魔法伯爵の娘

王太子の戴冠(3)


「……それにしてもなかなか来ないようだね?」

 しばし談笑したのち、イアランが口を開いた。言うまでもなくガルのことだ。
「確かに、少し遅いような……」
 既に三十分近くが経っている。着替えにしては時間がかかっている気がする。
 困ったなぁ、とイアランは少しわざとらしいくらいにぼやいた。
「私もそれほど時間がとれないしね。タシアン、様子を見てきてくれ」
「いや、それは――」
 護衛がいなくなるわけには、とタシアンは渋い顔を見せる。しかしタシアンがいくら渋ったところでこの主には効果がない。それも分かっているので、タシアンは反論しかけた口を閉じた。
「部屋の外には衛兵もいるし、精霊殿もいる。なに、心配なら君がすぐ戻ってくればなんの問題ないだろう?」
「……わかりました」
 はぁ、とタシアンはため息を吐き出して部屋の外へ出る。衛兵に何か指示を出しているようだったが、厚い扉越しにはよく聞こえなかった。

「――さて」

 タシアンのいなくなった部屋で、イアランは微笑む。
「何か私に聞きたいことがあるんじゃないかな、アイザ」
 イアランの問いかけに、アイザは目を丸くした。顔や態度に出しているつもりはなかったのに、と。
「……どうしてわかったんですか」
 聞きたいことがあるのは本当だ。否定するつもりはない。けれどこうして会話をする機会の少ないイアランが簡単に気づいたのはなぜだろう、とアイザは疑問だった。
 隠し事が得意というわけではないが、苦手でもないはずだ。
「人の機微には聡いほうでね。タシアンがいると話せないようなこと?」
 彼がいるから話し出せなかったんだろう? と問いかけてくるイアランに、アイザは迷いながらも頷いた。
 ――タシアンの前では聞けない。
 きっと彼は困るだろうし、彼の答えは既に聞いたから。
「……その、ミシェルさんとの婚約について」
 ミシェルの名を出しても、イアランは驚かなかった。想定していたのか、それともイアランにとって驚くほどの話題でもないのか。
「ああ、なるほど。それはタシアンの前では話せないな」
 くすくすと笑いながらイアランは首を傾げる。
「でも、アイザが気になるようなことはないと思うけど? これは国同士の問題だ」
「それは、わかっています」
 アイザは意見できるような立場ではない。
 だが国とは関係なしに、タシアンとミシェルの人となりを知る人間として黙ってはいられなかった。
「イアラン兄さんは、すべてを知っていて婚約するつもりなんですか」
「すべてとは?」
 意地悪な切り返しに、アイザは困ったように声を小さくした。
「……タシアンのことと、ミシェルさんの気持ちです」
 二人がルームメイトであったことなど、当然知っているはずだ。その上で、ミシェルがタシアンに恋していることも、タシアンだって少なからず思っていることを知っているのだろうか。
「そうだね、知っているよ」
 あっさりとした回答に、アイザは言葉を飲んだ。
 イアランが知らないはずがない、と思っていたものの、できれば知らずに話を進めていたのだと思いたかった。
「……っそんなの、誰もしあわせになれない」
 絞り出した声は今にも泣き出しそうなほど情けないものだった。事実、アイザの青い目には涙が浮かんでいた。
 膝の上で拳を握りしめ、アイザは目を落とす。
「王族の婚姻に、個人の幸福など関係ないよ」
 諭すようなイアランの声を聞くだけで苦しい。
「私はルテティアの王子で、そしてこれから王になろうとしている。その婚姻に、私個人の希望は反映されない」
「わかってます、わかってるけど……!」
 それでも、とアイザは願う。
 願わずにはいられない。
 虹が見たいと乞う女性の横顔を思い出すたびに、はじまりが違っていたら、もっと違う結末があったのではないか、と。たとえその結果、自分が生まれなかったとしても。
「わたしは、タシアンにもイアラン兄さんにも、不幸になってほしくない……!」
 ――恋は人を不幸にする。
 その意識はアイザのなかから消えることはない。
 けれど、恋すら芽生えない婚姻は、愛すら生まれない夫婦は、『不幸になる』なんてものじゃない。
「……君は本当にやさしい子だ」
 イアランは微笑みながら立ち上がると、アイザの隣に腰を下ろした。思えばこんなに近くでこの兄を見るのははじめてだ、とアイザは思う。
「心配しなくても、私は君とタシアンのしあわけを願っているよ」
 大きな手がアイザの髪を撫でる。
 こんな仕草に、この人は兄だったんだという実感が湧いてくるから不思議で仕方なかった。兄妹として過ごしたことなどなかったのに。
「……でも」
 イアランを信じないわけではない。信じられないわけではない。アイザの髪を撫でるイアランの手はひどくやさしく、嘘をついているとも思えなかった。
 けれど、このままでは、と思う気持ちもある。
 表情を曇らせたアイザに、イアランは困ったように笑った。
「うーん……困ったな。精霊殿、タシアンたちは戻ってきているかい?」
 イアランの問いに、ルーはぴくりと耳を動かした。遠くの音を拾うように幾度が耳を動かしたあとに顔を上げる。
「いいや、まだ近づいてきていない」
「……なら大丈夫か。あのね、アイザ。私はミシェル王女と婚約する気はないんだ」
 けろり、と言ってのけるイアランにアイザはさっぱりついていけなくて混乱した。
 思わず涙も引っ込んでしまう。
「……え?」
「私は、ミシェル王女とは婚約しないよ。もちろん結婚もしない」
 ミシェルと婚約する気はない。
 婚約しないのだから、当然結婚もしない。
 しかし現実として、婚約の話は進んでいる。少なくとも、ミシェルが覚悟を決めてしまうほどには確定事項になっているのだ。
「え? えっと?」
 理解が追いつかなくて、アイザはまともな返答もできない。ミシェルはイアランと婚約すると言っていた。タシアンも。
 しかしイアランは、婚約しないと言っている。
「ルテティアには来てもらうけどね」
 にっこりと断言するイアランに、アイザの混乱は深まるばかりだ。
「え、ま、待ってください、それはどういう」
 説明を求めてアイザが口を開くと同時に、ルーがぱたぱたと尻尾を振ってアイザの足を叩いた。
「戻ってきたぞ」
 誰のことと言われなくてもわかる。タシアンがガルを連れてきたんだろう。
 イアランはよしよしと子どもを宥めるようにアイザの髪を撫で、内緒話するように耳元で囁く。
「……アイザが心配することは何もないよ、安心して兄さんに任せなさい」
「……ほんとうに?」
 子ども扱いにつられたのか、アイザの声が幼げに震える。大丈夫、というようにイアランが髪を撫でているところで、扉が開いた。
「殿下、戻りました」
「タシアン、さっきも言った気がするけどノックのひとつもできないのかい君は」
 くすくすと笑いながらイアランが扉のほうへと顔を向ける。
「必要なときにはちゃんとしてま……何をしてるんですか」
 タシアンはアイザのそばに座り、その髪を撫でているイアランの姿を見て固まった。
「見ての通りだけど?」
「見ての通りって……」
 アイザの涙はとうに引っ込んでしまったので、見る分には微笑ましい光景だ。タシアンは連れてきたガルをそろりと見ると、意外なことにガルは無反応だった。
 怒り出すかと思ったタシアンはいささか拍子抜けだ。
「彼がガルくんかな」
 イアランが目を細める。まるで品定めしているような目だ。
「はじめまして」
 ガルはイアランに威嚇するわけでもなく、不快感を露わにするわけでもなく、ただ素直に挨拶をした。
「……おまえ、待っている間に頭でも打ったか? それとも拾い食いでも」
 大人しいガルをタシアンは訝しげに眺める。タシアンにしてみればこんなガルは初めて見るのだ。無理もない反応だった。
「……タシアン、ガルだって挨拶くらいちゃんとできるよ」
 アイザも大人しいガルは見慣れないのであまり落ち着かない。まして今のガルは、普段着姿をでもなければマギヴィルの制服姿でもない。
「……騎士団の制服だよな、それ」
 ガルが着ているのは、藍色の国境騎士団の制服だった。首もとまで釦をとめ、上着も着崩していない。以前にもアイザが囚われたときに城に侵入するために着ていたが、しっかりと着込んでいるからだろうか。印象が違う。
 制服のネクタイさえすぐに緩めてしまうガルには珍しく、きちんとした格好だ。
「手早く用意できるのはこれくらいだったので」
 レーリが手配したらしい。彼やタシアンの服ではガルには大きすぎる。騎士団の制服ならサイズも揃っているので早く用意できたのだろう。
「動きにくいし早く脱ぎたいんだけど」
 ガルは居心地悪そうにしているが、藍色の制服はガルの赤い髪がよく映えて似合っていた。貴公子とはいかないまでも、騎士見習いには見える。
「……せっかくかっこいい格好しているのに」
 すぐに着替えてしまうのはもったいない。
 ぽつりと零れたアイザの本音に、その場の誰もが言葉を失った。しん、と静まった部屋にアイザは首を傾げる。
「わたし、何か変なこと言った?」
「…………いや」
 沈黙の後に否定したのはタシアンで、レーリはくすくすと笑いながらタシアンに同意するように一度頷いた。ガルは驚いたように目を丸くしたあとで、照れ臭そうに頬を掻いている。
 アイザの足元にいるルーが呆れたように鼻を鳴らして寝そべっていた。
「……うん、なるほどね」
 イアランが小さく息を吐き出したあとで呟く。
「さながら、アイザの騎士ってところかな」
「……ガルは友だちですよ」
 以前にもガルのことを騎士と言われたが、ガルにはアイザを守らなければならない理由なんてない。
「わたしを守ることが義務のように、言わないでください」
 それではまるで、ガルをアイザに縛りつけているようだ。
 アイザもガルも、お互いに縛りつけるような関係ではない。そんなことを望んでもいない。
 ただ、手を取り合うことができればと。一緒に笑うことができればと。そう思って、アイザはガルと共にマギヴィルに行ったのだ。
「気に障ったかな。そういう意味で使ったんじゃないよ。それに――」
 棘のあるアイザの声に、イアランが肩を竦める。思わせぶりに言葉を切って、ガルを一瞥すると、ガルはきょとんと目を丸くしていた。
「別に騎士だろうが友だちだろうが、俺はアイザのことを守るけど?」
「……彼はなんでもいいみたいだ」
 ――君のそばにいられるなら、とイアランは笑った。
(……守られる理由なんて、ないのに)
 なんで、とか。
 どうして、とか。
 ガルのアイザに対するこの態度に関しては、疑問が多い。むしろ疑問しかない。
 近頃はアイザ自身も感じることがある。これは友情や親愛や、そんな類のものではないと。そしておそらく、愛情というにも違和感がある。
 けれどそれをガルに言ったところで、ガル自身もよくわかっていないから結論は出ない。それどころかガルの機嫌が悪くなるだけだ。
 だからアイザも、何も言えずに口を噤むしかなかった。


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