50title For you(エルンガルド/ライナス・アリア)

君は残酷なまでに純粋で

 ただただ純粋にこちらを見つめてくる眼差しが眩しくて、眩しすぎて、いつしか彼女自身を見ることができなくなっていた。

 父との朝稽古を終えて家に入ると、台所にはエプロンを着たアリアが立っていた。
「おはよう、ライナス」
 長くなった白い髪が揺れる。ふわりと嬉しそうに微笑む顔に締め付けられるように苦しくなる胸を押さえつけながら「おはよう」と微笑み返した。
「マリーさん、ちょっと具合悪いみたいだからまだ寝てるの。ごはんすぐ用意するね」
 もうすっかり家族の一員となっているアリアは、慣れた様子で朝食の準備をする。母さん相手だったら手伝うよ、と申し出るところだが、俺は「うん」と小さく答えて自分の部屋へ向かう。汗だくになったままだ、着替えてしまおう。
 あの森からアリアとカイルを連れ出して、もう三年だ。少女だったアリアも、今はもう十八歳で、一人前の女性と言っても違和感はないくらいに綺麗になった。カイルは一年ほど前に職人のもとへ弟子入りして、今では住み込みで修業している。

 ――アリアの、俺を見つめてくる眼差しに甘やかな意味に気づかされたのは、もう随分前のこと。

 もともとあのグリンワーズの森で出会ったときから、彼女が心を開いてくれたときから、幼い少女の胸に芽生えたであろう感情に、気づいていた。
 双子の弟と手に手をとって、互いだけが頼りに生きていた人生に突然現れた年上の男というのは、それはそれは魅力的に見えただろう。だから気づかないふりをして、その幻想とも思える憧れを打ち壊さずにいた。初めてであろうその憧れを壊してしまうには、彼女は世界を知らなさすぎたから。どうせこれから広がっていく一方の世界に出れば、こんな単純な憧れなんて消え去るだろう。――そう思って。
 しかしその予想は見事に裏切られて、今もなおアリアは熱を帯びた瞳で俺を見つめてくる。
 彼女の中で俺はどれだけ完全無欠のヒーローになっているのだろう。
 俺はそんなにできた人間じゃないし、そんなに素晴らしい人間じゃない。彼女が思い描いているような王子様じゃないし、王子様にもなれない。

 その後張り付いた笑顔のまま朝食を済ませ、呆れたような父に見送られて町へ向かう。母さんに頼まれてカイルに荷物を届ける約束だったのだ。
 ガラス職人のもとで修業しているカイルは、もうすっかり青年になっている。白い髪は短く切りそろえられ、意外に力仕事が多いんだよ、と笑って言っていたのも嘘ではないのだろう、たくましくなった。
「ライナス」
 俺を見つけると、緑色の瞳がぱっと嬉しそうに輝いた。未だにカイルも俺を慕っていてくれて、それは純粋に、嬉しいと思える。
「母さんから預かってきた。新しい服とか、入っているらしいよ」
「え、本当に? いつまでたっても頭が上がらないな」
 もうすぐ春になるから、と母さんは家を出たカイルの新しい服を拵えたらしい。それ以外にも何かをいろいろ詰め込んでいたようだ。母さんにしてみれば血のつながりがなくてもアリアもカイルも自分の子どものように思っているのだろう。もしかしたら、それ以上に思っているのかもしれない。かつての自分と同じように、その容姿に苦しんだ子どもだから。
「今度は家に顔出してやれよ。母さん心配してるし、口に出してはいないけど父さんも気にしてるからさ」
「ん。今度夕飯にでもお邪魔するよ」
 邪魔なんかじゃないよ、と俺は笑う。弟というのはこういう感じだろう。くしゃりとカイルの頭を撫でて、そんなことを思う。
 すると、緑色の瞳が俺をじっと見ていた。
 母さんに見られるときにも思う。深い緑の瞳は、こちらの胸の内を見透かすような、不思議な光がある。
「あのさ、ライナス」
 名前を呼ばれてどきりとする。カイルは一瞬口を開いて、また躊躇うように閉じる。

「――アリアの気持ちに、応えるつもりないなら、さっさと振ってやってよ」

 がつんと殴られるような、鈍い衝撃。
 カイルはこちらが逃げることも許さないとでも言いたげに、言葉を続ける。
「アリアももう十八歳だし。いつまでも初恋引きずり続けるわけにもいかないだろ。今のままじゃ、あんたもアリアも辛くなるだけだよ」
 あんたやさしいからさ、とカイルが苦笑する。
「もうすぐ、花祭りだよ」
 エルンガルドの町の、恋人たちの、愛し合うものたちの、祭りだ。男が好いた女に愛を告げる、愛を捧げる、港町の情熱的な祭り。
「アリアはいつもこの季節になるとそわそわしてる。あんたから花をもらえるんじゃないかって」
 まだ想いを告げていない男は、想い人に花を贈る。その花を受け取ってもらえれば、相思相愛だっていう、そんな、港町の恋の季節だった。
 ――アリアが期待していることにも、気づいていた。
『花祭りってなに?』と純粋な瞳で問いかけてきて、その祭りを教えてやったあのときから、アリアは俺から花を贈られる日を待ち焦がれているんだろう。
「……なんだって、俺なんかがいいんだろうな」
 今まで零さなかった思いが、ぽろりと口に出た。
 もっといい男なんて腐るほどいるだろうに。それこそ、アリアに花を贈りたいと思っている男がいることも知っているし、去年あたりは実際に幾人かに花を差し出されたのだろう。
 けれどアリアは、誰からも花を受け取らなかった。
「あんたは俺たちからしたら、永遠にヒーローなんだよ」
 カイルは笑いながらそう告げる。少し照れているのは、そんなことを言うのは気恥ずかしいからだろう。
「あの森から連れ出して、世界を教えてくれた。闇の底から光ある場所へ引き上げてくれた。男の俺からしても、かっこいいヒーローなんだから、アリアからしたら王子様なんだろうさ」
「……王子様なんて柄じゃないよ」
 苦笑すると、カイルは「そうだろうね」と笑った。もう三年以上の付き合いだ、さすがに俺の性格だって熟知しているだろう。それはもちろん、アリアにも言えることだ。
「でも恋する女の子なんて、そんなもんだよ。どんなに情けないところでも素敵だって見えちゃうんだろ」
 アリアも例外じゃないよ、とカイルは告げる。緑の瞳が、俺を責めるように見つめてくる。おまえがはっきりさせろ、と。
「不毛な恋なんてむなしいだけだよ。もう三年だ。夢から覚めたっていい頃だろ?」

 ――弟としてアリアが必死で守っていたはずの少年は、すっかり大人になっていた。
 三年前から動けずにいるのはアリアだけじゃない。きっと、俺もあの時から何一つ変われないままなんだろう。




 夕暮れの港町を歩いていると、白く長い髪が少し先で揺れているのを見つけた。野菜を買いながら、店の跡取り息子が赤い顔でアリアに何やら必死で話しかけている。アリアは困ったように微笑みながら、距離をとりつつ野菜を受け取っていた。
 白い髪に、澄んだ青い瞳、肌は白く、華奢な身体はこのあたりでは珍しい方で、男はたいてい庇護欲をそそられる。
 この店の息子も、自警団の新入りも、どこぞの金持ちの次男も、アリアを狙っているって噂だぜ? といらない情報を仕入れては俺の耳に入れてくる知り合いたちに、溜息が出る。
「アリア」
 ――そして、どうして俺は声をかけてしまうんだろう。
「ライナス!」
 アリアはぱっと目を輝かせて俺を見上げた。ああ、眩しい。直視することなんてできないくらいに、眩しい。
「買い物?」
「そう、夕飯の材料足りないかなって」
 俺が隣に歩み寄ると、アリアは目に見てわかるほどに嬉しそうに笑っている。目の前の男をちらりと見ると、呆然としたあとで、苦々しい表情になった。残念だったな、と仄暗い感情が芽生える。アリアは、俺が好きなんだよ、と。
 そのアリアを見つめ返すこともできないくせに。
 その感情を、終わらせる一言も告げられないくせに。

 アリアの純粋な眼差しは凶器だ。人の胸を刺したまま、抜けない。

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