魔法伯爵の娘

獣人の青年(4)


 部屋の中に、沈黙が落ちる。
 アイザが吐き出した声は、ただただ静かで、けれどじっとりと重たかった。水を多く含んだ重たい雪が音もなく地面に落ちるようだ。
 淡く微笑むミシェルの――すべてを諦めるように、なにもかも割り切ろうと心を殺す表情が、嫌でも女王を思い出させる。だからこそ、アイザは不安になるのだ。

 この人もいつか、狂い果ててしまうのではないだろうか、と。

「ねぇ、アイザ」
 ミシェルの柔らかな声が、怯えるアイザの耳へ届く。震えるアイザの手に、白くうつくしい手が重ねられた。
「私は、恋しくて恋しくて狂うなんてことには、ならないわ」
 大丈夫だとアイザに言い聞かせるようなやさしい声に、ゆるゆるとアイザは顔をあげた。碧色の瞳が、まっすぐにアイザを見つめている。
「――だって、もうそんな時期はとっくに通り過ぎちゃったもの」
 そう言いながらおどけてみせるミシェルに、アイザは目を丸くした。
「すごく辛かった時期はあったし、会いたくて苦しかったこともあった。どうしてあんな最後になってしまったのか泣き叫んだこともあった。けれどね、もうそれも、私の恋の一部なのよ。だからこの恋を呪うこともないし、嘆くこともないわ」
 ミシェルの手に包み込まれた手は、いつのまにか震えが止まっている。 大丈夫、大丈夫、と何度も繰り返すように強く握りしめられて、そのぬくもりがアイザの怯えを溶かしていくようだった。
(……やさしい人だなぁ)
 本当にたいへんなのはミシェル自身だろうに、アイザのことをこんなにも気遣ってくれる。なんとか助けになりたいのに、アイザはいつも上手くできなくて自己嫌悪に陥るばかりだ。
 たくさんの人にすくわれてばかりで、何一つ返せていない。
「……アイザはタシアンにそっくりね」
 落ち着いてきたアイザを見て、ミシェルが微笑む。またそれか、とアイザは首を傾げた。
「そう、ですか……?」
 ガルにもそう言われたばかりだけど、他人の目からするとそんなに似ているのだろうか。自分としてはやはりどう考えても似ていないと思うのだが。
「自分よりも人のことを気にしてばかり。……タシアンもそういう人だから」
 タシアン、と彼の名を告げるときのミシェルは、嬉しそうで恥ずかしそうで、どこか切ない。けれどその目に悲しみはなかった。絶望もなかった。
(だいじょうぶ)
 きっと、この人なら大丈夫。確かにそう信じられる。
 けれど、それでも。
(しあわせな恋が、この人に訪れればいいのに)
 そう願わずには、いられなかった。



 寮の自室へ戻ると、帰ってきたという感覚が自然と湧いてくる。すっかりここが帰る場所として定着したんだなと思いながら、アイザはベッドに腰を下ろした。
「なにが悲しくて自分の姉の恋愛話を聞かされなきゃいけないんだか」
「……それなら席を外してくれていてもよかったのに」
 疲れたようにぼやくクリスに、アイザは言い返す。残ると言ったのはクリスだ。
「一人で聞いたらおまえはまたいらんことを抱え込むだろうが」
 どうやらクリスにはアイザがミシェルのことで頭を悩ませていたのが筒抜けだったらしい。その上で、誰にも相談していないこともお見通しだったのだろう。
(……クリスのやさしさはわかりにくいなぁ)
 くすりと笑いながらアイザは胸の内でありがとうと返しておく。彼の場合改まって礼を言われるのは嫌がるだろう。
「……結局タシアンが来るって言えなかったなぁ」
 伝えておくべきだったのでは、と今更になって後悔が滲んでくる。けれど、ミシェルにタシアンがノルダインにやってくるのだと告げれば動揺させてしまうのでは、とも思ったのだ。彼女のなかで恋が終わっていないのなら、なおさら。
「言ったところで姉上からは会わないと思う」
 お土産に、とミシェルに持たされたお菓子を机に置きながらクリスはきっぱりと言い切った。
「……そうかな」
「そういう人だからな」
 弟のクリスが言うのなら、そうなのだろう。
(それに、タシアンも会いに行くとは思えないしな……)
 ミシェルから聞いたタシアンとの別れたときの話を思い返せば、彼はおそらくミシェルとの関係を断ち切りたかったのだろう、と推測できる。断ち切りたかった。断ち切らせたかった。だからこそらしくないと思えるやり方で、マギヴィルを去った。
(ミシェルさんもそれがわかっているから、会わないんだろうな)
 おそらくアイザなどよりもずっとタシアンのことはわかっているはずだ。
「まぁ、イアラン殿下との縁談はまだ決定したわけではないし――正直、俺はうまくいかないほうがいいとは思う」
 言葉の端々に王族としての責任感を滲ませることの多いクリスにしては、珍しい意見だった。
「ミシェルさんのため?」
 やはり弟としても姉にはしあわせになってほしいのだろうか、とアイザは首を傾げる。しかしクリスは「それもあるが」と髪をかき上げた。
「姉上と殿下は上手くいくと思えない」
 まるで未来が見えているかのようにきっぱりと言い放つ。
「上手くいくとか、関係ないんじゃないか?」
 仲睦まじいことは喜ばしいだろうが、そうでなくても政略だと割り切ることのほうが多いだろう。
「確かに王族同士の結婚なんてそんなもんだけど……そういうことじゃなく――たぶん俺とおまえじゃ殿下に対する印象が違うんだろうな」
「え、そう……?」
 不思議そうに目を丸くするアイザに、クリスは頷いた。
「俺は会ったことはないし、ほとんど面識のある兄たちやおまえからの伝聞だけど――腹ん中何考えているかわからない狐だと思ってるし」
(き、狐……)
 アイザにとってはやさしそうな兄なのだが、クリスの目にはまったく別のものに見えているらしい。しかもあまり好印象ではなさそうだ。
「政略の上でどうしようもなくても、でも多少なりとも相性ってもんがあるだろ」
「そう、だよな」
「その点で言うと、馬鹿正直な姉上と、表面上好青年に繕って腹の黒い殿下じゃ相性は悪い。絶対、姉上は殿下が好くようなタイプじゃないし、姉上に関しては聞かなくてもわかるだろ」
「まぁ……」
(タシアンが好きだったんだもんなぁ……外見だって、二人とも全然似ていないし)
 イアランは細身で美しいたおやかな青年だが、タシアンは騎士ということもあって背も高く体格もいい。正直半分血が繋がっているとはとても思えない。
「どうせルテティアに帰ったら殿下に会うんだろ? 可愛い妹って立場を存分に使って聞き出せるもんは聞き出してこい」
 妹としての経験値も少ないのに無理難題を言う、とアイザはため息を零していた。





 ガルの試験勉強はあまり進まないまま、授業にはシルフィやルーを見張りにつけることで多少はマシになったようだった。けれどヒューやケイン曰く、やはり補習回避は厳しいらしい。本人のやる気がないのがなによりも問題だ。
「ママ!」
 今日一日の授業が終わり少し自習でもしようかと歩いていたところで、アイザの頭にシルフィが飛びついてきた。今はガルと一緒にいたはずだ。
「ああ、ここで授業していたのか」
 シルフィが飛んできたほうへ目を移すと、武術科が授業をしているのが見えた。シルフィがいたのだから、あの集団の中にガルはいるのだろう。どこにいるだろうと、前を見ずに歩いていると、どんっと人とぶつかった。
「わ、っと……すみません」
 随分と背の高い青年だった。武術科でも魔法科でもない、着崩したシャツは生徒ではないことを示していたが、教師にも見えない。ちょうどアイザは青年の胸元に顔をぶつけたらしい。
「こっちこそ悪かった。怪我ないか?」
 気さくに答える声は低く、見下ろしてくる瞳は金色だった。短く刈り上げられた髪は赤茶色。
(……なんだろう、ガルに似てる……?)
 容姿というより、纏う雰囲気がアイザのよく知る少年に似ていた。思わずじっと青年の顔を見つめていると、青年は不思議そうに首を傾げた。
「嬢ちゃん?」
「あ、はい、大丈夫です」
「なら良かった、気をつけろよ」
 ぽんぽん、と大きな手が去り際にアイザの頭を撫でていく。無骨な手のひらは、おそらく武人なのだろうと想像させた。
「こんにちはアイザ」
「よ」
 アイザに気づいたヒューとケインが近づいてきたので、手を振って応える。ガルはちょうど手合わせをしていた。今日は棒術の授業らしい。そろそろ授業も終わる頃で、ヒューやケインは後片付けを始めている。ガルはまだ生徒と組み合っていた。
「……実技は本当に大丈夫そうだな」
 ガルの動きは淀みなく、まるで風を纏っているかのように軽やかだ。身体能力の高さは獣人の血ゆえか、天賦の才か――アイザには分からないけれど、実力があるのだろうということは分かる。
「実技は、な。むしろ成績はいいと思うよ、実技だけなら」
 ヒューの苦笑交じりの声に、アイザも困ったように唸った。
「ううーん、もう少し座学を真面目にやればいいのに」
 生真面目なアイザとしては授業をしっかり受けないことが信じられないのだが、ガルにとってはそうではないらしい。しっかり者のケインもアイザと一緒に唸る。
「武術科の生徒にはよくいるんですけど、ガル自身が座学の必要性を感じていないんだと思うよ。ちゃんと勉強すれば、実践でも役に立つんだけどね……」
「本能の塊だもんな、あいつ」
 ヒューとケインの意見にはアイザも反論しようがない。ガルは明らかに考えるよりも先に身体が動いているタイプだ。
 解決策が見つからないまま頭を悩ませていると、ちょうどベルが鳴り、授業が終わった。
「アイザ!」
 ガルはアイザを見つけるなり、ぱっと目を輝かせる。武術科の生徒が散り散りとなり、次の授業へと向かっていた。

「――なんだ、ガキのくせにもうつがいはちゃっかり見つけてんのか」

 アイザが振り返ると、そこには先ほどの青年がいた。青年の金の目がガルを見下ろす。
「おまえ名前は?」
 無遠慮にも感じる唐突な問いかけに、ガルは眉を顰めた。
「……ガル」
 しかし警戒しながらも端的に答え、青年の様子を伺っている。青年はガルの答えに不思議そうな顔をした。
「それだけか?」
「そうだよ、悪いか」
 そもそもなぜそんなことをわざわざ問いかけてくるのか。
「……本当に何にも知らねぇんだな」
 呆れたような、わずかな驚きを滲ませるような青年の顔にガルはますます訝しむ。
 沈み始めた太陽があたりを赤く染め始めている。ガルの赤い髪も、青年の赤茶色の髪も同じ赤に染まっていく。



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