白雲にまがふ桜の梢にてちとせの春を空に知るかな





ちとせの春







 夢を、見た。
 懐かしい女の夢。
 目が覚めると身体は汗でじっとりと湿っており、心臓は早鐘を打っている。そして心の中では幻の女の姿にどうしようもなく焦がれていた。
 ――とうの昔に、手に入らぬと諦めたもの。




 そこにあるのは、見渡す限りの緑だ。連なる山々には里が点在しており、土地を争うものもいれば隠れ住むものもいた。
 武の一族と呼ばれるその一族は、戦いを生業としているものの自ら他の地へ侵略することを良しとしない一族だ。雇われ戦うものが多く、獣を狩り山を駆け生活している。武の一族の女は嫁にもらうな、と言われるほどに女性たちは気が強く、男顔負けに剣を振るい、弓を操る立派な武人だ。
千歳ちとせ姉、いつまで独身でいるつもりなんだい?」
 煙管を加えながらぼんやりとしていると、そんな質問をされた。呆れたような顔で立っていたのは妹の薫子かおるこだ。昨年の冬に嫁いでいったが、相手が里の男だったのでこうして良く千歳のもとへやってくる。
「いつまで、と言われてもねぇ。あたしは自分より強い男じゃなきゃ認めないと言っているだけだよ」
 ふう、と紫煙を吐き出して千歳はにやりと笑う。
「そんな男、この里に何人いるっていうんだい。ただでさえ族長のところへ婿入りしたがる男なんていないのに、条件をさらに狭めたら嫁ぎ遅れるよ」
「それならそれで別にかまわないよ。どうせ私はもう二十七歳だ。とっくに適齢期は過ぎている」
 五年前に死んだ父の後を継いで一族の族長になった千歳だったが、その頃にはもう結婚する意志なんてなくなっていた。里の女では一番強く、また男でも負かすことのある千歳を嫁にと考える奇特な男がいなかったという理由もある。
「後継ぎは養子でもいい。あんたのところに子どもが出来たらその子でもいいね。今更急いて相手を探す方が面倒だよ」
 あたしを嫁に、と言ってくる男がいるなら考えてやってもいいけどね。そう千歳は呟いて手元の書面に目を落とした。巡回の報告書だ。自ら戦いを仕掛けることのない武の一族だが、恨みを買うことが皆無というわけではない。戦いを仕掛けられることも少なくないので周辺の巡回は欠かせなかった。
「……久弥ひさやが帰って来ているよ。あとで千歳姉のところにも来るんじゃない」
 久々に聞く名前に、千歳は一瞬固まった。咥えていた煙管が落ちそうになる。
 意地をはるのもいいかげんにしたら、と言い残して薫子は去った。千歳は苦い表情でため息とともに煙を吐き出す。
「……意地というわけでもないんだけどねぇ」
 煙管を置き、髪を掻きあげながら小さく笑った。


「――久しぶり、千歳」
 そう言いながら微笑む男とこうして顔を合わせるのはいつ以来だろうか。昨年の秋にふらりと帰って来たから、およそ半年ぶりか。
「何をしに来た」
「ひどい言い草だな。自分の故郷に帰ってくるのに理由がいるのか?」
「ふらふらとあちこち歩き回って年単位で帰ってこないあんたがこう頻繁にくるなんて、何かあるに決まっているだろう」
 最長で三年、何の音沙汰もなかった。もしかしたら、なんて悪い考えが頭をよぎった頃になってふらりと里へ帰ってくる。
「本当に理由はないよ。近くまで来たからさ。たまには里でゆっくりしようかなぁと思って」
「……勝手にすればいい」
 どうせ言っても聞かないんだから、と千歳が告げると久弥は笑いながら「勝手にするよ」と返した。

 久弥はもともと武の一族の子ではない。
 連なる山のどこかにある、夢占ゆめうらの一族の子だった。かの一族は不思議な能力を持っており、夢によって過去や未来を視ることができるという。しかし実に非情な一面があり、力を持たぬ「能なし」の子は成人である十五歳を迎えるまえに捨てられるのだ。その大半が五歳にも満たぬ子どもの頃に捨て去られる。
 久弥も能なしであり、三歳の頃に捨てられて一人山の中で衰弱していたところを武の一族の者が見つけ保護したのだ。久弥は一族の他の男たちに比べると線が細く、筋肉があまりついていない。剣を握らせてもあまり上手く扱えず、久弥は早々に戦いに身を置くことを諦めた。
 千歳はそれがどうも気に入らなく、若い頃はどうにかして久弥に訓練を受けさせようとしたものだ。そもそも本来ならば久弥よりも腕力の劣る女たちが男顔負けに剣を操っているような一族だ。多少体格が他より貧弱だとして、諦める理由にはならない。
 剣を差し出す千歳に、久弥は決まって言った。
『俺はね、戦いが苦手なんだ』
 弱いとか強いじゃなく、争うことが。剣を振るうことが。俺は臆病者だから。
 そう微笑んだ久弥に、千歳は戦いを押しつけることはできなくなった。


 空には満月があった。いつもならば薄暗い山の中も、今日だけは月明かりのおかげで明るい。
「もう春だっていうのに、ここは相変わらず寒いなぁ。山を下りれば、もう春爛漫だぞ」
 剣を腰に穿き、背には弓を背負っている千歳のあとを久弥はそんな暢気なことを言いながらついてきた。久弥が里に戻ってこれで三日目になるが、何故か鬱陶しいほどに久弥は千歳のあとをついてきた。
「山だってもう花くらい咲いている。だいたい何なんだ、おまえ。金魚の糞みたいに人のあとをついてきやがって」
「相変わらず口悪いなぁ、おまえ」
 くすくすと笑いながら久弥が呟いた。
「笑っている場合か。最近では里の近くで怪しい人間がうろうろしているって報告もある。危険だからとっとと里へ戻ってろ」
「ああ、だから族長自ら見回っているのか」
 なるほどね、と納得しながら久弥はまだ冬の気配の残る山の中を見回した。帰る気はなさそうだ。普段族長が一人で里の周辺を見回るなんてことはしない。
「……こちらから喧嘩を売ることはないが、昔から恨みは買う一族だからな」
 覚えのないことで攻撃されることには里全体が慣れている。そうでなくても武力のある一族を恐れた奴らが卑怯な手段に出ることも少なくはない。
「なら護衛でもつけたらどうなんだ、族長殿。あんたが頭なんだ。失うわけにはいかない」
「私よりも弱い護衛をか? 意味がない」
 はん、と鼻で笑って千歳はさらに奥へと進んだ。山で育った彼女は足場の悪いところでも淀みなく歩く。
「……千歳、もういいだろ。そろそろ里へ戻ろう。夜も更けてきた」
 さらに奥へと進もうとする千歳の背に、久弥が声をかけた。いつもより少し真面目な声に、千歳の胸は小さく鳴った。まるで少女の頃へ戻ったようだ。以前であれば少しは意識したであろう二人きりの状況も、茶化すことの多い久弥の時々見せる真面目な一面にときめくのも、もうずっと昔に忘れたもの。
「この先を見てから帰る。そんなに帰りたければおまえだけで戻ればいいだろ」
 恥ずかしさを誤魔化すように、千歳はぶっきらぼうに答えた。背後からは困ったような気配がする。たぶん久弥は困っているくせに、こちらをみて「しょうがないな」と微笑んでいるに違いない。昔からそうなのだ。千歳よりも弱いくせに、年上だからと大人ぶるのは。
「女一人残して帰るわけにはいかないだろ」
 久弥はそう言いながら千歳の隣に並んだ。なんで、と千歳は動揺する。さっきまでは後ろをついてきたじゃないか。
「向こうに何があったっけなぁ」
 もう長いことこの山を歩いてないから忘れた、と久弥が苦笑する。久弥が里の外へと出歩くようになったのは十八の時で、もうかれこれ十年以上経つ。
「……特に何かあるわけじゃない。ただ、入り組んでいて人が隠れやすいんだ」
 ちょうど今歩いているところは少し行くと地面がなくなる。三メートルほど下に降りることになるのだが、そこが少し抉れたようになっているので人が身を隠しやすいのだ。雨を凌ぐこともできるし、山で一晩過ごす時には便利なのだがそれは里の敵にとっても同じことだ。
「降りるのか? 誰かいるようでもないし、いいんじゃ――」
「人がいた痕跡があるか確認する」
 上から下を覗き込み、千歳は迷いなく飛び降りた。足元にあるのは柔らかい土だ。上手く衝撃を吸収してくれるので慣れた千歳には何の問題もない。久弥はそれに続くように降り立った。少しバランスを崩したのはお愛嬌だ。
 千歳は降りるなりすぐに足元を確認した。落葉の合間には早くも春の気配がある。その他に何かないかと真剣になる千歳の隣で、久弥は妙にそわそわとしていた。
「なんだ、これは――」
 千歳が刃物か何かの破片を拾い上げ、月明かりに照らそうと立ち上がった。影ができる場所から数歩出て破片を夜空へ翳そうとした、その時だ。満月が隠れた。
「死ねっ! 武の一族の女狐め!」
 罵声が聞こえたと思った時には、千歳と久弥の頭上へ人の頭ほどもある岩がいくつも落ちてきた。
「千歳っ!」
 戦士である千歳が反射的に動くよりも早く、久弥が千歳に覆いかぶさった。咄嗟のことだったからいつもよりは幾分か千歳の反応が遅れたとはいえ、久弥に庇われるほど鈍くはなかったはずなのに。
 あたたかいぬくもりに包まれたと思った次の瞬間には、幾度も衝撃が襲った。それは久弥の身体越しに伝わるもので、千歳が感じているものよりも大きな重みが久弥を襲っているのは間違いない。
「久弥っ! 久弥!」
 どいて、お願いだから。
 子どものように泣きながら千歳が叫んでも、久弥は千歳を強く抱きしめたまま動かなかった。

 永遠のような一瞬が過ぎ去り、岩の雨が止んだ。

 千歳を殺そうと目論んだ男たちが様子を見に降りてきて、千歳はぐったりとした久弥の下でそれを待った。
「死んだか?」
「死んだに決まっているだろ、いくらなんでもあれだけ岩を落としたんだぞ?」
 勝利を確信して止まない声に、千歳の頭は考えることを止めていた。久弥の下から抜け出ると同時に剣を抜いた。身体は本能のままに動く。
「なっ……」
 驚いた男が言葉らしい言葉を発する前に剣を振るう。熱い血が噴き出して、千歳の身体を汚した。ひぃ、と情けない声で逃げようとするもう一人を的に弓をかまえ、容赦なく矢を放った。矢は男の胸へと見事に命中する。
 他に敵は。餓えた獣のように目を見開き獲物を探す千歳の耳に、小さく「ちとせ」と呼ぶ声が届いた。
「ひさやっ!」
 弓を投げ出して横たわる久弥のもとへ駆け寄ると、淡い微笑みを浮かべたまま久弥がまた「ちとせ」と名を呼んだ。
「よかった、怪我、ないな」
 千歳の頬を撫でながら久弥はそう呟く。今にも息は途絶えてしまいそうで、千歳を見上げる瞳に力はない。
「しゃべるな、すぐに里へ――」
 連れて帰ってやる、そう言おうとした千歳に、久弥はふるふると首を横に振った。

「……やっぱりなぁ。妙な夢だとはおもったんだ」

 千歳を見つめながら久弥は笑った。久弥の頭を持ち上げて千歳は自分の膝に乗せた。溢れてくる熱い液体は、命を司るもの。
「おまえがしぬ夢だった。それが、変に、現実のような気がしたんだ。なんでだろうな。おれに、夢占のちからなんてないはずなのに」
 力がないから、捨てられたのに。そう言いながら久弥はまた千歳の頬を撫でる。花を慈しむように、優しく。その指先についた血が頬を汚しても、千歳は気にならなかった。
「ひさや」
 名前を呼ぶ度、愛していると告げている気分になった。だから何度も何度も繰り返し名を呟く。そして久弥も同じように千歳の名を繰り返した。
「おまえが、ぶじでよかった」
 本当に嬉しそうに微笑んで、そしてゆっくりと目を閉じた。

 あいしていたよ、ずっと。
 告げられずに飲み込んだ言葉を囁いて、千歳は大声で泣いた。まるで子どもに戻ったかのように、羞恥心も放り投げて泣き続けた。
 どんどん冷たくなっていく愛しい人の身体を抱きしめて、千歳はいっそこのまま世界が終わればいいと、本気で願った。




 春の気配が強くなった。万緑の山は今の季節は薄紅色がところどころに覗いている。頬を撫ぜる風は穏やかで温かい。
「桜が咲いたよ、久弥」
 千歳は少し遠くにある大きな桜の木を見て、微笑む。あの夜。愛しい人を亡くした後、泣くだけ泣いて、叫ぶだけ叫んで、亡骸を里へと運んだ。墓は里の中に作られたが、それでも千歳は久弥が息を引き取ったこの場所へ来る。千歳にとってはここが墓だった。久弥への想いを葬った場所。
 里の桜から拝借してきた枝をそっと地に置き、千歳は「ひさや」と名を呟いた。未だにあいしているとは言葉に出来ないから、その想いを伝えるために何度も名を繰り返す。

 その千歳の耳に、子どもの泣き声が聞こえた。
 顔をあげて周囲を見てみるが、それらしき姿はない。子ども一人ならば危険だ。山には野犬もいる。泣き声だけを頼りに探していると、どんどんと桜の木へと近づいていく。どうやら木の下にいるらしいということは、少し近づくと分かった。
 木の下で泣きながら座り込んでいる子どもがいた。艶やかな黒髪に、同色の瞳。肌は白く、泣いているせいか頬は紅色だ。二歳くらいの女の子だった。珍しい模様の衣に、千歳は覚えがあった。能なしの子――夢占の一族の捨て子だ。

「帰るところがないんだね」
 女の子を抱き上げて、髪を優しく撫でてやる。しゃくりあげながら泣く女の子は、甘えるように千歳にすり寄った。まるで運命だと思った。久弥の墓へやって来て、能なしの子を拾うとは。久弥の子が出来たような気持ちだった。
「帰るところがないなら、うちにくればいいよ。名前はなんていうんだい?」
「なまえ……?」
 女の子は瞳を濡らしたまま千歳を見て首を傾げた。まさかとは思うが、名も与えられていないのだろうか。子をこうも容易く捨てることだけでも信じがたいのに、夢占の一族は生まれた命に名を与えてやることさえしないのかと千歳は内心で憤った。
「そうだな、じゃあ私がつけてやる」
 千歳は空を見上げる。花びらが空を舞っている。空の色は薄い青で、儚く美しい。


「しろたえ。白妙、だ」


 千歳の腕の中で、女の子はやわらかくはにかんだ。









白い雲と見紛うばかりの桜の花に、永遠に変わらぬ何かを知ったような気がした。





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