グリンワーズの災厄の乙女

20


 ――小さな小さなお姫様からの手紙が途絶えて、どれだけの月日が経っただろうか。

 国は相変わらずで、でも少しずつ人々は『災厄の乙女』を忘れてきたように思う。忘れてしまえるくらいのものだったんだな、と苦笑する。
 まだ高い位置にある太陽を見上げながら、降り積もる雪を見つめていた。真っ白で汚れを知らないそれは、一人の少女を思い出させる。元気でいるだろうか、と思いながら、彼女がしあわせであることは信じて疑わなかった。誰よりも愛する男と一緒にいて、お互いが探し求めた場所で暮らしているんだから、しあわせでいないはずがないのだ。

「マダム! お客さんだよー!」

 階下から聞こえる明るい声に、私はため息を吐き出す。こんな明るい時間帯にくる客なんて、よほどの物好きだ。
「いつもの騎士団長様なら追い返してちょうだい! まだ開店前でしょう!」
 扉を開けてそう叫ぶ。下にいる本人に聞こえてしまってもいい。どうせこのくらいのことじゃへこたれやしないんだから。
「違うわよ。もっと若い男! マダムったらいつの間に浮気していたのぉ?」
 声の主の少女はにやにや笑いながら階段を上がってきた。これから少し仮眠をとるんだろう。若い男? と私は首を傾げる。まったく覚えがない。
「浮気もなにも……あれはそういうんじゃないって言っているだろうに」
 なんでもかんでも色恋沙汰にして茶化したい年頃の少女たちに説明しても無駄だろう。彼とは、かれこれ何十年も甘い言葉を交わしていないんだから。彼の心のうちは知らないけれど、良き友人だと思っている。ちょっとだけ惜しいことしたな、と思ったことは、何度かあったけれど。
 階段を下りながらため息を零す。私の客という男は、玄関ホールで待っていた。
 窓から差し込む光が、金色の髪を照らしている。背が高く、しっかりした体つきのその男に、私は息を呑んだ。

「レ、ギオン……?」

 思わず目をこすって、まさかと首を振る。彼はここから遠く離れた場所で暮らしていて、そしてもう二度と、この国の地は踏まないと誓っていたはずだから。何より、傍にいるはずの少女がいない。
「そんなに、似ていますか?」
 苦笑する青年の声は、レギオンのものよりも少し高い。ハッと現実に引き戻されて、まじまじと見つめると、彼がレギオンとは別人だとすぐに分かった。眼帯がない。それに、瞳の色が違った。深い、森の緑。
 そう、彼らが旅に出て、もう何十年も経った。彼らの姿が、別れた時と変わらないはずがない。彼女だっていつまでも少女じゃないのだ。
「…………あなた」
 レギオンに良く似た容姿に、深緑の瞳。辿りついた答えはひとつしかなかった。
「父と母が、お世話になりました。……ラナさん、ですよね?」
 微笑む姿は、どこかマリーの面影がある。頷きながら、じんわりと涙が浮かんできた。手が震える。言葉がうまく出なかった。マダムと呼ばれることにも慣れて、名前を呼ばれることも久し振りだ。懐かしい記憶が、じわりじわりと浮かび上がってくる。
「困ったな。あなたに泣かれると、俺が母に叱られるんですが」
 そう漏らしながら青年はハンカチを差し出す。涙を拭いて落ちつくまで、彼は待っていてくれた。やさしいのは父親に似たんだろうか。紳士的なのは、たぶん二人の教育の賜物。そう考えて、くすりと笑う。
「……今日は、手紙を届けに来たんです」
 こちらに来る用事があって。いろいろなところへ挨拶に行っていたんです。そう呟きながら差し出された手紙は、もう何十年も前に途絶えたものだった。宛て名には綺麗な字で「ラナさんへ」と書かれている。
「……少し、待っていてくれるかしら? 読んだら大急ぎで返事を書くわ」
 しっかりと手紙を受け取って微笑むと、「もちろん」という笑顔が返ってきた。
「返事を受け取るまでが、俺の仕事ですから」
 ゆっくり読んでください、という優しい言葉に頷いて、私は階段を上る。それまで彼にはエントランスで待っていてもらうことになるけれど、嫌な顔ひとつしない。一段一段階段を踏みしめながら、私は笑顔になるのを止められなかった。中には何が書いてあるだろう。マリーとレギオンは、今どうしているのかしら。そういえば、彼の名前も聞いていなかったわ。まるで少女だった頃のように、心が躍る。
 彼にはもう少し話に付き合ってもらわなくちゃダメかしら。くすくすと笑いながら扉を開けて、机に向かう。

 手紙の書き始めは決まっていた。


 あなたがしあわせそうで、私も嬉しいわ、マリーツィア。


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