50title For you(エルンガルド/ライナス・アリア)
君にあげたいものがある
冬は終わり、春の足音が聞こえてくる。
「――お客人? どうしたんだい?」
足元でひっそりと咲き誇るその花を見て、俺は息を呑んだ。
*
父に対してコンプレックスがないかと言われれば、答えは否だ。
そもそも男でも女でも、十人いたら十人が「あれはいい男だね」なんて言われるような男を父親に持って、しかも顔がそっくりだなんて不幸以外のなにものでもない。もうけっこういい年のくせに剣でも勝てたためしがないというのもますます劣等感を刺激する。
けれど結局のところ、俺は両親を愛していたし、尊敬している。
世界に星の数ほど男と女がいて、その中で自分の愛する人が自分を愛してくれているというだけで、奇跡のようなことなのに。その奇跡を上回るほどの愛と信頼の関係を幼い頃から見せつけられて、俺が恋に臆病になるのも仕方ない――と思いたい。
もうすぐ故郷では花祭り。
何かに吸い寄せられるように、俺は隣国まで戻ってきていた。
「――この花、どのくらいもつかな」
膝をつきそっと緑の葉に触れる。案内してくれていた村人に問うと、さてねぇ、と彼は笑う。
「まだ蕾だし、鉢植えならそれなりにもつんじゃないかい?」
そうか、と小さく呟く。
「案内はやっぱりいいよ。代わりにそうだな、鉢になるものがあれば、売ってほしいんだけど」
案内人は目を丸くした。なんだい、そんな花珍しいもんじゃないぞ? とこちらの奇行に驚いている。うん、珍しい花じゃないのは知っているんだ。
けれど、故郷とは気候が違うからだろう。近くで咲いているところなんてなかったし、あの森を去って以降この花を見るのは今日がはじめてなのだ。もとより冬の終わり、春のはじまりのほんのわずかな瞬間にのみ咲く花だ。今こうして見つけたことだって奇跡に近い。
「ほら、これでいいかい。それにしても急にどうしたってんだ」
親切にもちょうどいい大きさの鉢植えと、それを持ち運ぶための袋まで用意してくれる。ありがとう、と答えながら案内の謝礼に少し上乗せして渡した。
「ちょっとね」
そっと花を掘り起し、根を傷つけないように鉢に植え替える。
「――王子様に、なりにいこうと思って」
たとえばもしも、俺が君に花を贈るとしたら。
それは、君に相応しい、この花だと思うんだ。
*
森のなかの、土の匂いと緑の匂いは遠ざかる。
潮の香りを吸い込むと、ああ帰ってきた、と思えるくらい、俺はやっぱりこの港町が好きなんだろう。近づくにつれてあんなに逃げ回っていたことが馬鹿らしくなるくらいに急いでいた。だって、花が萎れてしまうから。そんなとってつけたような理由で、日の出を共に目覚めるとすぐに出立した。
「お客さん、こんな朝早くに行くのかい」
宿屋の主人が苦笑しながら声をかけてくる。
「急いでいてね」
「エルンガルドは今ちょうどお祭りなんですよ、楽しんでくるといい」
華やかでいい祭りだ、と親切な主人に知っているよ、と笑う。
「そこの出身でね。帰るんだ」
答えると主人は「なるほど」と納得した。そして少し眠そうに手を振って見送ってくれる。
「健闘を祈るよ」
急いで帰りたい理由まで察したのだろう、苦笑して俺は馬に乗った。
そう離れていない隣町で宿をとったのも、心の準備のためだった。
それと、もし花が枯れてしまったら引き返そうと思った。
世界に星の数ほどいる人の中で、自分が好きな人が同じように好いてくれることがひとつの奇跡で。遠く離れたあの森で、君に見せたこの花を、あの瞬間に見つけたことがふたつめの奇跡なら。
みっつめの奇跡を信じて、俺はこの花を、君にあげてもいいかな。
アリア。君がまだ、俺を好きでいてくれるなら。
強い風が吹き付ける。
町から離れたその家は、俺が生まれた時から住んでいる。
風に白く長い髪が揺れていた。洗濯物を飛ばされないようにと握りしめながら、青い目を細める。遠くからでもその様子がはっきりとわかった。
今は、エルンガルドの花祭りだよ、アリア。洗濯物なんて母さんに任せればいいのに。君に花を贈りたい男は、たくさんいるだろうに。
さくり、と草を踏む。
アリアが振り返った。青い目が大きく見開かれる。
「……ただいま、アリア」
苦笑して告げると、アリアは何度が瞬きをして俺を見つめていた。
「……ライナス?」
「うん」
「かえって、きたの?」
「……うん」
どうして、と小さな唇が震えていた。そうだろう、まさか俺だって一年で帰るとは思わなかったよ。
「アリア、俺はさ、正直いい男じゃないと思うし王子様なんてガラじゃないし、臆病者で逃げ癖があって、実際逃げてばかりで、どうしようもない男だけど」
でも、と大切に袋に入れて、ここまで運んできたそれを取り出す。
小さな鉢植えの、春を告げる花。冬の終わりに、希望を告げる花。
「……スノードロップ」
アリアがその花の名前を、小さく呟く。あの森で、俺が見せた花。
「受け取ってくれる?」
白い指先が花に触れようと伸ばされて、震えている。鉢を握りしめる俺の手も、情けないことに震えていた。
「そういう意味だって、思っていいの?」
ライナス、と確かめるように名前を呼ばれる。
「今は、花祭りだよ」
異性に花を贈る、たったそれだけのことが、大きな意味を持つエルンガルドの恋の季節。臆病者はそのことに触れずに、卑怯に花を渡そうとしていたのに、アリアはそれを容赦なく暴く。
「知っているよ、だから、今帰ってきた」
俺の言葉を聞いて、アリアはくしゃりを泣きそうな顔をした。震える指先が、俺の手ごと包むように鉢を受け取る。
「臆病者でも、どうしようもなくかっこ悪くても、ライナスがいい」
その後、とっくに俺の帰宅に気づいていた両親に「おかえり」と微笑まれてほっとしたところに、父親に殴られそうになって母親がそれを止めて、しかし止めたはずの母親に平手で引っぱたかれたのは、自業自得ということにしておく。
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