グリンワーズの災厄の乙女


 今でも思い出す。平穏な日常を切り裂いた、あの日のリュカの声。

『助けて! ヒルダが大人達に殺される!!』

 誰よりも早く、誰よりも必死になって俺の元に駆けつけてきたのは、紛れもなくリュカだった。いつもヒルダをからかっていた少年たちの中で、まとめ役だったリュカ。そして、ヒルダをいじめている時の感情の中に、あの年頃の男の子特有の淡い想いがあったのは、当時の俺も気づいていた。
 幼かったリュカは、俺のように村から逃げ出すことは出来なかった。どんなに村の人間を憎んでも、災厄の乙女を恨んでも。そしてあの時の俺には、そんなリュカを気遣う余裕なんてなかった。
 村の中で、リュカだけが異質だった。誰も口に出さないヒルダの名を、迷うことなく口にする。俺を遠目に見ているばかりの人々を嘲笑うように俺に話しかけてくる。リュカには俺に対して罪悪感を抱く原因がないのだ。あの日、リュカはヒルダを助けようとした数少ない人間なのだから。



 ぽたり、と一粒の雫が落ちた。
「…………そうだよ」
 小さな声は、まるで迷子のように力がなかった。一粒落ちたきり、雫は落ちない。
「俺はずっと、ヒルダを守りたかったんだ。いつも駆けつけてきたあんたみたいに、背にかばって。……でも俺には無理だった。あまりにも非力で、あまりにも無力で。あの時、ヒルダを守ってやれなかった」
 幼い子どもに、大人に囲まれて暴力を受けるヒルダを庇うことなんて出来るわけがない。けれどリュカの中で「守れなかった」という思いは重石となって今も心に沈んでいる。告げることの出来なかった想いと一緒に。
「ごめんな」
 俯くリュカの頭をくしゃりと撫で、苦笑する。
「おまえは苦しんでいるんだろうに、俺は、おまえがヒルダのことを覚えていてくれて、嬉しいんだ」
 リュカは俺を見上げて、唇を噛み締めていた。睨むようなその目は、幼い頃からまるで変わらない。ヒルダを助けに行くたびに、リュカは今と同じ目で俺を見てきた。
「あんたはいつもそうやってずるいんだ」
 悔しそうにそう呟きながら、リュカは俺の手を振り払う。
「大人はずるいもんだよ。……ヒルダだって、おまえが忘れずにいてくれることを喜んでいるだろうさ」
 誰かを恨むような、そんな子ではなかったから。ヒルダという『災厄の乙女』を恐れて忘れずにいるのではなくて、ただのヒルダという女の子を覚えていてくれる人がいることを、喜ぶだろう。
「わかっているよ、そんなことくらい……!」
 偉そうに言うな、とリュカは俺の胸を拳で軽く小突く。弟がいたらこんな感じだろうな、と少し想像して笑う。
「話がすり替わっているだろ。身代わりじゃないっていうなら、どうして――」
 下から睨むように問いかけてくるリュカに、どうしたものかと言葉を探す。マリーツィアとの経緯を全て話すわけにはいかない。
 ただ――そう。
「……放っておけなかったんだよ」
 あの森に。
 たった一人、己の死を待ち望む少女がいると、忘れることなんて出来なかった。

 グリンワーズの森を離れた時、少しだけほっとしたような気がした。忘れてしまえばいい、あんなちっぽけな少女のことは。もう災厄の乙女なんて忘れて、大人しくその他の人間にまぎれて生きていけばいい。そう思う心が確かにあった。
 それなのに、脳裏にあの深緑の瞳が焼き付いて離れない。
 日に日に深い緑の色がはっきりと浮かんで、消えてくれなかった。
 優しくて、ひどい人だった、と。そう告げる瞳が悲しげに揺れていて、それでもその未来を予知したかのように悟りきっていて。
 悪酔いしているみたいだ。いつまでたってもすっきりしない。

 グリンワーズの森を去り、マリーツィアと別れてから一カ月。その間は、ただひたすらに忘れようと心掛けた。けれど、それが無理なのだと分かって、大人しく諦めることにした。そして忘れることができないのならいっそ、と『災厄の乙女』を調べ始めたのもその頃だった。
 たった一人の少女の死が、王国を滅ぼすなんて、そんなお伽話のようなことがありえるのだろうか。心の片隅でそう思っただけだった。しかし、いざ調べてみれば不審な点はいくつもあった。
 そうするうちに、いつの間にか思考のほとんどは彼女で埋め尽くされていった。どうしているだろうか、なんて考える度に彼女が一人になるという決断をさせたのは自分だろう、と叱責する。中途半端に優しくなんてしたから、彼女はその優しさを拒んだのだ。そんなものは望んでいない、と。
 放っておけなかった。それは性格なのかもしれない。最初の頃は、妹と重ね合わせていたのかもしれない――それを否定することはできなかった。
 森で一人、時間の流れを忘れたかのように横たわる彼女を見るまでは。
『忘れないでしょう?』
 死を望み、そして俺に殺されることで俺の中に自分を刻み込もうとする少女を見て、自分の中にあった違和感に決着がつく。――妹なんかじゃない。
 森に来るまで散々悩んだ。死なせてやる方が幸せなのかもしれない、なんて自問自答を繰り返しながら。決定権は俺に預けられていた。彼女と再会しても、心は揺れていた。彼女の幸せがなんであるかなんて、俺には分からない。
 けれど。
 泣きながら、誰かに覚えていて欲しいと。その誰かは俺がいいと。その為に殺してほしいと願う彼女を見て確信した。俺には、彼女を殺せない。殺すことなんてできない。
 剣を振るい、必要があれば誰かを傷つけ、誰かの命を奪うことが出来る自信はあった。騎士団に入っているのだから、それは当然あるべき覚悟だった。大切な肉親はもういない。避けられないことならば、親しかった人間でも斬ることはできると思っている。
 それでも、彼女だけは。
 この手で殺すことはできない。生きていて欲しい。生きて幸せになって欲しい。そう願ってしまった。

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