一、晩夏のみぎり






 もう慣れた山道を駆ける。冬の名残雪は数日前に消え、山はじわりじわりと春を呼んでいた。
 有仁は山桜を見上げ、空に近い一枝にようやく綻んだ一輪を見つけ、目を細めた。

 ――春が、来た。






 己の掌を見下ろして、有仁ありひとはぎゅっと拳を作る。半年ほど前に比べると、掌は肉刺だらけで皮膚も固くなった。不健康そうな白い肌も、日に焼け筋肉がついた。
「どうした、有仁。疲れたか?」
 模造刀を振っていた青年が有仁を振り返り問いかけてくる。有仁にとっては師のようなものだ。名を定明さだあきという。武の里の若手の中でも面倒見がよく、また腕も立つ男だ。
「疲れてはない。ただ自分の手を見てた」
「お、だいぶ固くなってきたんじゃないか。毎日ちゃんと稽古してる成果だなぁ」
 笑いながら定明は有仁の頭をくしゃりと撫でた。武の里の朝は早い。男も女も日の出とともに起き出して各々で稽古を始めている。そろそろ朝餉の準備を始める頃だ。
 有仁は自分の掌をもう一度見つめる。半年まではそれこそ女子の手のように細く頼りなかった。
「……まだまだだよ」
 小さく呟いた有仁の頭を、定明はもう一度撫でた。
 もっと。もっと、強く。
 ――大切なものを、守れるように。



 有仁がこの武の里へやって来たのは半年ほど前、春の盛りの頃のことだった。山のいずこかにあるという夢占ゆめうらの里から逃げてきた有仁は、武の里に辿りついた。有仁の生まれた夢占の里は、夢によって過去や未来を視る不可思議な力を持つ者たちが住まう。閉鎖的で、多くの部族とは関わりを持っていない。夢を視る力を持たぬ子どもは十五歳の成人を前に山へ捨てる、冷酷な一面が有名である。
 力を持たぬ「能無し」の子は他の部族に拾われることもあるし、そのまま山へと還ることもある。武の一族は情に厚く、しばしば能無しの子を拾っては一族へと加えていた。
 有仁は能無しではなかった。むしろ夢占の里でも優秀な夢の遣い手であった。
 しかし有仁は夢占の里を捨てた。
 たったひとつ、有仁を変える出会いがあったから。
『気持ちをかくしてしまうことは、つらいことだわ』
『つらいことをつらいと知らないのは、もっとつらいことだわ!』
 今でも有仁は、鮮やかに思い出す。真っ直ぐに見つめてくる瞳の強さと、それまでの「有仁」を壊す言葉の数々を。
 それまで、己のことに疑問など抱くこともなかった。有仁は夢を視ればいい。それだけでよかった。夢を視て、その内容を告げるだけの生活だった。泣くことも笑うことも、必要なかった。しかしそれは悲しいのだという。それは、つらいのだという。そう教えてくれる女の子に、出会った。
 朝稽古を終え、有仁は家へと向かう。同居人である少女はまだ寝ているだろう。武の一族でありながら、彼女は朝が弱い。起きてくる前に朝餉の準備をしておくのが、有仁の日課になっていた。
 ひととおりの準備を終えても、寝坊助な彼女は起きてこない。有仁は微笑を零し、彼女の部屋へと向かう。襖一枚隔てた向こうへと、有仁は声をかけた。
白妙しろたえ
 それが、彼女の名前。有仁の最愛の少女であり、彼を変えた張本人。
 んん、という声が聞こえたが、目覚めたわけではなさそうだ。それもいつものことなので有仁はもう一度「白妙」と名を呼ぶ。
「ごはん、できてるよ」
「ふ、え、ああっ!」
 襖の向こう側で、布団から飛び上がる様子が目に浮かぶようだった。
「ご、ごめんね有仁! 今日は私が当番だったよね!」
「いいよ。早く着替えておいで」
 今日は部屋に入らずに済んだな、と思いながら有仁は戻る。無防備な白妙はたとえ夜着の姿のままでも平気で有仁の前に出てくる。
 ただでさえ夏を迎えて、白妙はこれまで以上に無防備なのだ。春先よりも薄着になっているし、暑いからと髪はひとつに束ねている。晒されたうなじに汗が流れていく様子を見ると、有仁はなんとも言えない気持ちになった。見てはいけないものを見てしまったような。それなのに、触れてみたくなるような。

「おはよう、有仁」
 ふわりと、花が綻ぶように笑って白妙が着替えてきた。今日も暑いからだろう。黒髪を耳の高さでひとつに結っている。白妙が動くたびに、それが馬の尻尾みたいに揺れた。
「おはよう、白妙」
「今日も稽古に行ったの? 有仁ったら何時に起きているの?」
 呆れと尊敬が入り混じったような顔で白妙が問うてくるので、有仁は苦笑する。もともと早くに眠るのが癖になってしまっていて、自然と起きるのも早いのだ。
「日の出と一緒に目が覚めるよ。昔からの癖みたいなものだから、白妙が気にすることじゃない」
 朝、目覚めて剣の稽古をする。そしてそのあとに白妙のために朝餉の準備をする。毎日繰り返されるその日課が、有仁にはいとおしかった。
「でも、当番なのに私はあんまりやってないというか」
「その代わり昼餉とか夕餉の準備してくれているから、いいよ」
 族長の気まぐれで、有仁は白妙がひとり住んでいる家に転がりこむことになってからというもの、家事は分担制だ。武の一族は女だから家事をしろ、などという考えはない。男も家事をするし、女も狩りをする。
「……有仁は私を甘やかすのが得意だね」
 くすくす、と笑って白妙は呟く。
 朝餉を終えると、片付けは私がやるよ、と白妙が器を下げる。
「そういえば、有仁が定明さんから稽古を受けるようになってひとつきくらいだっけ? どうして急に稽古なんて始めたの?」
 いまさら、と感じる問いに、有仁は目を丸くした。ああ、そうか。白妙は知らないままなのだ。
「急、かな」
 有仁は微笑をこぼし、呟いた。強くなりたいと願ったのは、ひとつきやそこらの話ではないのに。



 それは、有仁が武の里にやってきてしばらくのこと。里に火が放たれる事件があった。それを「視た」有仁は族長に知らせることで被害は最低限に抑えられたが、そもそもの原因は有仁を見つけ出した夢占の里の手引きによるものだった。
 同時に、有仁は里に連れ戻されそうにもなった。
『あなたたちなんかに、有仁はあげない』
 そのときに有仁を守ったのは、何を隠そう白妙である。ふわりと微笑む常とは比べようもなく凛々しい声で、姿で、弓を番えた。
 これでよいのか、と思った。
 この少女に武器を握らせて、守られるままでよいのか、と。夢占の里は引いたものの、今後も手を出さないとは言い切れない。あちらはなぜか、武の里を毛嫌いしていた。
 武の里の人々は、有仁を迎えてくれた。里の人間だといってくれた。誰よりも大切な白妙は、有仁を守ろうと武器をとってくれる。
 ならば、と有仁は族長へ願い出たのだ。
「――強く、なりたい。だから俺に剣を教えてください」
 族長の薫子はにやりと笑った。咥えてきた煙管から紫煙がのぼる。
「いいね、武の里の男らしい目だ」
 ふたりきりの室内で、空気はねっとりとしている。有仁の緊張がそのまま室内に溶け込んだようだ。薫子は獣のような目で有仁を見つめる。品定めされているようだ、と有仁は思った。
「では問おう。有仁、あんたはなんのために強くなる?」
 射抜くような瞳の強さは、白妙と通じるものがある。やはり叔母と姪だな、と思うけれど、拾い子である白妙と薫子に血のつながりはない。
「大切なものを、守るために」
 答えは迷うはずもなかった。強くなりたい、その理由など有仁の胸の中心にしっかりと根ざしている。
 しばし沈黙があった。
 じっとりとした空気の中、有仁はただ気圧されまいと薫子を睨みつけた。ただ見つめ返すだけでは負けてしまう。この勝負は、負けてはならない。
 ふ、と笑みを零し、負けたのは薫子だった。
「大切なものとは、聞かなくてもわかりそうな気がするね。いいだろう。これを持っておいき」
 薫子がほいと投げた木刀を、有仁は受け取った。薫子は軽々と投げてよこしたが、有仁には両手で受け取っても重いと感じる。
「とりあえずは素振りから入るんだね。それが重いと感じているうちは、本物なんて持たせられないし、まともな稽古もできないよ」
 ずしり、と重い木刀を、有仁は見下ろした。ぎゅっと握ると、固い木の感触がする。得ようとしているものの重さそのものみたいだった。
 木刀を受け取ったのが半年前。毎朝白妙も知らない間に素振りを続け、ひとつき前にようやく薫子から定明を紹介された。
「まだ若いが腕はいい。こいつから剣を教わりな。定明にも経験になるし、一石二鳥だろう」







 深い深い眠りの中で、有仁は夢を視る。
 それはただの夢ではない。長年の経験がこれが夢占だと告げていた。もうこんなもの視なくてもよいのに、有仁はそれでも夢を視る。
 断片的な夢だった。それだけで遠い未来なのだとわかる。まだ不確かな、けれど起ころうとしている未来。ふわりと笑う、ひとりの女がいた。そして、

「っ!」

 暗闇の中で、有仁は目を覚ます。
 汗をかいていたのだろう、夜着がびっしょりと濡れている。呼吸も整わずに、飛び起きたまま有仁は何度か深呼吸をした。
 ――たちの悪い、夢だ。
 額から流れ落ちた汗が、ぽたりと布団に落ちる。整わぬ呼吸のまま、有仁は拳を握り締めた。手が震えていた。
 なんて都合のいい、いや、なんてふざけた夢だろう。このまま夢に視た未来がやってくるなんて、どうして信じられるだろう? 夢は夢だ。確定した未来などではない。有仁は何度も自分に言い聞かせて、また横になった。襖越しにも感じる月光の強さに、ああそうか、今日は満月だった、と思う。満月の夜は、夢を視やすい。
 かつてのように、夢を視なければならないというわけではないのに、それでも夢は勝手に有仁に未来を告げる。望んでいないのに。
 きつく目を閉じ、強く拳を握った。夢など訪れてくれるな、と言い聞かせるようだった。
 しかし拒めば拒むほど、夢は強く有仁のもとへやってきた。
 結局有仁は安眠することができずに朝を迎え、重い身体を無理やり動かして稽古へと向かった。白妙はまだ眠っているだろうと、静かに音をたてないようにと気をつけるのは、もう毎朝のことになっている。
 定明は有仁を見た途端に、眉を顰めた。
「おまえ、寝てないだろ」
 開口一番に言われ、有仁は目をそらした。どうして分かるのだろう、と内心で呟く。
「顔色悪い。おまえ色が白いからすぐに分かる。少し目の下に隈もできてるな」
 有仁の心のうちを読んだような定明の台詞に、有仁は困惑した。誰かに心配されるのは、いつまで経ってもなれない。
「今日は稽古は無しだ。そんな状態では剣を握らせるわけにはいかない」
「それは、困る。一日でも休んだらそれだけ今までの分が無駄になるだろ」
 睡眠不足ではあるが、まったく稽古ができないというほどでもない。この半年ずっと続けてきたものだ、その成果を無駄にするつもりはないし、後退はしたくない。
「駄目だ。怪我をするかもしれないだろ。嫌なら体調には気をつけろ」
「別に、体調は悪くない。夢見が悪かっただけだ」
「へぇ? 夢見が。あれか? 夢占のやつか?」
 有仁に夢占の力があるということは、もう武の里では周知の事実だ。夢で未来を視てくれ、と言われることもないので、時折力について知られているのだと、忘れそうになる。武の里の人間は未来を知りたがらない。普通の人間は、皆すぐに聞いてくるのに。
 だから、こうして話題を振られるのは初めてで、有仁は驚いた。
「た、ぶん」
「悪いことだったのか? 大変だなぁ、おまえも。気にするなよ、所詮ただの夢だ」
 ぽんぽん、と有仁の頭を撫でて、定明は「帰って寝ろ」と言う。ただの、夢。そう簡単に割り切れたらいいのに、それができないのはきっと長く夢に囚われていたからだろうか。
「……どうせ眠れない」
「身体を休めるだけでも大事だろ。隠れて稽古しようとするなよ」
 里の奴らに言っておくからな、と念を押されて有仁は降参した。朝餉まで時間がある。白妙はきっとまだ夢の中だろう。家に戻って早めに朝餉の支度をしてもいいが、どうせ時間が出来たのなら、と有仁は里を出る。少し歩けば山桜の大樹があるのだ。白妙と、はじめて出会った思い出の場所でもある。
 花を散らし、緑の葉を茂らせる大樹の根元に腰を下ろした。朝のまだ弱い日差しは茂る葉によって遮られる。これなら昼間でも涼しい木陰を作ってくれるだろう。
 太い幹に背を預け、目を閉じる。
 さやさやと風に葉が揺れる。まるで悪い何かを清めているようだ、と有仁は思う。ゆっくりと息を吐き出し、山の香りを吸い込む。遠くから蝉の鳴き声が聞こえて、夏の終わりを教えていた。


 ふっとうす目を開けて、有仁は寝てしまっていたのだと気づく。夢も視ずに穏やかに眠れたので、頭はすっきりしていた。どれくらい寝ていたのだろう、と今度こそしっかりと目を開けて――そして硬直した。白妙が、眠っている。有仁が見上げるような形で。
 いったい自分はどうなっている、と混乱する頭でどうにか状況を把握する。どうやら有仁は、白妙の膝を枕にして寝ていたらしい。いつの間に白妙はやってきて、こんな状況を作り出したのだろうか。
 白妙が目を覚まさないようにと気をつけながら、起き上がる。
 探しに来てくれたんだろうか。
 空を見上げると、太陽は随分と高いところまで移動していた。昼前といったところだろうか。さすがに起こしたほうがよいようだ。
「白妙」
 肩をゆすりながらやさしく声をかけると、ふるりと白妙の睫毛が揺れた。
「ぅん……?」
 うっすらと瞼が開くと、未だ夢現をさまよっているような瞳と目が合う。
「何してるの」
「んー? 起きたら有仁がいなかったから、もしかしたらここかなぁって来てみたら有仁が寝てて、きもちよさそうだったから起こすのかわいそうだなぁって」
 そしたら一緒になって寝ちゃった、と白妙は笑う。警戒心なんてどこかに置いてきてしまったような安心しきった顔に、有仁は溜息を吐きだした。
「よく眠れた?」
「……一応」
 今は頭が痛いけどね、とは言わずに有仁は苦笑した。
 白妙はじぃっと有仁の手を見つめて、何も言わずに持ち上げた。
「白妙?」
「……すっかり肉刺だらけで固くなったよね。綺麗な手だったんだけど」
 有仁の掌をいじりながら、白妙は呟いた。綺麗な手、なんて。男には褒め言葉にもならない。
「俺は今の手のほうが好きだよ」
「うん。今の手も、好き。でもどうしてそんなに必死なの? 強くなくても、剣を握らなくても、有仁はこの里の人間なのに」
 どうやら白妙は勘違いをしているらしい。有仁が夢占の里から逃げて武の里にやってきたことを負い目に感じていると。
「俺は、ただ強くなりたいだけだよ」
 自分の掌に触れる白妙の手を覆うように、もう片方の手を重ねた。白妙はきょとんとして首を傾げる。
「守りたいものがあるから、強くなりたいだけ」
 白妙を守りたいから、と素直に言えないのは自分の悪いところだな、と苦笑する。こうして傍にいても、白妙をまっすぐに見つめることはできない。眩しくて、目がくらんでしまう。
「……有仁はすごいね」
 白妙は胸の奥から言葉を発するように、呟いた。
「すごく、ないよ」
「ううん。すごいよ。私はずっと、わからないまま強くなろうとしていた。ただ母様の背中を追いかけていた。けど、有仁はちゃんと、何の為に強さを得るのか考えた上で、頑張っているんだね」
 ふ、と有仁が白妙を見ると、彼女は自分と同じ表情をしていた。眩しくて、少し遠いものを見るような顔だ。
「白妙」
 思うよりも早く、有仁は手を伸ばして白妙の手を握る。弓を力強く放つその指先は、触れてみるととても小さい。
「白妙は、俺を守ってくれただろ」
 ――だから思ったのだ。守られたくはないと。大切な人の背に隠され、守られるのは嫌だと。
「それは、だって……有仁が連れていかれそうだったから。必死だったんだもの」
「必死でもなんでも、守ってくれたよ。白妙はすごい。……白妙は、俺の憧れみたいなものだから」
「あこ、がれ?」
「ちょっと違うな。うまく説明できないけど」
 太陽そのもののような。有仁の世界のすべてを照らす、光。希望にも似ている。こうして手を握っているのが不思議なくらいに、遠くて手の届かないもの。
 ――自分のような人間が、望んではいけないもの。

 望むことなんてないと、思っていた。













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