50title For you(グリンワーズ/レギオン・マリーツィア)
君の言葉に救われる
港町に流れる風はいつも湿り気を帯びている。潮の匂いにも随分慣れた。街から外れた小さな一軒家、近づくと夕食の準備をしているのだろう、ご機嫌な鼻歌とよい香りが漂ってくる。
「ただいま」
扉を開けてすぐにあるリビングとキッチン。鼻歌を歌っていたマリーツィアは振り返りながら微笑んで「おかえりなさい」と言った。
ここで暮らすようになって、何年だろう。ライナスが間もなく成人だから、それよりも長いということだけは分かる。俺も老けた。
「すぐごはんにする?」
「いや、いい。ライナスは?」
「お使いに行ってもらってる。明日の朝ごはん用だけど」
マリーツィアはあまり変わらない。白い髪は肩くらいまでの長さしかなく、白い肌は出会った頃と変わらず白いまま。昔よりは落ち着きがあるかもしれない。
「ねぇ、レギオン。ライナスがね、グリンワーズに行きたいんだって」
スープをかき混ぜながら、マリーツィアが小さくこぼした。
グリンワーズ。懐かしいーー懐かしすぎる名だった。もう忘れかけていた、いや、忘れることは出来ないまま、心の奥底へとしまい込んでいた名前。
マリーツィアは振り返り、無言で問うてきた。どうする? と。
「正直、私はラナさんやリュカの様子も知りたいし、ライナスが行ってみたいというのならいいかなって思うんだけど、レギオンはどう思う?」
ライナスももう子どもじゃない。自分の身は自分で守れるようにと鍛えてきたし、世界を見てみたいというのなら、旅に出るのもいいだろう。なぜグリンワーズなのか、という疑問は少なからずあるが。
「いいんじゃないか」
別に反対するほどのことでもない。そう答えると、マリーツィアは苦笑しながら「そう?」と呟くだけだった。
ことことと、鍋の音。
聞こえ始める鼻歌まじりの歌。
こんな時間のなかで、ときおり途方もない不安に襲われる。
これでよかったのか、と。
この選択は間違いではなかったのか、と。
あの王国から、ここまで離れた土地でなくてもよかったんじゃないのか。もっとうまくやれば王国を離れなくても暮らしていく方法はあったんじゃないのか。
マリーツィアがしあわせになれる場所を。そう考えて求めてきた土地だけど、きっとどこを選んだところで俺は迷い、不安になる。
彼女は、俺とともにきて正解だったのか。
「レギオン」
呼ぶ声に、はっとする。気づけば目の前にマリーツィアの顔があった。
マリーツィアはその深い緑色の瞳で俺を見つめる。見透かすようなその目は、こういうとき目をあわせにくい。
けれど目をそらすことを許さないとでも言いたげに、マリーツィアは俺の両頬をその手で包み込んでしまう。
「しあわせよ」
ふわりと微笑んで、彼女は言う。
ああ、やはり心の中まで見透かされていたのだ。
「私は、しあわせだよ」
白い指が、俺の頬を撫でて念を押すようにもう一度。
じわりと染み込むその言葉は、凝り固まった不安をいともたやすく溶かしてしまう。心のうちを読まれているように感じるのは昔からだ。深緑の瞳は、やわらかく俺を見つめている。
年甲斐もなく目頭が熱くなる。ああくそ、さすがにこんなことで泣かされるわけにはいかない。
「ただいまって……いちゃつくならあとにしてくれない」
がちゃりと扉が開いて、呆れたような声が聞こえる。
「いちゃついてないよ、レギオンが目にゴミが入ったっていうから」
「はいはい」
買ってきたのは明日の朝のパンだろう。マリーツィアに手渡して、ライナスはそのまま夕飯の準備を手伝い始めた。
くすくすと笑うマリーツィアを睨みながらも、ありふれた日常の光景に目を細めた。
ああ、そうだ、しあわせだ。
それが確かにわかるのだから、この選択は間違いではなかった。たとえ別の道があり、別のしあわせがあったとしても。
しあわせだと告げる彼女がいる限り、俺はきっと不安からすくいあげられるんだろう。
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