名前

「にいさま」
 たどたどしい足取りで、つい半年ほど前に家に迎え入れた「妹」がこちらへ寄ってくる。武の里の中は幼い子どもには危険なものが多い。武器などは、昼間なら誰かが訓練途中で置いたままにしていたりするのだ。はらはらと見守りながら、すぐに手を差しだしたくなるものの、母の教育方針は「簡単に手を出すな」なので、ぐっと堪える。どんなに幼くとも武の里で暮らすのだから、慣れるしかない。手を貸してばかりいたら甘えた根性のない子になってしまう、と言うのだ。
「にいさま!」
 弥斗のもとにたどり着いた妹は、にしゃ、と笑いながら抱きついてくる。
 どうにも「にいさま」というのはくすぐったくて、弥斗は曖昧に微笑んだ。今まで弟分はいたものの、一人っ子の弥斗には兄弟はいなかった。かぐやが妹になると決まったのは今年の初め、まだ慣れないのもしかたないというものだ。
「かぐや、にいさまじゃなくて、弥斗って呼んでみ?」
「やと?」
「そう、弥斗」
 首を傾げながら何度も弥斗の名を繰り返す妹が微笑ましくて、頬が緩む。「にいさま」なんて呼ばれるくらいならば、呼び捨てにされるくらいの方がいい。
 しかし。
「やとにいさま!」
 妹は満面の笑みで余計なものをつけてくる。
 しかも褒めてくれと言わんばかりの顔に、弥斗は困りながらも頭を撫でてやるしかない。
 浮かない兄の顔に気付いたのだろう、かぐやは心配そうに弥斗を見上げた。
「やとにいさま?」
「……かぐや、さまはいらないよ」
 試しに、と弥斗がそう示すと、かぐやはきょとんとした顔をして口を開く。
「やとにい?」
 言いやすいのか、かぐやは何度も「やとにい」と繰り返す。
「うん、それでいいよ」
「やとにい!」
 弥斗がほっとしたように笑ったからだろうか、かぐやも嬉しそうに笑って、弥斗を見上げる。





 ――祝言は、桜の季節がいい。

 弥斗の希望は、それだけだった。
 武の里の人々からは祝いの言葉と一緒に「やっぱりくっついたか」という言葉を頂いたので、当の本人はまったく自覚がなかったが、周囲からすれば兄妹ではなかったのかもしれない。白妙には「だって、弥斗はずっとかぐやが好きだったんでしょ?」と言われ、ほんの少しへこんだ。初恋の君は、弥斗以上に鈍感であったらしい。
「弥斗兄?」
 少しずつ綻んできた桜のつぼみを眺めていると、かぐやが呼ぶ。
「何していたんですか?」
「桜、もうすぐで咲くなと思って」
 それはつまり、祝言が近づいているということだ。かぐやは頬を赤くして、「そうですね」と呟いた。
「弥斗兄、どうして桜の季節だったんですか? もちろん私も春は好きですけど」
「……かぐや、それ、そろそろどうにかならないのか?」
「それ?」
「弥斗兄」
 にい、の部分を強調して言うと、かぐやは「あ」と顔を赤くする。既にこの要望は何度も言っているのだが。
「だって、もう慣れてしまって。自然とそう呼んでしまうんです」
「今はまだいいけど、桜が咲けば、俺はおまえの夫になるんですが」
 わざといじけたように言うと、かぐやは「うう」と唸りながら小さくなる。
「頑張ります……。って、弥斗兄、はぐらかしましたね!」
「かぐや、また兄がついてる」
「あっ」
 指摘すると、かぐやが口を押える。弥斗は笑いを噛み殺しながら、かぐやの髪を撫でた。
「そうだなぁ、おまえが兄なしで呼べるようになったら、教えてやるよ」

 別にもったいぶるような理由ではないのだけど。









「さ、弥斗さん、教えてください!」
「今度はさんが余計なんだけど」
「兄はちゃんとついてないですよ」
 まだ照れくさくて呼び捨てにできないかぐやに苦笑しつつ、弥斗はかぐやの耳に唇を寄せた。

 ――かぐやが、初めて俺の名前を呼んだ季節なんだよ、と。


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