グリンワーズの災厄の乙女


 塔にやって来てから、一か月が過ぎた。
 町ならばとっくに春を迎えた頃だというのに、森の中はまだ肌寒い。窓の向こうでは色とりどりの花が美しさを競うように咲き誇っている。新しい葉が芽吹き、世界はやさしく淡い色に包まれていた。
 ちゃり、とポケットの中に入ったままのネックレスが、主のもとへ帰れない不遇さを訴えているようだ。
 持ち主は、使用人たちの中にはいなかった。そして使用人以外に『マリーツィア』なんて名前の人間がこの塔にいるとすれば、それはただ一人だ。
 あれ以来、まともに話していないので、これを見つけたと差し出すのが躊躇われた。
「レギオン様」
 ポケットの中のネックレスに触れながら、どうしたものかと考えていると、使用人の一人が控えめに声をかけてくる。
「どうした?」
 使用人は困ったように目をきょろきょろさせて、口籠もる。
「その、災厄の乙女が――」
 続けて発せられた言葉に、こめかみを押さえた。


 災厄の乙女は塔から出ることは許されていない。しかし鉄格子の嵌められた部屋に監禁しているわけではない。物理的に出ることは可能だ。
 それを止めるのが塔にいる使用人や騎士の役目で、決して外に出たのを見つけて俺に報告するのが彼らの仕事なわけではない。よほど彼らは『災厄の乙女』と関わりたくないらしい。
「おい」
 塔の前に広がる平地に座り込み、呑気に花を摘んでいる少女を見つけて声をかける。
 少女の周りには白い小さな花が咲いていた。他にもいくつか花が咲いているが、可憐な外見とは裏腹に強い生命力を持つ白い花は、あちらこちらに花を咲かせている。ちょうどプレートに彫られていたのと同じ花だ。
「あ、レギオン。どうしたの?」
「どうしたの? じゃない。おまえは塔から出ることは許されてないだろうが」
 早く戻れ、と怒ると少女はきょとんとした顔で言う。
「でも私、このくらいの距離ならよく出歩いているけど?」
「……なんだって?」
 信じがたい言葉に、眉間に皺が寄る。
「だって、誰も止めないし呼びに来ないんだもの。だから塔の周りくらいだったら時々出歩いているわ。森の外には逃げ出さないから、放っておかれているっていうか」
「……塔の連中は何しているんだ」
 はぁ、と溜まった重い息を吐き出す。いくらなんでも職務放棄だ。責任者としてきっちり報告させてもらおう。
「とりあえず、戻れ。俺がいる以上勝手は許さん」
「いいじゃない、レギオンが見張っているんだもの。もう少しくらい」
 そう言いながら彼女は白い花を摘む。花は簡単に根ごと抜けた。
「……それには毒があるぞ」
 愛らしい白い花は、その姿には似合わない生命力と恐ろしい毒を持っている。『災厄の乙女』に忠告なんて必要ないはずなのに、気がつけば声に出していた。
「へぇ、そうなの? こんなに綺麗なのに」
 くすくすと笑いながら、小さな花に口づける。
「おい!」
 花弁には毒はなかったはずだが――毒があるといった矢先の、彼女の行動に慌てた。無理やり彼女の手から花を奪い取ると、彼女は俺を見上げながら笑う。
「変なの。私に死んでほしいんじゃないの?」
「――死なれたら困る」
 殺したいと思うほどに、憎い――憎かった、になりつつあるけれど。
 渡すなら今か、とポケットの中からネックレスを出し、彼女の目の前に差し出す。
「……おまえのか?」
 揺れる長方形型のプレートをしばらく見つめながら、彼女はそっと手を伸ばした。壊れものに触れるかのように優しく、ネックレスを受け取る。
「無くしたと思っていたのに。前に鎖が切れちゃってからずっとポケットに入れていたんだけど」
「それなら直しておいた」
 切れた鎖はもう一度繋がっている。そのことを確認して彼女は「本当だ」とふわりと微笑む。彼女はネックレスをつけて、胸元で揺れるプレートを眺める。
「ありがとう、レギオン」
 嬉しそうに微笑みながらお礼を言われるなんて想像もしていなかったので、少し照れくさい。
「……おまえ、文字読めないのか?」
 照れ隠しのついでに問うと、彼女は当然のことのように頷く。
「教えてくれる人間がいると思うの?」
 いつの間にかいつもの自嘲的な笑顔に戻っていた。苦笑しつつ、いるわけがないな、と心の中で答えた。
「そうだろうな。文字が読めれば、名前を忘れるわけがない」
 そう言いながら、彼女の首から下げられた花の模様が彫りこまれたプレートをひっくり返す。
「――これ、名前だったんだ」
 文字の読めない彼女は、プレートに刻まれた文字をいとおしそうになぞる。
「『最愛の娘・マリーツィアに、最大の幸福を』」
 ゆっくりと読み上げながら、彼女の手を掴んで読み上げるのと同じ速度で文字をなぞった。そうすれば彼女は自分の名前だけは認識できるだろうと思ったからだ。
「……マリーツィア」
 彼女の長く白い髪が風に揺れていた。その髪に少しだけ見惚れていた。
 失った名前を、彼女が――マリーツィアが取り戻した瞬間だった。
 深い緑色の瞳から、一滴だけ涙が落ちる。何度も何度も自分の名前を呟いて、その音を確かめていた。
 ぎゅ、と大事そうにプレートを握り締めて、彼女は俯く。もしかしたら涙が止まらなくなったのかもしれない。
「――――戻ってるぞ」
 一人にした方がいいだろうと、先に塔に戻ろうと立ち上がる。しかし上着の裾が引かれ、体勢を崩しそうになった。
 見下ろせば、彼女がしっかりと上着の端を握り締めている。
 傍にいろということか、と苦笑し、そのまま立ち尽くす。
 一体どこの誰が、こんな小さな少女を災厄の乙女だというのだろう。
 花に囲まれて静かに泣く少女は名前を忘れるほどに顧みられることなく、ただ一人でこの塔で生きてきた。彼女を守るために、世話するためにいる者に存在する意味はなく、機械的に食事が用意され、服が用意され、行動が制限される。
 上着の裾を握り締める小さな手に、王国に危機を呼ぶような危うさはないのに。
 少なくとも――彼女の親が、彼女を『災厄の乙女』として見ていなかったことだけが救いだろうか。
 災厄の乙女として連れて行かれる娘に、あんな言葉を託したネックレスを持たせるほどに、彼女は愛されていたのだろう。

 ぽつり、と頬に空から降った滴が落ちる。
「――雨か」
 ぽつぽつと、雨は徐々に速度と量を増してくる。これは大雨になりそうだな、と灰色の重たい空を見上げて思う。
「戻るぞ」
 さすがに雨の中じっとしているのは馬鹿のすることだ。未だに座り込んだままの彼女を立たせ、その腕を引く。しかし彼女は大人しくついてくる様子はなく、引いた手はぴんと伸びたままだ。
「おい」
 ずぶ濡れになりたいのか、と言おうとして振り返る。雨はもう随分と雨足を強めている。彼女は俯いていた顔を上げて、儚げに微笑む。
「――――ありがとう、レギオン」
 濡れた頬は、それが雨なのか涙なのかも判別させない。
「……それは聞いた」
 ネックレスを渡したその時に。
 雨は容赦なく降り注いだ。打ちつける雨粒が少し痛いと感じるほどだ。
「うん。さっきのはこれを直してくれたお礼だから。今のは、私の名前を見つけてくれたお礼」
 雨の中でふわりと微笑む。その笑顔が今すぐ消えてしまいそうなほどに儚く感じた。この手を離せば、今にも掻き消えてしまいそうな気がした。

「マリーツィア」

 気がつけば、彼女の名前を呟いていた。
 現実に引きとめるために。このまま彼女を幻にしてしまわないように。
「…………良い名前だな」
 笑ったつもりだったが、上手く笑えていたかは分からない。
 ただ目の前の彼女は微笑み返してくれる。春の野の花が咲くような、淡くやさしい微笑みだった。


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