50title For you(エルンガルド/ライナス・アリア)

君を傷つけたくない

 たった一言告げれば終わる。
 彼女の甘い初恋も、俺のこの苦悩も。


 家に帰ると、ちょうどアリアは買い物に出ているのか、いなかった。父さんと母さんがのんびりとお茶をしている。
「おかえり、ライナス」
 白い髪を揺らして母さんが微笑む。こんなでかい子どもがいるなんて誰も思わないだろうというくらいに、母さんは若々しい。
 ちらりと父さんを見て、俺はタイミングがいいな、と思った。この機を逃したらたぶん、言うチャンスはない。
「あのさ」
 ぐ、と拳を握りしめて口を開く。緊張で口の中が渇いていた。
 父さんの紫色の瞳が、穏やかに俺を見つめ返す。どうした、と言葉にせずとも問いかけてきていた。

「俺、旅に出ようと思うんだ」

 もうすぐ、エルンガルドの花祭り。
 ――アリアが待ち望む、恋の季節がやってきていた。



 はぁ、と重い溜息を父さんが零す。それは静まり返った部屋の中で、やけに大きく響いて聞こえた。
「……まだ逃げる気か」
 呆れたような、そんな声に唇を噛みしめる。逃げる。そう、これは逃げなのだろう。俺はもうこれ以上、アリアの傍にいたくなかった。目映い彼女の傍にいると、苦しくてしかたない。
 けれど、これは――最後の逃げだ。
「俺はしばらく戻らない。アリアもきっと、目が覚めるだろ」
 はっきりしない俺よりも、いい男はたくさんいる。このエルンガルドにも、父さんが認める男はいるはずだ。
「ライナス」
 咎めるような母さんの言葉は、父さんの身振りで遮られた。どうして、と言いたげな顔で母さんは父さんをじろりと睨む。
「……いいんだな?」
 それは何に対する「いい」なのかわからず、俺は曖昧に笑みを零す。父さんはじっと俺を見返し、口を開いた。
「おまえがそのつもりなら、俺もマリーツィアも親代わりとしてアリアに良い相手を探す。おまえが知らないうちに嫁に行っている――なんてこともあるかもな」
 旅に出るなら、と父さんが意地の悪いことを言う。そうだ、それを覚悟の上で行くと決めた。そのほうが、きっとアリアは幸せになれるだろう、と。
「……父さんの眼鏡にかなう男なら、安心だろ」
 少なくともアリアを不幸にするような男は選ばないはずだ。そう、たとえば俺のような。
 紫の瞳が、俺の本心を探るように見ている。俺は見つめ返すことができなかった。父さんと俺はとてもよく似ている。見た目も中身も、ともっぱらの評価だけど、俺は違うとそのたびに苦笑した。
 俺は、父さんのようにはなれないよ。
 俺は、たった一人のヒーローにも、王子様にもなれないんだ。その程度の、小さな男だよ。
 父さんの影を追って、間違った背中を見せて、ひとりの少女に与えてはいけないあこがれを与えてしまった。幻想なんだよ、と早く気づいてほしい。
 ――応えてなんてやれない。
「……いいんだな?」
「くどいよ。……明日にでも出る。早い方がいいだろうから」
「アリアには?」
「言うよ。言わなきゃ変だろ」
 さすがにそこまで避けられるはずもない。こうして、家族同然に暮らしているんだから。
「カイルには明日出立のときにでも挨拶しようかな。もともと、行ってみたいところもいくつかあったんだ」
 父さんと母さんの故郷である国へ行ってみてから、旅そのものには興味もあったし通り過ぎるだけだったいくつかの国はもっとじっくり回ってみたいと思ったものだった。帰りに寄ってみようかと思ったんだったっけな、と苦笑する。帰りは、アリアとカイルがいた。
「……ライナス」
 ずっと黙っていた母さんが、いつもよりも険しい表情で俺の名前を呼んだ。
「言っておくけど、女の子はあなたが思っているほどか弱くもはかなくもないからね。こんなことで逃げ切れると思っているなら、見当違いもいいとこだから」
 ぎくりと、心臓を握りしめるような宣言に言葉を失う。けれど同時に思う。だって、あんなに華奢で、抱きしめれば壊れてしまうそうな危うさがあるのに。あんな、純粋にあこがれを露わにできるほど、清らかなのに。
「それでもライナスには考える時間が必要なんでしょう。だから止めないけど、危ないことだけはしないでね。あとできるだけ手紙はよこしなさい」
 よしよし、と幼子のように頭を撫でられる。何歳だと思っているんだよ、と思いながらも大人しくその手のひらを受け入れた。


 たった一言告げれば終わる。
 彼女の甘い初恋も、俺のこの苦悩も。
 ――好きじゃないよ。
 ただそれだけだ。好きじゃないよ、好きにはならないよ、と。


「……ライナスが、旅に?」
 買い物から戻ってきたアリアに告げると、彼女は青い瞳を見開いて呆然と呟いた。
「ど、どうしてこんな急に――」
「急じゃないよ、ずっと考えていたんだ」
 それは――そう、もう一年近く前から。
 私のせい? と問いかけたくても口にできないような顔で、アリアは俺を見つめてくる。それをわかっていながらも、俺は何も言わない。言えばこの均衡は旅立つ前に壊れるからだ。
「どこに、行くの?」
「特には決めてない。そうだな、北のほうに行くかな。ぶらぶらあちこち見て歩くつもりだから」
「帰って、くるの?」
 アリアの小さな問いかけに、俺は笑った。ここで希望を持たせるな、突き放せ、と自分に言い聞かせる。
「しばらくは帰らない」
「しばらくって……」
「さぁ、どのくらいになるかな。気がすんだら帰ってくるだろうけど」
 待つな。
 頼むから、俺を待とうなんて思わないでくれ。

 俺は、アリアの王子様にはなれないよ。
 そんな器じゃないんだよ。

 けれどせめて、君を傷つけないように離れるから。決定的な言葉を告げないまま、時がアリアの想いを消し去るまで、俺はいなくなるから。

 だから、どうか。俺を待たないで。




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