歌は空に響き、森に還り、花ひらかせる。
王家の庭園に続く奥深く、秘されたその森のさらに向こう、王家の花はひっそりと根付いている。
ひみつの森に降るアリア
「死んだ?」
ふるりと、黒い睫が揺れた。
伏せられた睫の下で、青い瞳が明らかな動揺を見せる。彼女が見せた唯一の表情らしい表情だった。
「国王、が?」
都から三つほど離れた小さな街だ。小さな玄関先で告げられた言葉を、ゆっくりと彼女は消化する。周囲では何事かと野次馬が集まっていたが、王国騎士団が近寄ることを許さなかった。
「鍵の歌姫、リーズリティシア。慣例に従い迎えにきた。余のために歌え」
大仰な言葉とともに差し出された手は、リーズリティシアと呼ばれた少女のものよりも小さい。背はリーズよりも十センチほど低く、声変わりも済んでいない少年のようだった。
本来、こんな街にいるはずもない、次代の幼き王。
輝く蜜色の髪は、リーズのよく知る青年とそっくりで血筋の連なりを感じさせた。
「わたしは歌わない」
深い海を思わせる紺碧の瞳が、少年王を射抜くように貫いた。
「新王の即位を、認めない」
少年王の新緑色の瞳が大きく見開かれる。周囲に控える騎士たちが息を呑んだ。
大陸の西にあるノーゼス王国は、緑の深い豊かな国だ。都を囲うように豊かな森があり、深き森の王国とも呼ばれている。
城の庭より奥に繋がる秘された森には、歌姫が住まう小さな神殿がある。歌姫の一族と王族のみがその森に入ることを許され、歌姫は森に根づく王国の花を守護する役目を担っていた。
情熱の赤、安寧の緑、冷酷の青、栄光の黄、至高の紫。それら五色の王国の花を戴いてようやく王は真に王となる。
王国の花に太陽の日差しも水も必要ない。花を咲かせるのは歌姫の歌だ。一族にしか伝わらない、口伝で引き継がれた鍵の歌は歌姫しか知らない。
此度の新王、エルトルディアの即位に際して、この伝統が問題となった。秘された森の奥深く、神殿は今誰も住んでいないのだ。
昨年、先王が歌姫との間に決定的な亀裂を作り、一夜明けたのちに神殿はもぬけの殻になっていた。
歌姫の一族は数を減らし、数年前に先代の歌姫が亡くなってからは歌を歌えるのは跡を継いだ歌姫のみ。つまりは、歌姫の代わりはいない。
姿を消した歌姫を探し、ようやく、見つけたのだ。
王は王城に、歌姫は神殿に。
それが古きよりノーゼス王国の常である。
騎士団により潜めていた身を暴かれたリーズリティシアは連れ戻され、広い神殿で一人時を過ごす。
かつん、と石造りの神殿に足音が大きく響いた。
「そう毎日いらっしゃっても、わたしの意志は変わりません」
ちらりとも見ずにリーズは告げた。
むすりとした表情で少年王が立ち止まる。
「先王と何があった」
「それも、語るつもりはございません」
先王は少年王の年の離れた兄であった。年は二十八、リーズは十八であった。
「ならばなぜ余の即位を認めない! 王が憎いからではないのか!」
声を荒げる少年王をちらりと見て、リーズは首を横に振った。
「王を憎んだことなど、一度もありません」
「しかし」
「そもそも、かの王はつなぎの王。貴方様が即位にたる年齢に達するまで王座を温めていただけ」
兄とはいえその母君は卑賤の生まれ、故に先王の即位の際には、至高の花たる紫の王花を戴くことはなかった。先王が即位したのは、五年前。リーズの目の前に立つ少年王が未だ五歳の頃のことである。周辺諸国が幼き王の誕生を見据えて牙をむこうとしているなか、王となったのは今まで王の子とも認められなかった青年であった。
かまわないよ、幼き歌姫。俺に至高は似合わない。
やわらかく微笑む青年の顔を、今もなお忘れることはできない。
「貴方様は王になるために生まれてきたお方。しかしわたしには歌えません」
「なぜ」
「言葉のとおりにございます」
「そなたは先王の即位の際にも歌姫の代役を務めたと聞く。歌を知らぬわけではなかろう」
「それゆえに」
リーズの伏せた睫が、その紺碧の瞳を隠す。
「至高の紫は先王を拒んだのではありません。わたしの歌が、認められなかったのです」
そのうつくしい声は、震えていた。
「わたしは」
細い指先がぎゅ、とスカートを握りしめた。
「わたしはあの人に、いつか至高の紫を捧げると、誓ったのに」
リーズの歌は幼くとも完璧だった。完璧な、はずだった。赤、青、緑、黄、次々と花を咲かせることに成功し、リーズは自分の歌にそれだけの自信を持っていた。歌姫になるために生まれ、そして病の母に代わり歌うことができる。
けれど、リーズがどれだけ声を枯らして歌っても、紫の花は咲かなかった。
王を認めなかったのではない。リーズを、歌姫と認めなかったのだ。
きっといつか、紫の花を貴方に差し上げます。だからどうか待っていて。わたしは歌える。きっと、歌ってみせるから。
しかし昨年の暮れのことだった。
先王はひっそりと人知れずに森を訪れ、リーズに告げた。もう、いいのだ。もう歌わなくてもいいのだ、と。その顔色は生きている人間と思えないほどに青白く、死期を悟らせるには充分だった。
ぽたり、と涙が落ちる。
「そうか」
幼き王の、小さな呟きが響く。
王は静かに涙を流すリーズを見つめると、その細い腕をとった。リーズが驚き顔をあげると、まっすぐに見つめてくる。
「こい」
ぐっ、と腕を引く強さに幼さは感じられなかった。どこへ、と問う間もなくリーズは神殿の外へと連れ出される。
神殿の周りにあるのは、五色の花を咲かせるための蕾もない草だ。足首ほどまでの高さしかないそれらは、今はどの色にも染まらない。
「歌え。そして咲かせるんだ。至高の紫を」
強い眼差しに、リーズは「でも」と小さく震えた。歌ったところで咲かせることができるかわからない。そして、咲いても捧げたいと思った人は、もう。
「兄に渡すんだろう」
そうしなければ前に進めない。
いつの間にか、王がリーズの手を握っていた。あたたかいぬくもりは幼さ故だろうか、それとも、この王の人柄だろうか。
まだ間に合うというのだろうか。
まだ届くというのだろうか。
震える唇から、か細い旋律が生まれる。
それは引き寄せる波のように次第に強くなり、森の中に大きく響きわたる。空高く。地に広がるように。旋律は森のすべてを包み込むようだった。閉じられた紺碧の瞳から、流れ落ちた涙さえ歌の一部になって。
響きわたるアリア。
――それは、間違いなくかの王に送られた鎮魂歌だった。
飲む込むように歌が消え、涙も乾いたリーズが目をあける。
「見てみろ」
どこか誇らしげにも聞こえる王の声とともに、リーズは息を呑んだ。
足下から広がる、至高の紫。
そのうつくしい紫に、リーズは崩れ落ちるようにして泣き崩れた。ずっと、見たかった色だ。ずっと、求めていた色だ。求めても焦がれても手にすることのできなかった、かの人のような。
「兄の棺を、この花で満たそう」
先王の葬儀は新王の即位とともに行われる。遺体は氷室で安置されたままだ。
「兄は立派な王だった。誰がなんと言おうと、新王たる僕と歌姫である君が認めている。それで充分ではないのか?」
リーズは幼き王を見上げた。紺碧の瞳が涙で濡れている。
「あなたは、あの方がつなぎの王ではなかったと、そうおっしゃるのですか」
「ただのつなぎに、今のこの国は守れまい。依然としてあちこちがいつ喰らおうか伺っている。至高を持たぬ王と笑われても、兄はこの国を守った。それは事実だ。そんなこともわからぬ愚か者はいらん」
少年王はその新緑の瞳で空を睨むように見上げた。
「幼き王のほうが御しやすいと笑うのなら笑えばいい。僕は道化にも人形にもなるつもりはない」
リーズはその強い眼差しに悟った。この少年は、王となるべくして生まれたのだろう、と。民だけでなく、対であるはずの歌姫さえも導いてしまうほどの強き光だ。
「……手伝ってくださいませんか、陛下」
ぽつり、と呟きながらリーズはすぐ傍らに咲く至高を摘み取った。
「亡き王に、この花を差し上げなければ。咲いた花を摘み取らねば、次の花が咲きません」
リーズが微笑むと、少年王は目を丸くした。ああ、年相応の顔だとリーズは笑う。
「花冠は作れるか、リーズリティシア」
「ええ、可能ですが」
「ならば君は花冠を作れ。僕が他を摘み取るから」
少年王はそう言いながら手早く花を摘み始めた。王がこんなことをしたと知れたら、重臣たちはなんと思うだろうか。こうしていると、姉と弟が花畑で戯れているだけのようではないか。
「至高の冠を、兄に」
「はい、陛下」
先王の棺には溢れそうなほどの至高の花で埋め尽くされた。静かに横たわる先王に花冠を飾り、リーズは固く閉じられた瞼へと口づける。
――わたしは、あなたの歌姫でありたかった。
歌は空に、旋律は地に、高く深く響きわたり、そのアリアは森に降り注ぎ花を咲かせる。
情熱の赤、安寧の緑、冷酷の青、栄光の黄、至高の紫。そのすべての花がほころび、花開き、新しき王の誕生を祝福する。その王花で作られた花冠を手に、リーズリティシアは歌姫として新王の前に立った。
さきほどから降り注ぐ五色の花びらもまた、王花のものだ。
先王の葬儀を終えた王国は、新しき王の誕生に胸を躍らせている。
「エルトルディア。五色の王花を戴き、その花にふさわしき行いでこのノーゼス王国を導く光たれ。熱き心で国を愛し、父のような安らぎをもって民を慈しみ、時に為政者として厳しき選択をし、この王国に栄光をもたらす至高の王たれ」
頭を垂れた少年に五色の花冠を乗せる。ノーゼスの王冠は、すなわち五色の王花。
わぁあ、と湧いた観衆の声に、王国の新しいはじまりを知った。