グリンワーズの災厄の乙女


 目覚めてすぐに、深緑の瞳と目が合った。
 しばしの間、現状を把握するために脳が活動する。ほんの少し距離を詰めればそれこそキスできるほどの近さに、なぜ彼女がいるのか。
 朝には普通に起きて、仕事をしていたはずだ。主に面倒な子守りを中心として。その他の雑務を片付けるために机に向かっていたはずだが――いつの間にか寝ていたらしい。そこまでは簡単に理解できる。
「……何してるんだ」
 問題は、俺の監視対象である彼女が、どうしてこんな至近距離で俺の寝顔を見ていたのか、ということだ。
「珍しいね、レギオン。居眠りするなんて」
 質問には答えず、くすくすと笑いながらマリーツィアはいくつかの書類が重なった机の上に腰掛ける。
「――夢見が悪くて、良く眠れなかったんだよ」
 夜にはヒルダが死んだ、あの日のことを夢に見た。何度も何度も同じ夢を見てはうなされる。成長していないのか、過去に囚われたまま今も俺は動けていない。
 乱れた前髪をかきあげる。髪も伸ばしたままにしているから邪魔だ。長い前髪は眼帯を隠すのにちょうどいいのだが、視界を狭めるのは考えものだなと思う。
「その目、どうしたの?」
 机に腰掛けたままマリーツィアが見下ろしてくる。今更な質問に苦笑した。
「以前任務中にな。斬られたんだ」
「ふぅん……残念。綺麗な紫色の目なのに」
 そう言いながらマリーツィアは眼帯越しにそっと触れてくる。
「まだ痛む?」
「まさか」
 小さな子どもと同じ質問に思わず笑う。もうとっくの昔に塞がった傷が痛むなんて、そんなわけがないのに。
 眼帯に触れていた手がそっと頬に移動する。なめらかな指先がなぞるように頬を撫でた。
 十四歳の少女には無縁のはずの色気を感じて、心臓が高く鳴った。動揺を悟られないように平静を装う。
 吐息が頬にかかりそうだ、と間近に迫る彼女を見つめて思う。
「――……ねぇ」
 静かにマリーツィアの口が動く。
 しんと静まり返った部屋にその声は不思議なほど大きく響いた。
「……ヒルダって、誰?」
 目の前に深緑の瞳があった。
 ゆっくりと静かに出されたその名前は、うなされた夢の中に出てきた妹のものだ。
 ふぅ、と息を吐き出して、頬に触れる手をそっと引き剥がす。慣れない見下ろされる感覚から解放されるようにすっと立ち上がった。
 これ以上彼女と目を合わせているのは無理だった。
「妹だよ」
 ふぅん、とマリーツィアは呟く。信じていないようなその響きに少しだけ苛立ったが、すぐに冷めた。
「それで、どこに住んでいるの? こんな所にいたんじゃなかなか会えないでしょう?」
 そう問いかけるマリーツィアは、まるで恋人の浮気を問い詰めているようだ、と他人事のように思う。誰が誰の恋人だと、内心で笑った。
「死んだよ」
 その言葉は驚くほどあっさりと声になった。
 一方マリーツィアは予想外の答えだったのか――言葉を失って、大きな瞳でただじっとこちらを見ていた。
 この続きを言えというのか、と俺は誰かに言いたくなる。この先を、この俺に、言わせるのか。彼女に向かって。
「――九年前に、殺された」
 九年前、と彼女の唇が音をなさずに動く。
 おそらく彼女の頭の中では九年前の出来事を思い出しているのだろう。彼女には記憶があまりないだろうが。
「災厄の乙女の託宣が下ったのと、同じ年だよ」
 彼女の疑問を確信に変えるために、俺は続けて呟く。
 ああ、と彼女は微笑んだ。彼女の中で俺と九年前の出来事と、そして俺の目的が符号したのだろう。机に腰掛けたまま――マリーツィアは俺を見上げて笑う。
「だから、レギオンは私を殺したいんだ?」
 こんな会話をするたびに思う。
 なぜ彼女は笑えるんだろう、と。
 質問には答えないまま、彼女を残して部屋から出た。これ以上傍にいるのは辛かった。殺したいのかという質問に、以前のように即答できない自分に嫌でも気づかされるから。


 しばらく、お互いに近寄らない日々が続いた。
 その方が良いと思ったから、声をかけることも止めた。夜更けに聞こえる歌声にも気づかぬふりを続けて、塔の中ですれ違う時には忘れず挨拶だけは交わした。完全に無視できないあたりに自分の弱さを見せつけられるような気がして仕方なかった。
 それでも、彼女の存在を無にする他の連中と同じようには出来なかった。
 その度に彼女は苦笑して挨拶を返す。「馬鹿な人」だとあの緑色の瞳が言っているような感覚に何度も襲われる。

 春が深まり、森の中でも温かさを感じるようになった頃だ。
「どういうことだ」
 挨拶以外で彼女に声をかけるのは随分と久しぶりだった。しかしそんな感傷に浸る余裕はなかった。
「どういうことって?」
 マリーツィアはいつものように笑いながら問い返す。その様子に苛立ちを感じながら、努めて冷静に言い返す。
「塔の人間が皆出ていくらしいな。俺はそんな許可出した覚えはないが?」
 使用人も騎士も全員が自分の荷物をまとめ始めていた。このままだとこの広い塔には彼女と俺だけになる。
「私が言ったのよ。面白いよね、普段は私のこと無視するくせに自分に都合の良いことはあっさり聞き入れるんだもの」
 くすくすと笑いながら、マリーツィアは慌ただしく動きまわす侍女たちを眺めている。
「俺はそんなことを聞いているんじゃなくて――」
「森からは一歩も出ない。私を一人にしてほしい――なんて悲劇のヒロインにぴったりのセリフだと思わない?」
 問い詰めようとしたら、彼女に言葉を遮られた。訝しげに見つめると、彼女は微笑みながら続ける。
「嫌ならこんな所にいる必要ないじゃない。今までだって監視が意味をなさなくても私は逃げたりしなかったわ。つまり監視なんて必要ないってことでしょう?」
 王国の人々が『災厄の乙女』となった少女のことなんて忘れてしまえそうなほど、彼女はひっそりと生きてきた。
 マリーツィアは手を伸ばし、いつか触れた時と同じように眼帯に触れた。その指先は頬に触れることなく、伸ばしたままの俺の前髪をかきあげた。
「ねぇ、レギオン。私を殺してくれる?」
 それは何度も聞いた問いだ。
 子供のように無邪気に笑いながら、時には真剣な瞳で見つめながら、彼女は何度も何度も俺に死という安楽を求めた。
「――――……」
 答えられずにいると、マリーツィアは苦笑した。
「ほら、もう無理なんだ。私に同情しているから。私への憎しみが薄れてしまったから。そんなことで妹さんは浮かばれるのかな?」
 それは俺を挑発するために用意された言葉だったんだろう。しかし俺は無言のまま彼女の深緑の瞳を見つめた。
「私をいつか殺してくれるって、そう信じていた。でもレギオンは私を裏切るんだね」
 じっと、目を離すことを許さないくらいの力で見つめてくる彼女を、俺はただ無心で見つめ返した。
 なら、もういらない。
 マリーツィアが小さく呟く。同情するだけの存在なら、いらないと俺を拒絶する。

「だから、レギオンも出て行って」

 じっと、片方しかない俺の瞳を見てマリーツィアが言う。
 その決定打は、殴られたような衝撃があった。どうして自分がこんなにショックを受けるのかも、分からなかった。
「あなたは、今までで一番優しくてひどい人だった」
 一瞬だけ泣きそうな顔で、そう笑う。
 彼女はすべてを拒絶することにしたのだ。これ以上自分が傷つかないように、自衛のために。するりと手は離れ、マリーツィアは長い髪を風に揺らして塔の外へと出ていく。
「マリーツィア!」
 いつかは呼びとめる名前がなかったが、今はある。
 マリーツィアはゆっくりと振り返り、そして微笑む。泣き出しそうな顔で無理に笑顔なんて作らなくていい。見ているこちらの胸が痛い。
「……レギオン。もし、まだ私を殺してくれるつもりが少しでもあるなら――待っているから。この森で。レギオンが私への憐れみを無くして、純粋な憎悪で剣を向けてくれるその時を」
 どうして、そんな残酷な願いを口にするのだろう。
 何も言えないまま、何もかもを拒絶するようなマリーツィアの背中を見送った。

 ぽつりぽつりと使用人の姿は消え、騎士という見張りは消え去り――最後まで足掻き続けた俺にも、正式な形で新しい仕事が下された。
 王都へと戻った俺には新米の騎士の教官役が押し付けられた。それくらいの仕事は出来るだろうと笑ったのは、俺にあの塔の仕事を回してくれた騎士団長だった。

 グリンワーズの森にはもう、災厄の乙女しかいない。
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