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愛の言葉より、もっと


 ヴィアンカは自分の婚約者であるエドワードが嫌いだった。信用していないとも言う。
 いつもいつも微笑んで、好きだと囁く。信じられるわけがない。言葉が軽すぎる。
 昔はそんな風に思うこともなかった。ヴィアンカとエドワードが婚約したのはお互い小さな子供の頃で、初めて出会った時の記憶がないくらいだ。幼い頃は兄妹のように仲が良かったし、少なくとも二年前まではヴィアンカもエドワードを邪険に扱ったりしなかった。

 二年前、ヴィアンカは姫という甘やかされるだけ立場から、女王という人を治める立場になった。健康だった父があっさりと死んでしまった。
 ヴィアンカ以外に子供はいなかったせいで、彼女は王になった。
 そうして十七歳という若さで政治に関わってくると、人間の汚い部分を否応なしに見てしまった。
 ヴィアンカの前では忠実な臣下を装っている貴族の男も、影では女などとヴィアンカを貶している。汚い言葉を使って彼女の悪口を零している。
 エドワードも変わった。
 今までは好きだなんて言ったことがなかった。なのに、ヴィアンカが女王になった途端に好きだと毎日のように囁くのだ。
 それがヴィアンカの不審を煽った。

 女王だから。
 だからヴィアンカに嫌われないように愛の言葉を惜しみなく囁く。
 ヴィアンカが女王でなければ、言ったりしない言葉も平気で使う。

 ヴィアンカはもう、誰も信じようとは思わなかった。



「ビー」
 女王であるヴィアンカを愛称で呼ぶ男など、この世で一人しかいない。
 蜂蜜色にきらめく金髪に、夏の空のような青い瞳の好青年だ。今年で確か二十四歳になる。
「そう呼ぶのはやめてって何度言えば分かるのかしら。あなたの頭ってそれほどの理解力もないの?」
 五歳も年下の少女に馬鹿にされているというのに、嫌な顔一つせずエドワードは微笑んだ。
「今日もご機嫌ななめみたいだな。姫君は」
「――もう姫じゃないわ」
「俺にとってはいつまでもお姫様だよ」
 ――ほら、またそういうことを言う。
 ヴィアンカは眉を寄せて眉間に皺を作る。昔はこんなこと言わなかったのに。
「あなたは暇なの? 毎日毎日城まで顔を出して。いっそ地方に飛ばしてしまおうかしら。そしたらもうあなたに会わなくて済むわね」
 それは良い考えかもしれないなんて本気で思ったヴィアンカに、エドワードは無駄だよと言い返す。
「そんなことしたって来年からは嫌でも毎日顔を付き合わせることになるよ。忘れたわけじゃないだろう?」
「……言ってみただけよ」
 忘れるわけがない。
 一年後、ヴィアンカはエドワードと結婚する。それは婚約する時に決められたことだ。ヴィアンカが二十歳になったら、何があろうと――それこそどちらかが死なない限り、結婚式は行われる。
「俺との婚約を白紙に戻す? そんなことしたらあちこちの男からアプローチされて今以上に面倒になると思うけど?」
 そんなことも分かっている。
 今更エドワードとの婚約を破棄して他の男から聞きたくもない口説き文句を聞くだけなら、このままエドワードと結婚したほうがましだ。

「――好きだよ、ビー」

 エドワードはヴィアンカの黒髪を一房つまみ上げ、口付ける。
 その絵になる様を冷たい目で見つめながら、ヴィアンカはエドワードと距離を置いた。
「忙しいから」
 そう言い捨てて、ヴィアンカはエドワードの下を去った。


 本気で好きになればきっと辛い。
 相手は本当の愛情を返してくれないから。



 昔ははしゃいでいた舞踏会も、今は億劫でしかなかった。
 綺麗なドレスも、心躍るようなワルツも、輝くシャンデリアも色褪せて見える。
 綺麗な貴婦人と踊るエドワードを見つけた。舞踏会が始まって一番最初に挨拶してきたが、周囲に怪しまれない程度に相手をしてそれからは無視した。
 優雅な仕草でエドワードは貴婦人の手の甲に口付ける。そう、あの程度のことは誰にでもすることだ。
 ――退屈。
 ぼんやりと王座に腰掛けて眺めていると、だんだんとエドワードが近くなってくる。

「踊っていただけますか。女王陛下」

 自分にそう話しかけられているのが自分なのだと、気づくのが遅くなった。
 にっこりと微笑むエドワードは、間違いなくヴィアンカを見つめていた。
「……ダンスは苦手よ」
「知ってますよ。俺を誰だと思ってるんですか」
 そう言って半ば強引にヴィアンカを連れ出す。しかもダンスというのは口実で――エドワードはヴィアンカの手を取り、そのまま会場を抜け出した。舞踏会は時間が経つほど賑やかで、女王がいなくなったということに気づく者も少なく、共に消えた相手が婚約者だということで気にかけない者も多かった。

「ちょっ……どこに行くの!」
「二人きりになれるところに。このあたりでいいか」
 会場から流れる音楽は、ここでも聞こえた。先ほどとは変わって気安く「踊る?」と問いかけてきたエドワードを睨みながら、ヴィアンカは首を横に振った。
「誰もいないところで、聞きたかったんだ。……ビー。俺のことは嫌い?」
 ヴィアンカは驚いた。まさか直球で聞かれるとは思わなかったからだ。
「――嫌いよ」
「どうして? 昔は嫌ってなんかなかった。……二年前までは。女王になって何があった?」
 何も、と言って顔を逸らそうとしたが、出来なかった。
 エドワードがとても真剣な顔をしていたから――。
「…………変わったのはあなたじゃない。いつもいつも好きだ好きだって――昔はそんなこと言わなかったわ。頼んでも言ってくれなかった」
「だから信じられない?」
 ヴィアンカは何も言えない。
 怖かった――エドワードが、本気で怒っているようだったから。いつも優しく微笑んでいただけのエドワードが。
「どうすればいい? どうすれば信じてくれる? 王となって、孤独なビーを支えようと、そう思ってきたのに」
「――何を、」
 言ってるの、と問おうとしたヴィアンカは息を呑んだ。
 逞しいエドワードの腕がヴィアンカの小さな身体をいとも簡単に包み込んでしまう。きつくきつく抱きしめられて、呼吸が出来ない。――胸が苦しい。

「愛してる、愛してる、愛してる――何度言えばいい? 何度言えば、信じてくれる?」

 耳に熱い息がかかる。
 激しく鳴り響く心臓の音は自分か――それともエドワードのものだろうか。
「離して、エドワード。苦しい」
「離さない」
 即答された。
 エドワードが話すたびに、ヴィアンカの耳に吐息がかかる。くらくらと眩暈がしそうだ。
「いつまでも優しい紳士でいると思った? 甘いよ、ビー」
「そんなこと、思ってない」
 ヴィアンカは答えながら、息を吐く。今までこんなに強く抱きしめられたことはない。優しい抱擁は小さな頃から何度もしてきたけど。コルセットよりも苦しいことなんてあったのか、なんてヴィアンカは思う。
 苦しいのは抱きしめられているから?
 いや、たぶん違う。
「どんな言葉ならいい? 愛してるじゃ伝わらない?」
 ヴィアンカはびく、と身体を震わせた。
 熱い吐息が耳元を、首筋をくすぐる。早くこの腕の中から解放されたい。そうでなければ、きっと今にも心臓が悲鳴を上げてヴィアンカの命を奪ってしまいそうだ。

 ああ、捕らわれてしまった。
 もう逃げられない。
 傷つくのが怖いから――自分が愛しているのに愛されないのは辛いから――だから嫌いになろうとしたのに。


「……言葉じゃ信じられないわ。言葉じゃなくて、もっと――」

 ヴィアンカの言葉は遮られた。言葉を紡ぐはずだったヴィアンカの口は、エドワードのそれで塞がれる。
 髪の毛にするキスでも、手の甲にするキスでもない。

「愛してるよ、ヴィアンカ」

 キスのあとにそう囁かれるのは悪くないなんて、思ってしまった。


 しかしヴィアンカは自分で言ったことを後で死ぬほど後悔した。
 まさか今まで毎日好きだと言ってきた代わりに、毎日キスされる破目になるなんて、想像もしていなかったのだから。
 

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