沙汰になって寝るんだろう。そしたら、またあの夢を見るような気がした。
「……おまえな、そんな顔でそういうこと言うな」
 しかもこんな場所で、とレギオンは呟いた。その発言の意味がよく分からなくて首を傾げていると、レギオンは苦笑して「分からなくていい」と言う。
「仕方ないな、少しだけだぞ。俺が戻れって言ったら部屋に戻れ。それから俺の傍から離れるな」
 前半は少しばかり不服だったけど、大人しく頷く。レギオンはため息を零しつつ扉を開ける。
 食器を厨房に持っていった後で、レギオンは大広間に行く。その後ろを大人しくついていきながら周囲をきょろきょろと見回す。レギオンを見て騒いでいた女の人達は綺麗な格好をしていた。そんな中にマントを脱いだだけの旅装束の私は、白鳥の群れに紛れ込んだあひるのようだ。
「あら、その子も連れ出したの?」
 くすくすと笑いながら話しかけてきたのは、他の女の人と同じように綺麗に着飾ったラナさんだった。真っ赤なドレスが妖艶で、化粧を施した姿は薔薇の花のようだ。
「独りになりたくないって駄々をこねられたからな」
「ふぅん? それならその格好は無いわ。うちの店の評判が落ちたらどうしてくれるの?」
 じっと私を見てきたラナさんの視線を避けるようにレギオンの後ろに隠れると、子猫をからかうような目でラナが微笑んだ。
「こいつは店の人間じゃないだろ」
「そうだけど、お客にはそう見えないってこと。マリー、いらっしゃい」
 手招きをされて、首を傾げる。「マリー」は私のことを言っているのだろうか?
「マリーツィア、よね? 可愛くしてあげるわ」
 返事をしない私を不思議に思ったのか、名前を確認しつつラナさんはまた私を呼んだ。いつも私の名前を呼ぶレギオンは略さずに「マリーツィア」と呼ぶ。だからだろう、あまり愛称という考えが私の中には無かった。
「え、でも」
 レギオンには離れるなって言われたし。
 そう思ってレギオンを見上げると、「あれはいい」と許可が出た。ラナさんについていくのはいいのだろうか? とおずおずと私はレギオンの後ろから出る。
「すぐに返せよ」
「やぁね、束縛する男は」
 ねぇ? と同意を求められながらどう答えたらいいものかと困惑する。そくばくってなんだろう。
 ラナさんに手を引かれながら顔だけ振り返る。
「すぐ、戻るね」
 一応それだけレギオンに言うと彼は微笑んで手を振る。実際にはすぐにレギオンのところに戻れないくらいにラナさんに拘束される破目になった。
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