グリンワーズの災厄の乙女

16


 家についても、マリーツィアの手が離れることはなかった。
 今日はこのまま寝かせてしまう方がいいだろう、とマリーツィアを部屋へと連れていく。ヒルダの部屋だった場所は、今はマリーツィアが纏う空気に満たされていた。ベッドの端にマリーツィアを座らせて、その前に膝をつく。俯いているマリーツィアの顔はあえて見ないようにした。見られたくないのだろうと、思ったから。
「手、見せてみろ」
 繋いでいた手を解いて、マリーツィアの右手を見る。男が振りまわしていたジョッキが当たったので心配していたが、手のひらが少し赤くなっているくらいで大きな怪我はないようだ。
「……痛むか?」
 手のひらに触れながら問うと、マリーツィアは静かに首を横に振った。本当に痛まないのか、痛みを感じる余裕がないのか。どちらか分からないのが困ったところだ。
「今日はもう寝ろ。……明日には発つ」
 大きな騒ぎにはならなかったにせよ、こうなってしまった以上はこの村に長居することなんて出来ない。酔っていただけだ、と笑って済ませることは出来るはずもない。あの男が持っていたのがジョッキだったからまだ良かった。もしあれが大きな酒瓶だったら? 刃物だったら? ――考えただけでも背筋が凍る。
「ゆっくり旅をして、おまえが気に入る場所を探せばいい。そこから始めればいいんだよ」
 ここ数日間のような、当たり前の、平穏な生活を。それから始めても、遅くはないはずだ。マリーツィアはまだ若いのだから。
「それまで、俺がおまえを守るから」
 淡く微笑んで、マリーツィアの頭を撫でる。それは、俺があの森から彼女を連れ出した時に心に決めたこと。俺の義務であり責任。
 伏せられていた深緑の瞳が、ふるりと揺れた。

「……それまでって、何?」

 その声は、震えているようにも聞こえる。静かな怒りが潜んでいた。マリーツィアは俺を見下ろしたまま、何かの糸が切れたかのように叫んだ。
「レギオンはどうして私を引き離そうとするの? どうして私が離れていくって思うの? 私は選んだ、レギオンを選んだ! 私はレギオンがいればそれでいい、なのに、どうしてレギオンはそれを信じてくれないの?」
 泣いているようにも聞こえる声に、ただ圧倒された。マリーツィアの手が俺の肩を押して、位置的に不利だった俺はいとも簡単に押し倒される。白い髪が、揺れた。
「私は、レギオンの傍がいい」
 涙を浮かべる深緑の瞳を見上げると、胸がざわめいた。
 認めろと心のどこかで声がする。まっすぐで迷いのない言葉が、隠していた心を暴こうとする。それでもまだ俺は足掻こうとした。認めたくないと。
「そんなものは、おまえの一時の感情に過ぎないかもしれない。今は世界が狭いから、俺だけが唯一絶対だと思っているかもしれない。でも、いつか、おまえが俺以上に傍にいたいと思う奴が、現れるかもしれないだろ?」
 マリーツィアはまだ十五歳で、人生を決めてしまうには早すぎる年齢なのだから。今は俺がすべてだと思っても、一年後は、五年後は、十年後は、違うかもしれない。
「そんな人、絶対に現れないよ」
「言い切れるのか?」
 きっぱりと答えるマリーツィアに、俺は苦笑した。俺を見下ろす瞳は、迷いがなさ過ぎて怖い。
「私は、これから出会う何もかもを捨てても、レギオンがいい」
 迷ってばかりの俺に、その言葉は心臓を貫くだけの威力をもって響いた。
 何も言えずに、俺はただまっすぐに俺を見下ろす、わずかに潤んだ深緑の目を見上げた。その気になればこの少女を跳ねのけることくらい、簡単なはずなのに。視界のすべてが彼女で覆われている。他のものなんて見えるはずがない。
「レギオンはいつも私のことばっかりで、自分のことを大事にしてくれないよね。それがレギオンの性格だって言えばそうなのかもしれない。性格が変えられないなら、レギオンが自分のことを大事に出来ないなら、それでもいいよ。私がレギオンを大事にするから」
 麻薬のようにマリーツィアの声が頭に、胸に、響いてくる。じわじわと容赦なく侵略するそれを、脅威を呼ばずになんと呼べばいいのか。

「ねぇ、だから、私にレギオンをちょうだい」

 甘い声は、誘惑しているようにも聞こえた。認めてしまえばいい。手離さなければいい。彼女がそう望んでいるのだから。悪魔がそう囁いていた。白い髪が頬をくすぐって、唇にやわらかい何かが触れた。
「レギオンは心が近づけば身体が離れていって、身体が近づいても心が離れてく。いつもそうやって私と距離を置いて離れる準備をしている。心だけでも嫌、身体だけでも嫌なの。なにもかも全部、私のものになって!」
 堪えていたはずの涙が、深緑の瞳から零れ落ちて俺の頬を濡らした。
 ――ああ、こんな甘い檻から、どうやって抜け出せと言うのだろうか。こんな、熱烈な言葉を前にして。これ以上目を背けていることが出来るほど、俺は大人じゃない。
「分かれよ。俺が、おまえを失いたくないんだ」
 苛立ちを隠さずに言い放つと、驚いたようにマリーツィアの目が丸くなる。細い腕を引き寄せれば、体勢は簡単に崩れた。
「……嫌なら噛めよ」
 間近にある瞳に、一言そう告げた。白い髪に指を差し込んで、噛みつくように口づける。びくりとマリーツィアの身体が震えたが、容赦しない。ずかずかと遠慮なしにこちらの陣地に踏み込んできたのは向こうだ。
 今までの触れあうだけの口づけじゃない。呼吸も出来ないくらいに深く。もう子どもだからなんて手加減はしない。俺の中で彼女は子どもなんかじゃなくなっているのだから。
 認めてやる。そう、俺は彼女を手離すことなんて出来ない。他の男に任せることなんて出来ない。俺がこの手で、守りたい。この手でしあわせにしてやりたい。
 ようやく解放すると、マリーツィアは顔を真っ赤にして座りこんだ。
「こ、これは、キスとは違う」
 もごもごと小さく抗議しながら、マリーツィアは目を泳がせていた。
「……キスの意味だけじゃなく、種類も覚えとけ」
 いや、覚える必要はないのか、と思いながらも俺は立ち上がる。認めてしまえば、本当に楽になった。そう、彼女と手離さないと決めてしまえば、やることは決まっている。
「明日には発つ。準備しておけよ」
 再度そう告げると、マリーツィアは何か言いたげに俺を見上げた。
「俺のためにも、おまえのためにも、この村では暮らせない。ヒルダや両親のことを考えたとしても、俺はおまえを危険な場所に住ませようとは思えないからな」
 きっぱりと言い切ると、マリーツィアは少し悲しそうに目を伏せて、小さく頷いた。俺の中でははっきりと決まっていたことだ。両親やヒルダの墓があるこの村は思い入れもあるし、ここ数日のことを考えれば後ろ髪もひかれる。けれど、今夜のようなことがまたあったら? 村以外の人間にマリーツィアのことが知られたら? やはりどうしても不安の種は絶えない。
「出立する前に、お墓参りに行こうね」
 ちゃんとお別れするために、とマリーツィアが笑う。素直に頷くと、彼女は嬉しそうに笑った。

「大好きよ、レギオン」

 それは毒も孕んでいない、純粋な言葉なのに、今までのどんな言葉よりも深く胸を突き刺さる。俺が言葉をなくしていることの意味を、この少女は分かっていないんだろう。


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