50title For you(ちとせの春/久弥・千歳)
君を好きだと言いたい
好きだ、という言葉はとても明瞭で、だからこそに重い。
「千歳」
意識しなくても他と聞きわけることができる、その低い声を久方ぶりに聞いた。
「久弥か。帰ってきていたんだな」
振り返った先にいた男は、旅装のままだった。困ったような顔でこちらを見つめてくる。すらりと背の高い、細身の男。武の里では珍しい、武器を持つことを厭う男。
山は赤く燃えている。秋風は寂しげに色づいた葉を地へと導く。
「おまえ、まだ独り身なのか」
どうして、と続く声に笑う。
「未だにふらふらと出歩いたまま嫁もいないおまえに言われたくはないね。それとも何かい、里の外に所帯でも持ったのか」
「そんなわけがあるか」
「へぇ。甲斐性なしだね、相変わらず」
実のところ、先代の族長が死んで喪が明けたころには身を固めろと話がいくつかあった。どの話どの相手にも頷かなかった私に呆れ、今ではもうそんな甘い話もない。
心が振れる男がいなかった。ただそれだけの話だ。
「おまえは族長だろう」
「だからといって、好いてもいない男と夫婦にならなければいけない理由はない。血筋で繋ぐ必要もないだろう。強い者が上に立つ。実にわかりやすい武の里のやり方が、あたしは嫌いじゃない」
さくりと枯れた葉を踏みしめて、久弥はこちらに近づいてくる。
「それならおまえは、ずっとひとりで生きていくのか」
今にも泣き出しそうな顔で、久弥は呟く。
馬鹿な男だ。そんな、わかりやすい顔をして。
「ひとりだとは、思っていないがね」
里はひとつの家族のようなもので、寂しさなんて感じる暇はない。たとえ番となるものがいなくても、時は流れていく。
「あたしにそんなことを言うのはおまえくらいのものだよ、久弥」
自分よりも少し高い位置にある頬に触れて苦笑する。指先で頬を撫でた瞬間に、久弥は顔を強ばらせて一歩後退った。
指先をかすめるぬくもりを刻みこんで、言葉を呑み込む。
「千歳」
再度あたしを呼ぶ声に、次は応えない。
応えてしまえば言葉が溢れる。
好きだという言葉は、とてもそう易々と声に出来ない。
「白妙」
まだ幼い娘の名を呼ぶ。ふわりと笑う幼子は、あたしの娘にしてはかわいらしい面差しだ。
「さくら」
満開の山桜に手をのばし、白妙は舞い落ちる花弁を掴もうと必死だ。
「桜が好きか、白妙」
「すき、だいすきです」
黒い髪についた花弁をとってやりながら、その小さな掌の上に乗せる。わぁ、と白妙はうれしそうに笑った。
「おまえは強い子だね、白妙」
「つよい?」
「好きなものを好きといえるのは、いいことだ」
素直なまま、まっすぐなまま育ってくれるといい。自分の想いを呑み込まないで生きていけるといい。
「しろたえは、ははうえがだいすきです」
えへへ、と笑う娘を抱きしめた。甘い香りがする。まだこの子は武器を持っていない。持たせるべきかも迷っている。
「あたしも、おまえが好きだよ白妙」
おまえが、好きだよ。
告げたい人は、もう一人いたはずなのに。
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