グリンワーズの災厄の乙女


 馬に乗り、グリンワーズの森へと向かう。
 頬を撫でる風はまだ冷たい。森へ近づけば近づくほど、気温はわずかに下がっているようだ。王都はとうの昔に春に彩られているというのに――あの森はやはり春でも涼しい風が吹くのだろう。それでも春の花は誇らしげに咲き誇っているはずだ。
 どこか寂しく優しいあの森で。
 彼女はたった一人で、何を想うのだろう。

 森に入ってから馬から降り、綱を引いて歩いた。しばらく歩いていると塔は見えてくる。建てられてからそれほど年月が経っていないわりに、古びた印象のある塔だ。壁を這う蔦がそう演出しているのだろうか。
 足元には、あの毒を持つ白い花がぽつぽつと咲いている。周囲にも柔らかな色合いの花が咲き乱れている。王都とはまた別の彩りにどこか安堵した。
 塔の前に広がる、拓けた土地。背の短い草花が咲いているその場所は、日向ぼっこをするにはちょうど良い場所なのだろう。
 野の花に囲まれて、彼女は眠っていた。
 真っ白なワンピースを着て、せいぜい足首程度くらいの高さしかない草花に包まれて静かに寝ている。それは絵画のようにも見える綺麗な姿だった。
 初めて出会った時も、そういえば昼寝していたなと苦笑する。
 日の光を全身に浴びて、植物に囲まれて眠る姿は一年前よりもずっと幸せそうにも、その逆にも見える。食糧だけは定期的に送られていたらしいが、彼女は一年この塔にただ一人だった。
「――マリーツィア」
 この名前も忘れてしまっただろうか、そんな不安を覚えながら彼女の名前を呼ぶ。
 起きる気配のない彼女に苦笑しながら、そっと彼女の白い髪に手を伸ばす。草が髪に絡まりそうだ。さらさらとした髪から、絡まった草を取る。
「マリーツィア」
 起きるだろうかともう一度名前を呼んだ。
 ゆっくりと、閉ざされていた深緑の瞳が現れた。その色が懐かしいと、思わず微笑む。
 ぼんやりとした瞳は空を見上げて、そして俺を見上げた。まだ夢から覚めていないようなそんな表情で彼女はじっと俺を見つめる。
「ああ、レギオン。来てくれたんだ」
 ふわりと、春の花のように柔らかく可愛らしい笑顔で俺を見上げる。
 一年経って彼女はどこか少し大人っぽくなった。たった一年だが――十代での一年は大きな変化だろう。
「……一年ぶりだな」
 それ以外に口にする話題もなく、俺は苦笑しながらそう呟く。
「ああ、まだ一年しか経ってないんだ。一日一日がうんざりするほど長いから、もう三年くらい経っているんだと思っていたのに」
 予想外に来るのが早かったんだね、とマリーツィアは俺を見上げたままで笑う。
 可愛らしく、そして綺麗な笑顔のまま、マリーツィアは残酷な願いを口にする。
「それじゃあ、やっと……殺して、くれるの?」
 思ったとおりのセリフに微笑み返す。自分でもどうして笑えるのか分からなかった。
 腰の剣を抜き、微笑んだままで剣を構えた。
「そんなに、死にたいか?」
 同情にもとれるセリフだったからだろうか――マリーツィアは困惑したような表情で、横になったまま、空を見上げるように俺を見た。
「私が死ねば、レギオンの中に私は残るでしょう? もし私が殺されて災厄がこの王国に溢れたなら、たくさんの人が私を覚えているでしょう? このまま存在しない人間としてただ寿命が尽きるまで生きるより、誰かの中に確かに残りたい。たとえそれが憎悪であっても、災厄の象徴であっても」
 マリーツィアは両手を空へと伸ばして神に祈るかのように語る。
 その手が抜き身の剣に触れ、指先に傷がつく。その傷から落ちた血はマリーツィアの頬に落ちた。
「私がこのとき、確かに存在したと。その証を遺したい」
 深緑の瞳から、一滴の涙が落ちる。
 頭の中では大神官の声が何度も繰り返されていた。もし、あの子が死を望むというのなら――。
「……忘れないでしょう?」
 剣を構えながら、いつのまにかお互いに微笑みが消えていたことに気づく。
 そんなことをしなくても、この一年彼女を忘れられた日などなかったというのに。
「それが、望みか」
 低く問うた。
 マリーツィアは俺を見上げて、その瞳にはうっすらと涙を浮かべて、それでもなお笑顔を作る。
 それが答えと受け取り、構えていた剣を突き刺した。
 ゆっくりと閉じられたマリーツィアの目から、静かに涙が流れ落ちた。







「大神官様、こちらです」
 そう言いながら案内する男に微笑み返す。
 外出する度の厳重な警護に閉口しながら、今日も大人しく与えられた大神官という立場を演じる。
 愛した女性も、ただ一人の娘も不幸にしておきながらこの地位に居座り続けるのかと、自分の中の良心が訴え続けていた。
「おい、貴様!」
 ぼんやりと――深く考え込んでいたが、警護の人間の声で現実へと引き戻された。
 声の方を見れば、何やら旅装束の人がこちらへ近寄ろうとしていた。深く被られたフードからは顔も見えない。体格から青年だろうということくらいが想像できる。
「気安く近寄れるような方ではないぞ。下がれ!」
 見れば少し遠くに同じような格好をした少年がいた。馬の手綱を握って、こちらをじっと見ている。おそらく近づいてきた青年の連れなのだろう。
「すぐに済みます。大神官様にお渡ししたいものがあって」
 そう言いながら警護兵に囲まれた青年はフードをはずす。
 少し長めの金の髪に、左目を隠すように覆われた黒い眼帯。こちらを真っ直ぐに射抜く紫色の瞳には覚えがあった。ついこの間、己の過去の罪を突き付けてきた青年だ。
「おまえなどが大神官様に――」
「良い」
 気がつけばさらに何かを言おうとしていた警護兵を下がらせ、自ら青年に歩み寄った。
「私の知り合いだ。危険はない」
 それだけで兵は簡単に引き下がった。危険はないという保証はないが――もしここで彼に殺されても、今ならば悔いはない。
「……お久しぶりです」
 青年は微笑みながら挨拶してくる。どう返したら良いものかと考えていると、青年は懐から何かを取り出した。
「これを、大神官様に」
 取り出したものは、紙だった。――否、正確には紙に何かが包まれている。
「それと、ご報告があります」
 芯の強そうな紫の瞳に射抜かれる。
 何故だろう。その瞳が恐ろしいと感じた。突然の嫌な予感に、胸がざわついた。青年は周囲を気にしているのだろうか、声が小さい。

「――災厄の乙女は死にました」

 それは、予想通りの言葉だった。青年に掴みかかりたい衝動に駆られながらも、呆然として身体は動かない。そして青年はそっと包みを開けた。紙の中に大事そうに、宝物のように包まれていたのは――長く白い髪だ。
 涙が込み上げてくるのを感じた。涙を流す資格などないと、今まで何度も言い聞かせたというのに。己の娘を不幸の底へ落したのは他ならぬ自分なのだ。
 それでも、出来ることなら幸せにしてやりたかった。今までの不幸の分、これ以上ないというほどに。
 たとえばそれが叶わない夢なのだとしても。
 青年はしばらく私を見つめた後で一礼して、待っている少年のもとへと駆けていく。
 フードをかぶり直しながら、青年は少年の手から馬の手綱を受け取っていた。そして微笑みながら少年に手を差し出す。
「行こう、マリーツィア」
 その名前に、涙が引いた。
 忘れるわけがない。ただ一人の娘の名を。呼ばれた少年――否、少女はこちらを見ていた。深い森と同じ色の瞳と一瞬だけ目が合う。
 ああ、私は騙されたのか。
 否、災厄の乙女は死んだのだ。私が自分の罪を認めたあの時に。彼女はただのマリーツィアだ。
 少女は踵を返し、青年と手を繋いで人ごみの中に消えていく。フードから零れた雪のように真っ白な短い髪が、いつまでも目に焼きついて離れなかった。



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