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たださいわいを祈る


 便りがないのが良い便り、なんて言葉がある。
 あいつらの場合もそれに当てはまるのだろうか。あの別れの朝から、もう二年以上が経っていた。
 手紙はいらない。そう言い切った過去の自分に苦笑しながら、揺れる馬車の中で目を閉じた。冷えた朝の香りは、どこでも変わらないんだなぁ、と思った。もうすぐ春がやってくる。あの空の高い村は、まだ寒いに違いない。
 俺は今、王都行きの馬車の中にいた。


 拝啓、リュカ様。
 綺麗な字で綴られた自分の名前に、背がかゆくなった。それは見知らぬ女性からの手紙で、住所は村までしか記されていなかった。村まで届いてしまえば、名前で分かる。いつの間に女ができたんだ、なんて冷やかされながら受け取った手紙の差出人は、ラナという女性だ。
 人違いじゃないだろうか、そう首を傾げて封を切り、よく知る二人の名前を見つけた瞬間、差出人が誰なのか分かった。ラナ。そうだ、確かに彼女の口から何度も聞いた名前だった。
 突然手紙を出したことを謝罪しつつ、見せたいものがある、と手紙には書いてあった。もし面倒でなければ、王都へ来てもらえないだろうか、と。どくんと心臓が鳴った。見せたいものというのは、たぶん、きっと、あの二人に関するものなんだろう。そうでなければこの女性がわざわざ俺に連絡してくるはずがない。手紙には悪い知らせとも、良い知らせとも書いていなかった。どちらだろうか。嫌な考えばかりが頭に浮かぶ。
 いてもたってもいられず、村を飛び出して、今に至る。しあわせにやってる。そう信じるから。そう信じているから。けれどやはり、音沙汰なく過ぎていく日々はただいたずらに不安にさせていった。


 朝早いというのに、あちこちが人でいっぱいだ。どこからこんなに湧いてくるんだよ、と呟きながら道の端による。人に酔いそうだ。誰かに道を聞かなければならないが、そんな力も出ない。朝飯もまだだったと気づいて、ちらりと物色する。気の良さそうなおばさんを捕まえた。
「ね、俺さ、今王都についたばっかりなんだけど、安くてうまいものって何かないかな?」
「なんだいお兄ちゃん、旅人か何かかい? 朝ごはんだったらあの端の店がいいよ。飲み物もサービスしてくれる」
 それから少し世間話をして、教えてもらった店へと向かった。こういうのは地元の人に聞くのが一番だ。特におばさんはおしゃべりだから聞きやすい。あいつがそんなことを言ったな、と思い出す。
 背も伸びた、手も大きくなった、力だってついた。けれどいつまでもあの大きな背中は遠い。たぶん、いつまでも越えることはできないんだろう。
 カランカランと扉の音が鳴る。店の中は混んでいるけれど、どうにか座れそうだ。カウンターの開いているひとつに腰を下ろすと、これまたいい人そうなおっさんが注文を聞いて来る。
「見ない顔だねぇ。旅人かい?」
「そんなとこ。オススメは何?」
 鶏肉ときのこのスープ、という答えに、じゃあそれで、と笑う。周囲にいるのはこれから仕事に行く人々なのだろう。
「どうぞ」
 横からコトン、と置かれたグラスにはオレンジ色の液体が揺れていた。サービスの飲み物だろう。
「どうも」
 忙しそうに飲み物を運ぶ少女に、あれ、と声が出た。視線を感じた少女が振り返る。そばかすの浮かんだ頬に、空色の瞳。ポニーテールにした金褐色の髪は、見覚えのあるものだ。
「フィネ?」
 あの空の高い村で、笑う女の子の面影が残っている。
「……リュカ?」
 お互い不安げに名前を呼んで、ほっと笑う。まさかこんなところで知り合いに会うなんて誰が思うだろう?
「そっか、そういえばおまえ王都の学校に行っているんだっけ?」
「そうよ。もう卒業だけど。ここに下宿させてもらっているの。学校に行く前に、ちょっとだけお手伝いをね」
 明るく笑うフィネは、あまり変わっていない。女は少し会わない間にがらりと変わるんだぞ、なんて村のおっさんたちは言っていたけど、そうでもないじゃないか。
「フィネ。そろそろ準備しないと遅刻するんじゃないかい」
 店のおばさんが奥から声をかけて、フィネは慌てた様子で「はーい!」と返事をする。
「制服に着替えなきゃ。リュカ、どのくらい王都にいるの?」
「わかんね。とりあえず用事を済ませてから少し観光がてらぶらぶらしようかと」
 そっか、とフィネは笑って、ぱたぱたと階段を上っていった。ちょうど料理が目の前に置かれる。
「フィネの故郷の人だったのかい」
 店のおっさんが皺を作りながら笑う。
「まぁね。偶然の再会ってあるもんだね」
「フィネの知り合いってんなら、サービスだ」
 スープの横についているパンに、さらに一個追加される。おまえさんくらいの年じゃ、それでも足りないくらいだろう? と笑うおっさんに、素直にお礼を言っておいた。
 二個目のパンを頬張っていると、またぱたぱたとフィネが階段を駆け下りてくる。紺色のワンピースに、同じ色の上着を着ていた。ポニーテールには白いリボンがつけられている。それだけだというのに、一瞬はっとするほど変貌していた。
「それじゃあいってきます! リュカ、夕飯の時にも来てね!」
 颯爽と扉から駆けだしていく背中に、きちんと返事をできたかどうか、定かではない。



 店のおっさんに道を聞くと、一瞬訝しげな顔をされた。まぁ当然だろうと思う。
 客として行くんじゃないよ、ちょっと知り合いがいてね。そう笑うと、おっさんもあっさりと納得したようだった。
 聞いたとおりの道を進むと、徐々に人が少なくなっていく。甘い香りが鼻にまとわりつくようだ。奥へ奥へ進むと、向こうに立派な館が見えた。
「あら、まだ開店前よ? ぼうや」
 まだ化粧の薄い、気だるげな女が微笑む。背筋を指先で撫でられるような感覚がした。
「いえ、ラナさんという女性に用があって……」
 ぼうや、という言葉に反論もできず、もごもごと口籠もりながら説明するしかできない。綺麗だけど、なんというか油断すると食われそうな気がする。
「ラナにぃ? 中にいるんじゃないかしら。入って」
 大きな扉を開けて、手招きされる。入るかどうか一瞬迷ったが、唾を飲み込んで館の中へ入った。館の中は、甘い香りに満たされていた。気分を害するほどの強い香りではないのにも関わらず、身体にまとわりついてくるような気がする。ラナー! とさきほどの女性が二階に向かって叫ぶと、すぐに扉が開く音がした。
「何ようるさいわねぇ」
「あんたに客よ」
 簡素なドレスを着た女性が、二階から下りてくる。その容姿に、ぎくりと身体を震わせた。災厄の乙女。ヒルダ。思い起こす嫌な記憶と、そしてしあわせそうに笑うマリーツィア。
 藍色のドレスが揺れて、ラナさんは俺を見て微笑んだ。色の白い、綺麗な人だ。その微笑みを見て、胸にひっかかった不安は消えた。なんでもヒルダに結び付けてしまうのは、俺の悪い癖なのかもしれない。
「はじめまして」
「はじめまして、もしかして、リュカ君かしら?」
 リュカ君、なんて呼び方に恥ずかしさを覚えつつ頷く。よかった、とラナさんは呟いた。
「向こうの部屋で待っていて。すぐに持ってくるわ」
 ろくに話もせずに、ラナさんはまた階段を駆け上がっていく。言われたとおりに広い部屋に入り、村では見たこともないような調度品に目を奪われた。貴族の館みたいだ。腰を下ろしたソファは、ふわふわすぎて落ちつかない。別世界だ。たぶん今回のようなことがなければ、一生足を踏み入れることはなかっただろう。年相応の興味はあるけれど、それ以上に違和感や戸惑いの方が強い。
「おまたせ」
 艶のある声にハッとして顔をあげると、ラナさんは紙の束を手に隣に腰かけた。花の香りがふわりと広がって、不覚にもどきどきする。
「マリーからの手紙よ。間隔をあけながら、これだけ届いたの」
 紐でまとめられた手紙の束を、いとおしそうに撫でながらラナさんは説明する。そして、束の中にはいない一通を俺に差し出した。
「……あの?」
 封筒にはしっかりと「ラナさんへ」と書いてある。いくらお互いの共通の友人だとしても、手紙を読むのは憚られた。しかしラナさんは何も言わずに微笑んで、手紙を俺に渡す。読めということなのだろう。見せたいものとはこの手紙のことだろうか。躊躇いながらも既に開けられた封筒の中から、便箋を取り出す。かわいらしく、けれど丁寧な字が見えた。

 お久しぶりです、お元気ですか。そんな言葉から書き始められた手紙には、旅が終わりを告げたこと、住んでいる場所のこと、自分たちのこと、いろいろなことが書かれていた。
 しあわせです、と念を押すように書かれた言葉に、目の奥がじわりと熱くなった。
 ――来年の春には、家族がもう一人、増える予定です。
 最後の一文を見た時には、もう限界だった。堪えていた涙があとからあとから溢れだして、ぽたぽたと落ちる。
 あの二人は、しあわせになれた。
 あの二人が、しあわせになれた。
 それはなんという救いだろうか。救いなんてないと思えるこの国に、そっとひらいた希望のような。
 信じていた。しあわせになるって。あの二人が一緒にいる限り。お互いを想い合い、お互いを大事にし合うあの二人なら、必ずしあわせになれるはずだって。けれど同時に、どこか不安でもあった。永遠なんてない。いつまでも二人でいられるとは限らない。もしかしたら、二人の道が別たれてしまうかもしれない。
 漠然とした不安が消えることはなかった。それを上回る想いはあったけれど、心の奥底でいつも燻っていた。
 けれどもう、疑うことはない。彼らはしあわせだ。これ以上ないくらいに、しあわせだ。

「……す、すみません」
 鼻水まじりの声で謝罪すると、ラナさんは優しく微笑みながら「いいのよ」と言う。差し出されたレモンティーで喉をうるおしながら、ふぅと息を吐き出した。
「私も、読み返しては泣いているわ。嬉し泣きだもの、仕方ないわよね。無事を祈るしかできない身としては、最高の知らせだったと思って。それで、あの子からの手紙にあなたのことが書いてあったから、せめてこれだけでも知らせようと思って」
 おせっかいだったかしら、という言葉に、首を横に振る。
「ありがとうございます。これで、たぶんこれからも信じていられる」
「ふふ、お役に立てたなら良かったわ」
 穏やかに微笑むその人は、この陰のようなひっそりとした世界でも、堂々と咲き誇るようなうつくしい女性だった。



 ぶらりぶらりと当てもなく見物して、朝の店に戻ろうと人込みを歩く。夕暮れに紛れて、泣いた跡も分からなくなっているだろう。
「リューッカ!」
 どん、と背中を叩かれて振り返る。ポニーテールが揺れていた。
「フィネ」
 目が合って、フィネがぱちぱちと瞬きする。
「……何か、あった?」
 どくんと胸が鳴った。泣いた跡がまだ残っているだろうか。つい頬に手が伸びる。
「やっぱり泣いたんだ」
「……やっぱりってなんだよ」
 不貞腐れたような自分の声。フィネはだって、と笑った。
「ヒルダをいじめて、レギオンに叱られてぼっこぼこにされるたびに、こっそり泣いていたじゃない。誰にも気づかれないようにさ」
「うるさい、なんておまえが知ってるんだよ」
 誰にも知られていないと思っていた。たぶんレギオンは知らない。いじめっ子の自分がやり返されて泣くなんて、そんな情けないところを見せたいなんて思うはずがないのだ。
「こっそりしているようで、こっそりしてなかったよ」
 昔から馬鹿だね、というフィネに、もう一度「うるさい」と言い返した。いいんだよ。
「これは、嬉し泣きのあとだから」
 それだけ言うと、フィネは目を丸くした。そしてふぅん、そっか、と笑う。噛み締めるようにそっか、とまた繰り返す。
「なら、いいんじゃない」
 悔し涙よりは、ずっと素敵だよ。夕暮れに照らされながら笑うフィネは、びっくりするほど綺麗だった。



   *   *   *



 他の音を奪ってしまうほどの風の音に、思わず目を細めた。
 足繁く通っていた頃と比べると、ここにやってくる回数も随分減ったな、と思う。相変わらず花が手向けられているが、その数は徐々に減ってきているようだ。
「おとうさーん! おかあさんが、ごはんだよってー!」
 そばかすの浮かんだ頬を赤く染めながら、七歳になる末娘が駆けてきた。息を切らした娘を抱き上げると、向こうに一人の青年を見つける。
 金色の髪の、その人は、生霊か何かと疑いたくなるくらいに、彼にそっくりだった。
「…………レギオン」
 久し振りに口にしたその名前は、今もやはり鈍い痛みと、それを越えるあたたかさをくれる。
「はじめまして」
 微笑む青年の瞳は、森の緑だ。そして勘違いだと気づく。そうだ、レギオンのはずがない。
「ライナス・オールディスといいます。今日は、叔母の墓参りに来たのですが……」
 オールディス。懐かしい名前は、花に囲まれた墓石にも刻まれている名だ。
「墓参りが終わったら、うちに来ないか。いろいろ、話したいことも、聞きたいこともあるんだ」
 いいですよ。そう答えた青年は、俺がそう言い出すのを分かっていたみたいだ。
「お元気そうで、よかったです。これで母と父への土産話も増えますしね」

 リュカさん、と。そう俺を呼ぶ声に笑う。あいつらは俺のことをなんて話して聞かせたんだろう? 娘を先に帰らせる。お客さんがくるよって、お母さんに伝えてくれるか。そう頼むと、元気よく頷いて駆けだしていった。



 さて、祈り続けた幸福を、手に入れたしあわせを、どんな言葉で語ろうか。


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