都内の小さなワンルームマンション。大学に通うわたしの小さな城だ。
 バイトから帰って、鍵を開けてコートを脱いで、さて夕飯はどうしようかなというところでピンポーン、とベルが鳴る。ああまたかと舌打ちをして狭い玄関へ引き返す。
「こんばんはー、楓ちゃん」
 にひゃり、と笑う青年は、人なつっこい大型犬を彷彿とさせる。ゴールデンレトリバーとか、そういうの。
「彦坂さん。何の用ですか」
「晩ご飯くださいっ!」
 土下座する勢いの彼に眉を顰める。これが五歳年上の男の人がやることだろうか。
「自炊しましょう年下の女子頼るのやめましょうわたしはあなたの飼い主じゃないんですから」
「俺、楓ちゃんなら飼われてもいいなぁ」
 えへへ、と笑う彦坂さんは年上ということを含めても可愛い。すごく可愛い。これが五歳も年上の男の人だっていうんだから卑怯だ。
 あーくそ、負けてる。
「今日も仕事で疲れてさぁ、ご飯用意する気力もおにーさんないんだよね。ダメ?」
 もう、とわたしはわざとらしい溜息を吐き出した。
「今日、だけですからね!」
 いつもいつもこうしてわたしが折れる。今日だけと釘をさせても、この待てができない大型犬はまたやってくるんだろう。
「おじゃましまーす」
 にへにへと嬉しそうに笑いながら彦坂さんは部屋に入る。
 彦坂蒼さん。わたしの部屋の隣に住む社会人だ。春先、わたしが引っ越してきた矢先にドアの前で生き倒れているところを拾ってからのご縁になる。
「今日はなにー?」
 なんて質問が出るくらいの頻度で来ているのだ。
「今日は、そうだなぁしょうが焼きかな」
「わーい」
 って、なんかこれコイビト同士みたいじゃない? という照れくささも沸くけれど相手はしっぽを振っている大型犬だ。甘い雰囲気などゼロだ。
 ごはんは事前に準備していたのが炊けている。一人暮らし用とはいえ三合炊きのものにして正解だったなぁ、と苦笑した。
「テレビつけてもいい?」
 ひょっこりとキッチンをのぞきながら彦坂さんが問いかけてくる。いつも適当にくつろいで待っててくださいって言っているのに、律儀な人だ。
「どうぞ」
「今日ってどんなのやっていたっけ」
 ちょうど週末で、映画とかやるんじゃないのかな、と思いながら時間はまだ八時前だった。このくらいの時間だとドラマもやっていないしクイズ番組とかばっかりだった気がする。
「彦坂さんテレビ観ないんですか?」
「んー。あんまり? それにほら、楓ちゃんに合わせておこうかなって」
 おじさんの趣味じゃ合わないでしょー、と笑う。いやいや五歳差程度でおじさんって。
 そりゃあ小学生と高校生レベルの年の差だけど、今は十九歳と二十四歳。ジェネレーションギャップがあるほどには感じない。
「わたしもあんまりテレビ観ないから」
「俺も俺も。でもほら、一人暮らしで無音だとむなしいから、ついつけておいちゃうんだよねぇ」
 あー。犬ってお留守番の間もすごいさみしそうだよね。実家で飼っていた犬がそうだった。帰るとすごい勢いで尻尾振って喜んで。
 と、考えているうちにしょうが焼きができあがる。あと何かあったかなぁ、と冷蔵庫のお新香を発見した。女子大生がばばくさいなんて言ったやつはぶん殴る。
「できましたよ」
 小さなこたつの上に並べると、彦坂さんがわーい、と喜びながら手伝ってくれる。テレビではちょうど、動物が出ていた。小さな子犬と子猫がわしゃわしゃしている。
「彦坂さんって犬っぽいですよね」
 ほら、ふわふわの茶髪とかまさしく犬っぽい。
「あはは、よく言われる。なんでだろ?」
 並んだ夕飯を前にして、彦坂さんは手を合わせていただきます、と挨拶する。
 もしかして自覚ないんですか。人懐っこいところもふわふわの茶髪も、犬って感じじゃないですか。ときどき尻尾が見えそうな気がしてきますよ。
「あと、なんかお兄ちゃんっぽいです」
「え、楓ちゃんエスパー?」
「……あたっていたんならそう言ってくださいよ」
 ぱり、とお新香を食べながら呆れる。
「弟がいてね。あ、でも弟は猫っぽいよ。あんま似てないし」
 弟さんかぁ。下の兄弟がいるからたぶん年下の扱いに慣れているんだろうなぁ。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
 ぺこりと礼儀正しく挨拶する彦坂さんにつられてわたしも頭を下げる。さて食後にはお茶がほしい。食器を下げながらケトルでお湯を沸かす。緑茶かなーほうじ茶かなー。今日の気分はほうじ茶かな。
 何も考えずに彦坂さんの分も用意すると、彦坂さんはふわりと笑って「ありがとう」と言う。
「楓ちゃんはさぁ、いいお嫁さんになるよねぇ」
「はい?」
「ごはんもおいしいし食後にはさらっとお茶まで出しちゃうし、おにーさんこんなに甘やかされるとなかなかむなしいコンビニ飯には戻れないですよ」
 戻るもなにも、彦坂さん週二、三のペースで来ていると思いますけど。
「お嫁にもらってくれる人がいればいいですけどね」
「ってそういえば楓ちゃん彼氏は」
「いません。いたらさすがに彦坂さんを家にあげませんよ」
 今更すぎる質問の気もしますけどね。かれこれ彦坂さんが餌を待つハチ公になって軽く二ヶ月以上経ってますけど。
「そっか。よかった」
「いえまぁ年頃の女子としてはよろしくないんですけども」
 興味あるといえばあるし。でもこのさっぱりとしすぎた性格が悪いのか、残念なことに彼氏なんていたためしがない。と、いうか恋すらない。
「やっぱり彼氏ほしい?」
 首を傾げながら彦坂さんに問いかけられて「んむむ」と考える。いや、別にいなくても困らない。
「いたらいたで楽しいかもしれないけど、別に積極的にほしいわけではない、ですね」
「ぷは、すっごい楓ちゃんっぽい」
 思わずといった感じで彦坂さんが吹き出す。うーん、そんなにおもしろいかな?


 わたしの淹れたほうじ茶を飲み干すと、彦坂さんは「そろそろお暇するね」と微笑んだ。
「ああそうだ」
 思い出したように彦坂さんはポケットからお財布を取り出して、ぽんとわたしの手の上に樋口さんをのせる。
「はい?」
「社会人としてはごちそうになってばかりというわけにもいかないしね。一応食費?」
「て、この間もいただきました! 十分ですよ!」
「ええー。このくらいコンビニ飯だとすぐ使い切っちゃうけど」
 相場がわからないなぁ、と彦坂さんは笑う。そりゃあ確かに一人分が二人分になるのは単純に二倍かもしれないけど、でも一人で食べきれない量作って捨ててしまうこともあったから、ここまで気を遣われても困る。ていうか樋口さんをぽーんと渡されても! 樋口さんですよ! 諭吉さんじゃなくてよかった!
「とりあえず受け取っておいてよ。俺としては外食減ってかなり貯金できちゃうし。ほら、食費でなくてもおこづかいみたいな」
「彦坂さんからおこづかいもらっていたらケーサツに怪しまれますよ」
 彦坂さんがね。
「え、俺逮捕されちゃう?」
「いえ逮捕されるような事実はなにひとつありませんけど」
 わたしがごはんを提供しているだけなのでね。逆だったらちょっとやばいのかな、どうなのかな。
 あはは、と彦坂さんは笑って「それじゃあまたおいしいもの作ってよ」と手を振って隣の部屋に入っていく。ううん、本当にそれほど食費には困ってないんだけどな。農家をやっている祖父母からは一人暮らしじゃ食べきれないような野菜が送られてくるし、一人暮らしの子どもには何かと与えたくなるらしい母親からも定期的に救援物資が送られてくる。
 結局数週間前にも彦坂さんから渡された野口さんは貯金箱に入れて使われないままだ。樋口さんも今日仲間入りする。
 こういうときは、ちゃんと大人と子どもで線引きされているような気がしてくる。





 土日のバイトは夕方から夜までじゃなくて昼間にしている。わたしの希望というよりは、人手の問題なんですけどね。
 夕方にバイトを終えてスーパーで食材を買い足す。休日だと彦坂さんがくるんじゃないかな、なんて考えもあって少しだけ多めに買ってしまうようになったのはしかたないことだと思う。
 家までもう少し、というところで見慣れた後ろ姿を見つけた。
「ひこさかさ、」
 スマホを片手に通話中のようだ、と気づいて口を塞ぐ。そして、楽しそうな彦坂さんの声が耳に届く。
「あきはちゃんは料理上手だもんねぇ。ん、まぁ今度時間あるときにでもお邪魔するよ」
 はい?
 思わず顔もひきつる。あきは、ちゃん?
「それじゃあね、また」
 なんですか今のは。通話を終えた彦坂さんは、わたしに気づくこともなくそのまま家へ向かう。もちろん方向はまったくわたしと同じ。けれどわたしはふつふつと沸き上がった怒りのせいですぐに追いかけることができなかった。
 なんなんだ今のは!!

 他に飼い主いるんだったら、野良猫でもあるまいし尻尾振るなよ!! 犬ってもっと忠実な生き物なんじゃないの!?

 バンッと大きな音をたてて玄関を閉める。しまった、これだと彦坂さんに帰ってきていることがバレバレだ。いやバレたところで困ることはないけど、今は会いたくない。
 わかっているよ彦坂さんは犬じゃないし、わたしは飼い主じゃない。ただたまに一緒にごはんを食べていただけ。たまに、ごはんを作ってあげただけ。ただそれだけだ。少しだけ親しいご近所づきあい。
 たとえ好きな人がいようと、恋人がいようと――わたしには何も言う資格はない。
 そうだよ、彦坂さんはわたしに彼氏がいるのって聞いてきたけれど、彦坂さんに恋人がいるかどうかは言わなかったじゃない。気づけよ、馬鹿だなわたし。
 ぽたり、と涙が落ちた。
「あー……もぉやだ」
 気づきたくなかった。
 今の関係はとても心地よくて、危うさなんてなくて、これ以上に踏み込まなくてもいいんじゃないかって安心していた。お隣さん。飼い主と犬。そんなふざけて曖昧なままでいることは、壊れるほど確かでないということ。
 膝を抱えて小さくうめく。灯りを点けていないままの部屋は夕闇に飲み込まれていく。自分の涙も見えない闇のほうが落ち着く。
 ピンポーン、と。
 その音が響くまでは。
 びくっと肩が震えて、わたしは息を呑んだ。こんな時間にやってくるひとは、彦坂さんくらいしかいない。
 暗い部屋と、開かない玄関。居留守を使うにはちょうどいい暗闇は故意じゃないけれど、わたしは灯りを点ける気になれなかった。
「……楓ちゃん?」
 玄関越しに、彦坂さんの声が聞こえる。――いないのかな、帰ってきていたと思ったんだけど、と彼は小さく呟く。
 ごめんなさい寝ていて、と今からなら玄関を開けても不自然ではないだろう。けれど今もまだ頬は濡れている。こんな顔じゃ会えるわけないし、会いたくない。なじる権利もないくせに、今彦坂さんの顔を見たら醜い言葉ばかりが溢れ出してきそうな気がする。
 しばらく玄関先で佇んでいる気配がしたけれど、やがて諦めるように彦坂さんは隣の部屋へと戻った。ほっとすると同時にさみしい、なんて自分勝手な気持ちもなる。
 もぞもぞとベッドにもぐりこんで布団をかぶった。ごはんなんてそんな気分じゃない。もうふて寝してしまおう。


 泣きながら眠っていたのだろう、ベッドの傍の窓がコンコン、と鳴る音で目が覚めた。なんだろう、とぼんやりとした頭で起き上がり、小さなベランダに人影が見えた瞬間は悲鳴を上げそうになった。というか上げたかったけれど声がうまく出なかった。
「ちょ、しー! しー! 楓ちゃん!」
 ここで彦坂さんの声を認識しなかったら、間違いなく改めて悲鳴を上げていた。
「……ひ、こさかさん?」
 しめ忘れたままだったカーテン。日中からしめたままのレースのカーテンの向こうには、彦坂さんが困ったように笑いながら立っていた。
「ど、どうやって」
 からりと窓を開けると、彦坂さんは「おじゃまします」と苦笑しながら部屋に入ってきた。何度も部屋の中には招き入れたけれどもベランダからっていうのはさすがに初体験だ。
「バリケードあるけど、それをこうどうにか避けつつ?」
「あ、危ないですよ」
 それ踏み外したら落ちるじゃないですか。
「帰ってきていたみたいだけど、反応なかったし、この時間になっても部屋暗いまんまみたいだったから具合悪いのか、下手すりゃ倒れてるんじゃないかなって思って」
 ……ごめんなさいふて寝していました、とは言えない。
 電気点けるね、と一言告げたあとで、彦坂さんはスイッチを押す。急に明るくなった視界に目が慣れなくてわたしは目を細めた。眩しい。
 明るくなった部屋の真ん中で立ちっぱなしのわたしと彦坂さんは、なんか間抜けだ。
 彦坂さんは困ったように笑ったまま、あのさ、と小さく口を開いた。怒られる前の子犬みたい。耳も尻尾も下がっているようだ。
「俺、なんか気に障ることしたかな」
 え、と呆けた声が私の口から洩れる。
「寝ていたみたいだけど、具合悪いって様子でもないし。さっき俺が来たの、気づいていたよね?」
 ――居留守を使ったんだよね、無視したんだよね。……会いたくなかったんだよね、と言外に告げられる。
 きゅっと心臓を掴まれるみたいに苦しくなった。
「それは、その、彼女に悪いじゃないですか」
「彼女?」
 彦坂さんが訝しげに首を傾げる。
「あきはちゃん、ですか? 今日、帰りに電話しているのちらっと聞こえちゃって。ほら、わたしは彼氏いないって言っていたけどそういえば彦坂さんがどうなのかは知らなかったなって。やだなぁ、もう、彼女さんいるならわたしなんかのごはん食べている場合じゃないじゃないですか」
 自分の中のやましさを隠したくて饒舌になる。泣きたくないのにじわりと目頭が熱くなった。
「え、ちょっとまってそれ誤解!」
 わたし以上に慌てた様子で、彦坂さんが声を上げた。へ、と思わずわたしの涙もひっこんでしまう。彦坂さんはわたわたと身振り手振りで何か訴えてくるけどわかりません。全然わかりません。
「あきはちゃんは俺の彼女じゃなくて! 弟! 弟の彼女だから! もともと幼馴染で俺とも面識あるだけで彼女じゃないからていうかそれ俺が弟に殴られるよ!」
「……おとうと」
「うんそう、弟の。彼女いないし俺」
 ……なんだ、とほっとすると肩から力が抜ける。彦坂さんはふにゃりと笑った。
「あー……焦った。俺野良犬になるのかと思った」
 心底安堵したかのように笑うその姿はなんなんですか。野良犬って、だって、そんなの。まるでわたしに捨てられたくないみたいじゃないですか。捨てるもなにも、わたしのものでもないくせに。
「……わたし、飼い主じゃないですよ彦坂さん」
「俺にとっては飼い主さんかな。飼われるなら楓ちゃんがいいな、俺」
 似たようなことをこの間も言っていたな、とわたしは思い返す。逃避に近い。なんだろう。安全な飼い犬だったはずなのに、じわりじわりと追いつめられているような気がしてくる。
「そう、いうの、あんまり言わないほうがいいと思います」
「なんで?」
 にっこり。まっすぐに見つめてくる目は、澄みきっていて邪念がないように見える。怖いくらいに目が逸らせない。
「なんでって……勘違いされますよ?」
「楓ちゃんは勘違いしてくれないの?」
 ――勘違いして犬に手を噛まれるなんてごめんですよ。
 だって自分よりもおおきな犬なんて、手に負えないでしょう?
「……わたし、どっちかというと猫派なんですよね。飼うなら猫のほうがいいです」
 ペットの話でしょう、と誤魔化すようにわたしは笑って、台所へ向かう。なんだか喉が渇いてしまった。それにいつまでも立ち話っていうのも変だし、お茶でも淹れよう。そう思って。
 けれど、伸びてきた腕がわたしを捕える。
 後ろから抱きしめられて、わたしは硬直した。
「だめ、犬で我慢しておいて」
「だめ、って」
 なに言ってんのこのひと! ていうかなにしてんですか彦坂さん!
 背の高い彦坂さんは後ろから抱きしめてながらわたしの頭に顎を乗せてる。身長差をまざまざと感じるこの体勢って現実逃避したいくらいなのに、ぎゅうぎゅうと抱きしめられる。
「ひこさかさんっ!」
 頭がパニックになって叫んだ。

「ハウスっ!」

 犬だの飼い主だのって会話をしていたからだろう。混乱している脳みそはなんて馬鹿なことを叫ばせるんだ、と言ってしまってから思う。しかし抱きしめる腕の力は、確かにゆるんだ。
「は、ハウスって……!」
 ぶはっ、と耐え切れなくなったように彦坂さんは笑いだした。おかしくて仕方ないっていう感じに、お腹を抱えて。解放されたわたしは恥ずかしいのやらいたたまれないのやらで何も言えない。
「そうだね、今日のところは帰ろうかな」
 今度は玄関から、と彦坂さんは大人しく部屋から出ていく。ほっとすると同時に、なんだったと脱力してしまう。
「楓ちゃん」
 靴も履かずに――ベランダからやってきたのだから当たり前だ――彦坂さんは部屋から出て、振り返った。
「……なんですか?」
「今度からはその彦坂さん、やめよっか」
「……なんで、ですか」
 なんで、って。彦坂さんは笑う。

「飼い犬を名字で呼ぶひといないでしょ」

 ……わたしは犬を飼った覚えはないんですけど。




 甘えん坊でやさしくて頼りになる大型犬は、ときおり猟犬のような目をしている――気がするのは、わたしは飼い主ではなくて獲物か何かなのだろうか、なんて。怖くて蒼さんにはとても聞けない。



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