三、春浅く







 はらり、はらりと、雪が武の里を真白に染め上げていく。
 ゆっくりと地上へ舞い落ちる白い雪は、まるで桜の花のようだと有仁は思った。しかしきん、と冷えた空気は間違いなく冬の到来を告げている。
 近頃はすっかり雪が降り積もり、里の、山の、どこを見ても白き雪が支配していた。生き物が眠りにつく季節だ。
「有仁、起きていたの?」
 白い息を吐き出しながら着込んだ白妙が家から出てくる。
「うん、少し前に」
 目が覚めてしまったので、外の空気を吸うために出ていた。空が白んできて、東の空が明るくなってくる。
「初日の出だね」
 ゆっくりと現れた太陽が、白妙の顔を照らし出す。ああ、綺麗だな、と有仁は目を細めた。
「あけまして、おめでとう有仁」
「おめでとう。今年もよろしく」
 ふわりと笑う白妙の笑顔は変わらないのに、秋頃から生まれた微妙な距離感はそのまま、近すぎず遠すぎずのまま、新年を迎えた。
「ああ、そうだ。有仁」
「うん?」
「これで有仁も、大人だね」
 冬生まれ、年明けに生まれた有仁は、これで十五歳となる。ああ、そうか。そうだったな、と自分の年齢に頓着しない有仁は特に感慨深いものでもない。
「いつか、有仁も――……」
 ぽつりと、白妙が呟いて言葉を飲み込む。吐き出した白い息がすぐに空気に溶けてしまう。
「何か、言った?」
 有仁が問いかけても、白妙は「ううん」と首を横に振り、それ以上は教えてくれなかった。たいしたことではなかったのだろうか、と有仁も初日の出を眺める。山の中に満ちる空気は神々しく、新しい年のはじまりを粛々と告げていた。



 里の中を歩いていると、会うたびに里の人間に「おめでとう」と声をかけられる。手荒い男たちは有仁の髪をぐしゃぐしゃを撫でて「おまえも大人か!」と笑って祝ってくれた。里全体がひとつの家族みたいだ、と有仁は気恥ずかしくなって毎度ただ頷くくらいしか反応できなかった。
「それで? いつ白妙と祝言を挙げるんだい?」
 またか、と溜息を零しそうになるところを堪えた。新年早々、まして成人を祝ってくれた彼らの前でそれは失礼だろう。
「その予定自体がないけど」
 やんわりと否定したつもりが、その手の話が好きなおばさんはまったく気づいた様子がない。
「まぁねぇ、あんたらふたりともまだ若いしねぇ。でも女の子はそういうの期待するもんなんだから、早くもらってやりなよ」
「一緒に住んでんだから、いつ祝言を挙げようがあんまり変わらねぇだろ! 早く嫁にもらっちまえ!」
 どうして誰もが有仁と白妙をまとめたがるのか、と思いながら有仁は自然と「どうして」と口に出していた。
「……どうして、俺なの」
 有仁とて気づくことがある。白妙は、同年代の男たちから見てとても魅力的だ、ということだ。仲の良い奴も何人かいるし、白妙に好意を寄せているようだ――という者にも心当たりがある。有仁が気づくほどなのだ、里の人間もわかっているだろうに。
 それなのにどうして、その男たちを押しのけて、有仁なのか。
「そりゃ、おまえ」
 はは、と男が笑う。
「白妙が、あんたを選んだからに決まっているでしょ」
 何を馬鹿なことを言っているんだい、と笑われて、有仁はますます意味がわからなくなった。白妙が選んだ。いつ?
「白妙は随分小さい頃に母親を亡くしたからねぇ。里の皆で育てたようなもんだ。けど、あの子はどこか私らに遠慮しちまうんだよねぇ」
 有仁は首を傾げる。とても遠慮しているようには見えなかった。白妙はもとは能無しの子、夢占の里から捨てられた子どもだというのに、すっかり武の里の一員となっていた。少なくとも、有仁にはそう見えた。
「それなのにさ、あんたと一緒に暮らすようになってから、白妙はあんたに甘えていた。分かりにくいんだけどね。朝寝坊していたりとか、そういう些細なことなんだけど」
 あ、と有仁が声を漏らす。それに気づいたおばさんは「ふふ」と笑った。やさしい笑顔だ。
「私らからしてみたら、ああようやく白妙は甘えられる人間を見つけたんだなぁって、そう思ったんだよ。だから、白妙を任せるのならあんたしかいない」
 きっぱりと、胸を射抜くように言い切られる。
 有仁は答えられずに、ただ言葉を飲み込んだ。ごめん、と気を抜けば口から零れ落ちそうだった。

 白妙は、もう俺に甘えてくれていないんだよ。
 朝寝坊もやめてしまったんだよ。
 甘やかしたいと思っても、それを許してはくれないんだよ。

 どうしてそうなってしまったのかも分からない有仁には、白妙と共に生きていく資格はない。どうすればいいのかさえ、分からないのだから。
 たまらなくなって、有仁は踵を返す。
 本当は稽古でもしようと家を出たのだが、どうしても、白妙に会いたくなった。会って何を言うかも、何をするかも、考えないままに来た道を戻る。白妙は家の前で弓の手入れをしていた。
 さきほど出たばかりの有仁が戻ってくるなんて思っていないからだろうか、少し離れた距離のまま見つめていても、白妙は気づかなかった。昨年の春、有仁がこの里に来た時よりも伸びた黒髪が、さらりと冷えた風に揺れている。
 綺麗だ。白妙は、本当に綺麗だ。
 この世のすべてを集めても、有仁にとって白妙以上のものなど見つけることはできないだろう。春の朝焼けも、夏の夜空も、秋の夕暮れも、冬の早朝も、白妙を彩るものに過ぎない。
「……しろたえ」
 苦しさを訴える胸を押さえ、小さく名を呼ぶ。すると白妙はすぐに有仁を見た。大きな黒い瞳が、まっすぐに有仁を見つめる。
「有仁、どうしたの?」
「……ちょっと、気分が変わって。見ていてもいい?」
「そうなの? いいけど、見ていてもつまらないんじゃない?」
「おもしろいよ」
 そっと白妙の隣に腰を下ろす。白妙は「そう?」と呟いて、また手入れを始めた。冷えた空気で白妙の指先はすっかり赤くなっている。しかしそれでも愛用の弓の手入れはしっかりとやる。武の里の人間は誰もがそうだ。
 吐き出した息が白くなっては消え、またすぐに白くなって――白妙の呼吸の数に、有仁は違和感を覚えた。息が荒い。
「……白妙?」
 具合でも悪いのかと肩に触れる。――熱い。白妙が「なぁに」とぼんやりした声で答えた。
「熱がある」
「熱? ないよ、だいじょうぶ」
「あるよ。早く横にならないと」
 よくよく見つめると、顔も赤い。熱に浮かされているのか、口調もいつもより頼りなく弱々しい。
「だいじょうぶだよ、有仁はしんぱいしなくても」
 本人は強情にも熱があるということを認めたくないらしい。早く家の中に、布団の中にと有仁は焦っているのに、白妙は頑としてその場から動くつもりがないようだ。
 こんなことをしているうちに、熱は上がってしまうのに。
「……白妙」
 有仁は覚悟を決めると、低く白妙の名を呼んだ。白妙が首を傾げて有仁を見上げる。
 ぐいっと白妙の腕を引っ張り、無理やりに立ち上がらせると、間もおかずに白妙のひざの裏に腕を差し込む。白妙が「え」と呟いているころには有仁が白妙を抱きかかえていた。
「あ、ありひと」
 まさか抱き上げられるとは思っていなかったのだろう。白妙はおろおろとして有仁の名を呼ぶが、有仁は無言のままに家に入る。一瞬白妙の部屋に――と思ったが、まだ布団を敷いていない。怠惰に畳まずにいた自分の布団を思い出して有仁はすたすたと自室へ向かった。
「寝てて」
 布団の上に白妙を寝かせると、有仁はすぐに火鉢を取りに出る。部屋が冷え切っているので、暖めなければいけない。
 火鉢を運んでくると、大人しく布団に入った白妙が何か訴えるようにこちらを見つめてきた。
「有仁」
「どうした? 何か欲しいものある? 水飲める?」
「ほしいものは、ない。水はのめる」
 律儀に有仁の問いに答えてから、白妙は「あの」と口を開いた。
「ここで私が寝ていたら、有仁が寝られないよ」
「どうせ白妙の看病をするから、いいよ。俺の布団じゃ嫌かもしれないけど、白妙がちゃんと寝てから向こうの部屋に布団敷いてくるし」
 そのためには白妙の部屋に布団を敷いてから別の火鉢で部屋を暖める必要がある。白妙が眠ったら薫子のもとに行っておかゆでも作ってもらおう。有仁も一通り家事も料理もできるが、おかゆを作ったことはない。
「や……じゃ、ないけど」
「……なら、よかった。ちゃんと寝ないと、熱下がらないよ」
「……ん」
 熱を自覚して心細いのだろうか、白妙はじぃっと有仁を見上げてくる。なんとなくそのまま部屋を出るのもかわいそうな気分になって、有仁は白妙の髪をさらりと撫でる。前髪が汗で張り付いていた。
 白妙は少しくすぐったそうに笑って、やがて目を閉じた。
 名残惜しく、有仁はもう一度白妙の髪を撫でると、起こさないようにそっと部屋を出た。族長の薫子のもとへ行き、あとは薬師を連れてこなければならない。


「……風邪?」
 すぐに薫子へ報告すると、薫子は「新年早々……」と少し呆れた様子だったが、すぐにおかゆの準備を始めたあたりで心配はしているようだ。
「弥斗、清竹じぃを呼んできな」
「うん」
 こういうときは弥斗も素直に家を飛び出していく。清竹じぃは武の里唯一の薬師だ。若い頃は俺もかなりの腕前だったんだぜ、とよく話して聞かせているように剣の腕もかなりのものだったらしい。
「有仁は、早く家に戻っておやり。あの白妙が珍しく熱を出して寝込んでいるんだ、心細いだろうよ」
 心細げな様子は眠る直前の白妙を思い出せば容易に分かる。こくりと頷くと、有仁は家に戻ることにした。その背に薫子が「あとでおかゆでも持っていくよ」と声をかける。
 やっぱりこの里は、里全体でひとつの家族だな、と有仁は笑みを零した。

 弥斗が清竹じぃを連れてやってきた。白妙は大丈夫かと騒がしい弥斗は早々に家から放り出され、有仁は苦笑する。
「どれ、白妙、起きとるかい」
 清竹じぃが襖を開けながら声をかけると、眠りが浅かったのだろう、白妙は目を開けてこちらを見上げていた。
「俺、外にいるから」
 診察もするとなれば有仁が同席するわけにはいかない。襖を隔てた外で待っていると、はらりはらりと雪が舞い始めているのに気付いた。今夜はきっと冷え込む。
 どうせ今夜は白妙の様子を看ているつもりなので、家にある二つの火鉢をどちらも白妙の部屋に運んでしまおうか、と有仁は考える。汗をたくさんかいて、たっぷり眠ればただの風邪はすぐに治るはずだ。もとより白妙は健康だから、長引くことはないだろう。
 寒いからいけない。早く春になればいいのに。
 そんなことを考えていると、襖がすっと開いた。
「あの」
 白妙は、と問おうとする有仁を見て清竹じぃはにやりと笑う。
「心配せんでもええ。ただの知恵熱だろうて」
 ほほほ、と笑っている清竹じぃに、有仁は「え?」とすぐに言葉を理解できなかった。開いた襖から白妙の様子を伺うと、有仁と目があった瞬間に恥ずかしそうにして布団に潜り込んでしまう。
「普段あんまり頭を使って悩まんもんだから、珍しく頭を使って熱が出たんだろうよ。一晩もすれば熱も下がるわ」
「……はぁ」
 知恵熱、と有仁は呆けたように呟く。
 よくも悪くも、白妙は素直だ。疑問に思ったことはすぐに問うし、分からないことも質問する。頭を使っていないわけではない……と心の中で弁解しつつ、有仁は温めた部屋の中に入る。
「白妙」
 頭まで布団をかぶってしまった白妙に声をかけると、おずおずと白妙は顔を出した。知恵熱なんて子どもみたいで恥ずかしい、とその目が雄弁に語っている。
「何か欲しいものはある?」
「……だいじょうぶ。ただの知恵熱だし」
「熱は熱だよ」
 熱を確かめようと有仁は手を伸ばし、そして途中で止めた。白妙の額にはしっとりと汗をかいていて、前髪が張り付いている。
「…………白妙」
 行き場のなくした手を彷徨わせて、有仁は頼りなさげに微笑んだ。
「なぁに?」
 白妙は変わらず無垢な瞳で、有仁を見上げてきた。熱にうるんだ瞳も、少し熱に浮かされた声も、どこか艶めいている。
「触れても、いい?」
 白妙に問う有仁の声は、ひどく不安げで、小さな子どものようにか細いものだった。
 布団の中から手を出し、白妙は彷徨う有仁の手を掴まえた。指先が触れた途端に、びくっと、有仁の指が震える。白妙がまっすぐに有仁を見上げると、有仁は不安げに瞳を揺らしたまま、困ったように白妙を見下ろした。
「変な有仁。どうしてそんなことを聞くの?」
 ざわりざわりと胸が騒ぐ。
 耳を塞ぎたくなるような衝動に駆られているのに、白妙は有仁の手を離してくれない。

 まるで白昼夢だ。

 耳元で、自分ではない自分の声が囁くのだ。あいしているよ、すきだよ、だいすきだよ、と。目の前で有仁を見つめてくる少女の名前を、いとおしそうに呟きながら、愛の言葉を繰り返し繰り返し、何度も何度も。
 まるで、もう逃げられないと宣告するように。
「しろたえ」
 助けてほしいと願いながら呟いた名前は、有仁が想像しているよりもずっと熱を帯びている。
 駄目だ、と有仁は白妙の手を振りほどくように立ち上がった。
「有仁?」
「水、持ってくる。白妙はちゃんと寝てて」
 ついでに頭も冷やそう。外に出るだけで冷たい空気が冷静さを取り戻させてくれる。部屋から出ると、すぅっと襲いかかってくる白昼夢が消える。ほっと安堵するとともに有仁は長く溜息を吐き出した。
「有仁、白妙はどうだい?」
 薫子の声に、顔を上げる。清竹じぃから既に知恵熱だとは聞いているのだろう。先ほどよりも幾分か安心した表情で、薫子はおかゆを持ってきた。
「俺の部屋にいるよ。だいぶ落ち着いたみたいだ」
「あんたの部屋に?」
 何故、と問う薫子の目に、有仁は居心地の悪さを覚える。
「すぐに寝かせられるの、俺の部屋だけだったから。おかゆ持っていてやって。俺は水を用意して、あと白妙の部屋に布団敷いてくる」
 これ以上あの部屋に白妙を寝かせていると、部屋全体に白妙の香りが残ってしまいそうだ。眠るたびにあの夢を視る破目になる。
「しかしまぁ、知恵熱とはね」
 あはは、と笑いながら薫子を見送り、有仁は水瓶から冷えた水を汲み上げる。布団の用意をしてから、濡らした手拭いと一緒に持っていこう。

 白妙の部屋は甘い香りで満たされている。
 気を緩めるだけでまた己の欲に押しつぶされそうで、有仁は手早く布団を敷くと水を入れた樽を抱えて白妙と薫子のいる部屋へ向かった。
 襖越しに話し声が聞こえ、白妙もだいぶ回復したのでは、と安堵する。
「……それにしても、なんでそんなに頭を使ったんだい?」
 呆れたような薫子の声と、しばし間をおいてから白妙が口を開いた。
「……有仁が」
 自分の名が出てきたことに驚いて、有仁は動けなくなった。
「有仁が、大人になったから。いつかお嫁さんをもらって、ここを出ていくのかなって、思って」
 出ていくなんて、ありえない。白妙の傍にいることだけを望んでいるのに。
「そうしたらさみしいなって。有仁に甘えてばかりだったから、しっかりしなきゃなって」
「おまえが嫁になればいいんじゃないのかい」
 少し茶化すようで、けれど真面目そうな薫子の言葉に、白妙は言葉を詰まらせた。
「……前に、叔母上と話しているのを聞いてしまったの。有仁は、私と祝言はあげないって……」
「あれは――」
「私、どうしてか有仁とはずっと一緒にいられるとばかり思っていて、そんなわけないのにって気づいてから変なの。ぐるぐる悩んでいたのだけど、答えの出るものでもないし……」
 はぁ、と重い溜息が聞こえる。薫子だろう。
「熱があるんだ、また無駄に頭を使うんじゃないよ。さっさと寝なさい」
 有仁は立ち尽くしたまま、動けずにいた。知恵熱の原因が自分だったのだ、とそれだけが衝撃的で、言葉も出ない。
 傍に在りたいと願っているのは、自分だけだと思っていた。
 しかし、白妙もそれを望んでくれている。
 襖がすっと開く。顔を出した薫子にびくりと驚いて、有仁は困ったように視線を迷わせた。
「……あの子は寝たよ」
「……はい」
 薫子が苦笑を零し、有仁の頭をくしゃりと撫でた。
「もう分からないほど馬鹿でもないだろう? ちゃんと、自分だけじゃなく白妙とも向き合うんだね」
 そう言い残して、薫子は出ていく。抱えたままの桶の水に、ひとつ波紋が生まれる。
 覗き込むと、ぽたりぽたりと水滴が落ちた。なんだろう、と首を傾げてから、自分は泣いているんだと気づく。

 ――うれしくても、涙は出るのだ。

 部屋に入ると、白妙はすやすやと眠っていた。有仁は桶をそっと枕元に置く。
「しろたえ」
 名前を呼ぶだけで、胸の奥から騒ぎ立てるように生まれる感情がある。いや、ずっと胸の奥底に仕舞い込んだまま、気づかぬふりをしていただけだ。
 冷えた指先で、そっと、起こさないように白妙の頬をなぞる。

「……すきだよ、しろたえ」

 胸の奥で、いとしいとしと心が騒ぐ。
 言葉にすると、それは思った以上に唇に馴染む。

「好きだよ」


 逃れようもない。
 これは、戀だ。














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