Good bye,snow









 ――ひんやりとした唇が、何度も何度もあたしの唇に触れた。そのたびに冷えた水が喉を潤す。それは、ただの雪解け水でありながら、命を与える水だった。



 ここは、炎も凍えるような雪の街。山脈から吹く風は悲鳴のような音で、人々から体温を奪っていった。絶えず雪が降り積もる常冬の街。ここで生まれ育った者は春を知らない。あたしもその中の一人だ。
 親はいなかった。家もなかった。街の片隅で雪の降るなか小さく縮こまっているのがあたしの生活のすべてだった。その日は、市場でパンを盗むのに失敗して、大人に散々殴られて、命を奪うような吹雪の山へと放り出された。よろよろと歩いて、山の中にある小屋を目指したけれど、ダメだ。もう足が動かない。冷たい雪の上にあたしは倒れた。
 肌はもう感覚を失っている。氷のような冷たさを感じない。まるでふかふかのベッドの上にいるみたいだ。
 ……ああ、死ぬな。
 こんなところに倒れている、ぼろぼろの孤児を助けてくれるような優しい紳士はいない。あの街からあたしが消えても、誰ひとり気がつかないだろう。
 世界は真っ白だ。遠くも近くも見えない。ただ吹きすさぶ吹雪だけがある。
 ぎし、ぎし、と厚い雪を踏む音がした。
「       」
 凍りつきそうな瞼を押しあける。世界は白いままだ。目の前に白い人がいる。髪も、肌も、雪のように白い人。何かを言ったみたいだけど、ごうごうと騒がしい、吹雪の音のせいで聞こえない。
 冷たい手があたしの頭に触れる。
「いきたい?」
 さっきよりもずっとはっきりした声が耳に届いた。目を動かして、その人を見る。
「君は、生きたい?」
 再度静かな声があたしに問いかける。
 生きて何になるというの。生きていてもいいことなんてひとつもないのに。心の中で何度も悪態をついて、あたしは力の限りにその人を睨んだ。睨んだつもりだった。ここで死んだ方が楽だ。もう痛い思いもひもじい思いもしなくて済むんだから。このまま放っておいてくれればいい。そうやって心は反発するのに、身体は逆に正直だった。
 頬を涙が伝う。その雫はすぐに凍りついてしまいそうな寒さだ。痛い。いきたい。行きたい。生きたい。こんなところで、終わりたくない!
 冷たい指が、あたしの涙を拭った。


   *   *   *


 荒れ狂う吹雪が止むと、雪原の中にぽつりと建っている小屋へ向かって駆ける少女がいる。年に一度、この雪の街にやってくる少女だ。三年前に山で倒れ、その年に盗賊団へ引き取られた。僕は彼女の生き方にまで関与する資格はない。それに、まるで家族ができたように喜ぶ彼女の顔を見れば、咎めることなんて出来るはずがなかった。
 彼女は、小屋まで来る途中の一瞬だけ、僕と目が合う。いつもそれきりだ。隣で語りあう間も、僕の目を見ない。まるで何かやましいことを抱えているみたいだ。燃えるような赤い髪が雪原の中で浮かび上がるように見える。それは雪の中で咲く、一輪の花のようでもあった。
「ひさしぶりね」
 まだ幼さの残る彼女は、一人前の大人のふりをして笑う。今は十三歳くらいだろうか。堂々としたその様子とは裏腹に、目線は僕の耳元あたりにある。
「元気そうでなによりだよ」
「ええ、元気ですとも! 泣く子も黙る盗賊団の一員ですから? あんたは相変わらずね。いつもこの小屋にいるの?」
 まさか、と僕は笑った。そういうことにしている。彼女は小屋の中の椅子にどかりと座って「ふぅん」と呟いた。どこかそわそわとして、落ち着きがない。目線は小屋のあちこちを行ったり来たりしていた。
「どうしたの?」
 問うと、いたずらの見つかった子どもみたいにびくんと驚いた。あー、うー、と何度が呻いて、ぶ厚いコートの中へ手を突っ込んだ。ごそごそとコートの中を探り――この小屋にあるのは小さな暖炉だけなので、上着を脱ぐと寒いのだ――何か取り出した。
「これ」
 ぐっと拳を目の前に突きつけられる。手を出すと、ころんと小さな袋が手のひらに落ちた。首からぶら下げられるように、紐がついている。
「? なに?」
「あげる。ラピスラズリよ。お守りにでもしなさい」
 袋の中から、小さな藍色の石が出てくる。
「言っておくけど、盗んだものじゃないからね! ちゃんとあたしが店で買ったんだから」
「もらう理由がないよ」
 買えばそれなりの値段がするものだ。少なくとも彼女が買うには、安いものではなかったはず。
「くれるって言っているんだから、素直にもらっておきなさいよ。バカね」
「でも」
 躊躇っていると、呆れたように彼女は笑う。
「どうしても理由がなきゃダメだって言うなら……そうね。お礼だとでも思っておけば?」
 何のお礼? と首を傾げても、彼女は答えなかった。あげるって言ったらあげるの、もうあげたの。頑固な彼女が折れることはなく、藍色の石は僕の首からぶら下がっている。
 暗くなる前に彼女は山を下りる。不思議なことに、彼女がやってきた日は空が穏やかだった。降るのはせいぜい小雪くらいで、吹雪くことはない。まるでこの山が彼女の訪れを待ちわびているようだ、僕は遠ざかっていく小さな背中を見つめながら、頬を緩めた。
 頬に触れる雪は、僕の体温を奪うものではない。僕の手のひらは、指先は、唇は、降り積もる雪と同じ温度だからだ。


 出会った時、彼女は非力で小さな子どもだった。
 防寒の意味をなしていないようなぼろぼろのコートを着て、細い手足で、髪はぼさぼさで、とても醜く弱々しい生き物だった。しかしその醜い獣は、強い瞳をしていた。強い、とても強い、生気に満ちた瞳で僕を睨んでいた。
 それは、僕が今まで見たもののなかで、もっとも美しい生き物だった。


   *   *   *


 吹雪の中であたしを助けた冷たい指先を持つ人は、何もかもが真っ白だった。白い髪、白い肌、纏う衣類も白く、唯一藍色の瞳だけが彼の持つ色だった。
 彼に助けられた後、運良く山を通った盗賊団に引き取られ、気前のいいボスと、気持ちの良い仲間たちと共に暮らしている。あちらこちらを点々とする生活だけど、年に一度、この雪の街を訪ねる。盗みをするためじゃない。この街に、ボスの知り合いがいるそうなのだ。年に一度逢いに来るって約束をしているからなぁと笑って、律儀にその約束を守るボスがあたしには好ましかった。
 結果的に、あたしと彼も、年に一度の逢瀬を重ねることが暗黙の了解となっている。別に逢いに来てと頼まれたわけじゃないし、逢いに来るよと言ったわけでもない。別れる時はいつも「じゃあね」で、決して「またね」とは言わない。けれどあたしはこの街へ来ると、あの雪原を越えて彼に逢いに行くのだ。
 彼に助けられたのは、十歳の時。あたしは十六歳になった。出会った時には随分と大人に見えたものだけど、実際彼は今のあたしと変わらないような年齢の姿だ。そう、六年前と、彼は姿が変わらない。白く儚げな少年のままだ。
 あたしは何も聞かない。彼もまた、何も言わない。
 彼の正体を暴けば、もう二度と逢えないような気がした。六年前には雪深かった山は、以前ほどの厳しさを見せなくなってきた。彼に逢いに行くたびに遭難を覚悟していたものだけど、穏やかなものだ。ちらちらと雪がやさしく降り積もる。悲鳴のような音をたてて吹きすさぶ、あの吹雪は遠くへ行ってしまったようだ。命を奪いかねない恐ろしいものだったはずなのに、いざ大人しくなってしまうと寂しい気がするなんて、不思議なものだなぁ、と笑う。
 ふんわりと積もる雪を踏み、あの小さな小屋を目指す。あたしがずんずんと進んでいると、なぜか彼は小屋の外で待っている。藍色の瞳と目が合う。吸い込まれるような夜空と同じ色だ。あたしはあの目と見つめ合うことが苦手で、いつも目を逸らしていた。盗みをやっている卑しさを見透かされたくないのか、それとも、それ以上の、あたしが気づいていないあたしの中の何かが恥ずかしがっているのか。
「ひさしぶりだね」
 ふわりと笑う彼の顔を、あたしはやっぱり直視できなかった。
「……そうね」
 視線は彷徨い、ふと彼の首から下がっている小さな袋を見つける。あたしがあげた、ラピスラズリがその中に入っているのだ。なんだかむず痒い。
「入らないの? 風邪ひくよ?」
 小屋に入らず立ち往生しているあたしを見て、彼は首を傾げる。入ることを躊躇ったんじゃない。なんだか、彼の影が薄いような気がして、目が離せなかったのだ。彼はこんなに線の細い人だっただろうか?
「平気よ。今日は温かいくらいだわ」
「最近はこれくらいの気温の方が多いね。雪が昔ほど積もらなくなった」
「……そうなの?」
 彼はあたしの隣に並んで、やわらかく照りつける太陽に目を細めた。雪原がきらきらと輝いている。
「年々、少しずつ温かくなってきているみたいだね。もしかしたら、この街から雪が消えるかもしれない」
「まさか! 常冬の、雪の街が? ありえないわ!」
 あたしは笑い飛ばすけれど、彼は淡い笑みを浮かべるだけで、何も言わなかった。


 彼の言ったことは、正しかった。
 雪の街は、やってくるたびにその白さを失っていった。道を、屋根を、野原を、山を、染め上げていたはずの白はじわりじわりと消えていく。一年ごとに訪れるからだろうか、以前との違いがはっきりと目で見て分かった。消えていく雪を思うたび、胸が苦しくなった。常冬の街が春を呼び始めた。妙な胸騒ぎが胸を襲う。あの、真白の、人ならざる彼は、凍てつく寒さの中にこそ存在して、春の芽吹きと共に消えてしまう気がしたのだ。
 彼は永遠に変わらないと、ずっとあたしの訪れを待っていてくれると、そう思っていた。
 会うたびに、彼は弱々しくなっていくようだった。触れてしまったら、瞬く間に消えてしまいそうな、そんな儚さが漂っていた。彼はただやさしく微笑んで、あたしの話に耳を傾けていたけれど、あたしの心は外の天気のように穏やかではなかった。


   *   *   *


 さくさくと、草を踏みしめる音が聞こえた。その音には昔のような軽快さがなく、何かに怯えるように、ゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。僕は苦笑しながら、首からぶら下がる小さな袋を握りしめた。硬い石がその中にある。なぜかほっとした。
 狭い小屋の中で座りこみながら、壁に背を預ける。もう立てなかった。
「小屋の中? いるの?」
 凛とした声が、震えるように問うてくる。
「……はいらないで。ひどい風邪をひいているから、うつってしまうかも」
 力のない声で、僕は嘘をついた。目を閉じて、彼女の鮮やかな赤い髪を思い浮かべる。出会ってから十年。彼女は二十歳になったはずだ。きっと、とても、びっくりするくらいに綺麗になったに違いない。僕は、十年前から少しも変わっていないのに。
「だから、今日はこのまま話をしよう? 壁はうすいし、こまらないだろう?」
 隣にいても、壁を挟んでいても、君は僕の目を見ないのだから、声が届けば問題はない。それにもう、外は温かいから。
「……いいわよ」
 薄い壁の向こうで、彼女が座る気配がする。お互いに壁に背を預けて、背中合わせで。
「驚いたわ。もうすっかり雪がなくなっちゃったのね」
「うん、すこし前に、残っていたわずかな雪もとけちゃったかな。山の奥のほうには、まだ残っているだろうけど」
「一昨年くらいから、ぐんと雪の量が減ったものね」
 しみじみと、どこか寂しそうに彼女が呟く。君の命を奪おうとした雪白を、いとおしんでくれるんだね。
「……ねぇ、あたし」
 躊躇うような声。いつもはきはきと話す彼女には珍しいことだな、と僕は笑った。昔は、こちらが相槌を打つ暇もないくらいにおしゃべりだった。
「あたしね、あんたが……」
 重い腕を持ち上げて、胸にある小さな石を握り締める。すぅっと不安が消えていくような気がした。
 十歳の頃の君と出会って、十年経った。僕の姿は、十年間変わらないまま。だというのに、君は、僕に何も聞かなかったね。僕が人でないということくらい、とうの昔に気づいていただろうに。
「ぼくはね」
 上手く動かない唇を動かして、声を出す。壁の向こうの彼女が、黙り込んだ。
「あのふぶきの日に、きみをたすけて、よかったとおもっているよ。きみにであえて、よかったよ」
 白く降り積もる雪に、埋もれそうになっていた少女は、今も僕の胸を焦がしている。
 すぐに返事はなかった。沈黙のあとで、壁の向こうから「あたしは」と彼女が口を開く。
「あたしは、あの時、死んでもよかったの」
「うん」
「でも、本当はいきたかった。終わりたくなかった。いろんなところへ行って、生きたかった。あんたはそれを叶えてくれた」
「うん」
「あんたに会えて、よかった」

 ――――うん。




 壁の向こうから声が消えてしばらく、あたしは黙ったまま空を見上げた。淡い空の青は、やさしい春の色だ。この街が忘れてしまっていた色。
 息を飲み込んだまま、うまく吐き出せない。あたしはそうっと立ち上がって、静かに扉を開けた。小屋の中には、誰もいなかった。さきほどまで話していたはずの少年の姿は、どこにもない。
 あるのは、水溜まりとその上に浮かぶ小さなお守り袋だけだ。濡れたそれを拾い上げ、唇を噛み締める。視界が歪んだ。

 あのね、あたし知っていたの。あんたが人じゃないって。それでもよかった。それでもよかったの。人じゃなくても、化け物でも、神様でも、何でもよかったの。いてくれれば、それでよかったの。

 濡れた袋から雫が落ちる。きらりと光るそれは、まるで涙のようだった。


 さよなら。
 さよなら、ありがとう。




 さよなら、いとしいきみ。











          冬の街に訪れた春は、あたたかくやさしく、どこかさみしい。





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