グリンワーズの災厄の乙女


 お互いが沈黙の中に沈んでいたのはどれほどだっただろう。
 金色の髪だけが私の視界の中で鮮やかで、私の肩に埋もれるレギオンは何も言わないまま、顔をあげることもない。
 夕闇はそのまま夜の闇へと変わり、部屋の中はわずかな明かりもないおかげで真っ暗だ。窓から零れる月の光だけが私達を照らしている。
 ごめんなさい、と。
 そう口にするのは簡単だったはずなのに、私の唇はそれを音にしようとしない。
 優しさに溺れて、縋りつくことに慣れて、私は両手では抱えきれないほどのものをレギオンからもらったのに、同じだけのものを私はレギオンに与えられていたのだろうか。
 そんな問いばかりが浮かんでは、悲しいことに自分自身で否定を繰り返す。
「……レギオン」
 重い重い沈黙を破った私の声は、今にも消えてしまいそうなくらいに小さい。
「謝るなよ」
 ごめんなさい、と紡ごうとした声はレギオンのそんなセリフに阻まれる。驚いて目を丸くすると、ゆっくりと顔をあげたレギオンが苦笑した。
「……そう言いそうな気がしたんだ。謝るなよ、マリーツィア。あの森からおまえを連れ出したのも、連れ出すと決めたのも俺なんだからな」
「でも」
「でもじゃない」
 きっぱりと言い切られて私は言葉を飲み込む。レギオンは優しい顔のまま、その優しいてのひらで私の頬を撫でる。
「もう少し、自分勝手になれ。自分本位になれ。おまえは、そのくらいでちょうどいいよ」
 どうして、と私は呟こうとした。私はずっと独りきりで、こうしてレギオンと共に過ごすようになって――随分と我儘になったと思うのに、それでも足りないというのだろうか。
 そう呟こうとした、その瞬間に、目の前に綺麗な紫の瞳があった。吸い込まれるように見つめていると、次第に視界がぼやけて、唇にぬくもりを感じた。
 ほんの一瞬、触れただけで柔らかな唇は離れた。
「おまえが言ったんだろ」
 無骨な指先がさっき触れたばかりの唇をそっと撫でた。
「俺に出会えたことが、幸運だって」

『たぶんレギオンに出会えたことが、私の人生で最大の幸運だよ』

 そう、あの森を出たその日に。
 私は今と同じようにレギオンにキスしてそう言った。別に行為自体には深い意味なんてなかった。感謝の意を表すには一番だ、なんて誰かが言っていたから。もう随分と色褪せてしまった、淡い母親の記憶の中にあった口付けは、甘くてくすぐったくてとても嬉しいものだったから。
 ……なら、今のは?
「レギ、」

「レギオン! いるかい!?」

 私の言葉は突然のマダムの声に遮られた。どんどん、とけたたましいドアを叩く音がして、扉の向こうから慌てた様子が伺える。
「どうした」
 レギオンが暗闇の中だというのに迷いなく立ち上がって、扉へ向かう。その背中をぼんやりと見つめながら、自分の唇にそっと触れる。
「ラナを見なかったかい!? あの子買い物に出て帰ってきていないみたいなんだ!」
 切羽詰まったマダムの声で、私はハッと現実に戻る。フラッシュバックのようにひとつの光景が目の前でちかちかとした。
 ――夕暮れの中、広がる小さな血の海。
「……いつからいない?」
 レギオンの冷静な声が混乱し始めた私の脳に響いた。今この街では白っぽい髪の、緑色の瞳の人が、誰かに狙われている。狙う殺人鬼がいる。
「夕方前にね、すぐ帰ってくるって出かけたんだよ、だけど」
「分かった」
 レギオンはそれ以上の説明を必要とせずに、踵を返して部屋の中にある剣を手に取る。
「杞憂で終わればいいんだけど、でもあんなことがあったばかりだから」
 マダムは心配そうに呟く。レギオンは無言で頷いて――そして私を見た。
「部屋から出るなよ。いいな」
 私は頷いたのだろうか。
 現実に戻った思考のままでも、上手く動けない。レギオンはどこに行くの。ラナさんはどうしたの。マダムはどうしてそんな顔しているの。
 ぱたん、と扉が閉ざされて、部屋に闇が戻る。途端に部屋が静まり返って、耳が痛いくらいだ。
「レギオン」
 一人きりになってから、ようやく私は口を開いた。
 私の声に応える人はいない。私は暗い部屋の中にただ一人置き去りにされて、途方に暮れるしかない。
「レギオン」
 身体が震え始めた。
 声も震えている。
 ぽたりと瞳から水滴が落ちて、私の手の甲の上で跳ねた。

 わたしのせいだ。わたしがわるいんだ。わたしが、さいやくのおとめがいなければ、ラナさんはあぶないめになんてあわないかったのに。わたしがいるからわるいんだ。ほんとうはわたしがころされるはずなのに。わたしがしねばいいのに。
 わたしがいなくなればいいのに。

 子供みたいにそう呟いて、そして涙を拭う。
 窓の向こうの空にはか細い三日月が浮かんでいる。
「――――ごめんね、レギオン」
 ぽつりと呟いて私は扉に手を伸ばした。
 例えば私に罪はないのだとしても。
 私が、『災厄の乙女』だった過去は変わらないと思うんだ。
 レギオンに出会えたことは、私にとって幸運だったと今でも思う。
 今までの人生なんてどうでも良かったと思えるくらいに、あなたの存在は私の中に光を与えた。
 レギオンがくれる優しさも、ぬくもりも、言葉も、風景も、選択も、何もかも、私にとっては幸せに繋がる尊いものだったよ。




 夜の街は甘い香りがいっそう強くなる。
 一度路地裏に入ると、人気もない。賑やかな雰囲気から仲間はずれにされたみたいに不気味な風が吹いていた。
 その風に紛れて、かすかに血の匂いがした。
 夜の街の喧騒に紛れるように、悲鳴のような声が聞こえる。夕方のあのときは、一瞬で一人の命が散った。
 そう思いだして背筋がぞくりとした。何かに導かれるように私は路地裏を進み、徐々に声は大きくなっていったことに安堵する。
「――!」
 抵抗する女性の声にはやはり聞き覚えがあった。
 早く、早く、と足はどんどん駆け足になり――そして行き止まりのようなその場所で、私はその人を見つけた。
「死ね、死ね、死ね。災いの元凶め。おまえが生きているから、おまえがいるから人々は救われないんだ」
「ふざけてんじゃないわよ、このっ――!」
 そう叫びながら抵抗したラナさんの頭上に、剣が振りかざされる。

「何しているの」

 その瞬間に、自分でも驚くような凛とした声がその場に響いた。剣が空中でぴたりと止まり、血走った狂った目が私を捕える。
「マリー!? 何しているの!? 早く逃げなさい!」
 ラナさんが私に驚きながらも逃げろと叫ぶ。その声に私は首を横に振った。だってこれは、私は負うべきもののはずだから。
 剣を振り上げたままの男はどこか焦点の合わない瞳で私を舐めるように見る。その視線にぞっとしながら、一歩前に踏みよる。
「――災厄の乙女を殺したいんでしょう?」
 私は無理やりに笑みを作りながら告げる。
「白き髪に、深緑の瞳を持つ娘を。よく見てごらん。その人は本当に白い髪? 深緑の瞳かしら? ……その人は災厄の乙女じゃないわよ」
 胸に手を当てて、挑発するように笑う。ドレスでよかった、なんて思った。自然と背筋は伸びて、強がれる。
 振りかざされた剣がゆっくりと下ろされ、ラナさんの手を掴んでいた手が私へと伸びてくる。
 そう、それでいい。

「災厄の乙女は、私だもの」

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