魔法伯爵の娘

獣人の青年(5)


 生徒たちがいなくなり、人気のなくなった訓練場はやけに広く感じられた。ぽつんと並ぶふたつの人影が夕日に照らされている。
 突如現れた青年に、警戒しているのはガルだけではない。漂うピリピリとした空気に、アイザは眉を寄せた。
「……あの人、武術科の教師じゃないよな? 関係者か何かか?」
 ただならぬ様子の二人を見ながらアイザはヒューに問いかける。魔法科のアイザには武術科の教員がわからない。先ほどぶつかったときは教員か誰かの客人なのだろうと思ったのだが、青年の目的はどうにもガルのようだ。
(でも、なんでガルに……?)
 ガルはアイザと違ってごく普通の生徒のひとりだ。強いて特徴をあげるとすれば、獣人であることくらい。けれどそれも、ガルの人懐っこさも相まって、マギヴィルにやって来てしばらく経った今となっては誰も改めて注目するようなことではなくなっていた。
 アイザのように、隠さなければならない秘密があるわけでもない。
「いや、見たことない顔だぞ? 新しい教師がくるなんて聞いたことない……よな?」
 ヒューがケインに確かめれば、彼も不思議そうに頷く。長期休暇前で試験間近というこの時期に人員が増やされるのは不自然である。
「……そうだね」
 ケインに覚えがないというのなら、学園の関係者でないことは確かだろう。青年はガルと数歩ほどの距離に立ち、その金の目でガルを観察しているようだった。睨み合うようにしている二人は膠着状態にある。
「様子が変だ……誰か先生を呼んできたほうがいいかもな。ケイン、行くぞ」
 マギヴィル学園に部外者が入ってくるとは思えないが、だとしても青年は謎すぎる。ガルに絡んでくる理由もわからない。
「ごめんアイザ、すぐ戻るから」
 駆け出したヒューとケインを見送って、アイザは再びガルと青年を見た。
 ガルは警戒して青年から目を離さない。その様子を楽しげに青年は眺めていた。アイザとガルの身長はそう変わらないので、ガルは青年の胸ほどまでの高さしかない。離れた場所から見ているアイザには大人と子どものように見える。
(……悪い人には、見えなかったんだけどな)
 けれどこの現状は、とても『いい人』には思えない。
「おまえ、武術科なんだろ? 試しに俺にかかってこいよ」
「は? 意味わかんないんだけど。あんたなんなの?」
 くいくい、と青年に挑発されてガルも威嚇するように言い返した。
 青年はふ、と笑う。金の目が細められ、少年のような無邪気さすら感じるほどの声で彼は名乗った。
「レグ・アザレ・ダントン。島国ジェンマから来た獣人だ」
 その声は、さほど大きなものではなく。けれどアイザの耳まで確かに届いた。

 ――獣人。

 その言葉に、ガルもアイザも目を見開いた。
(獣、人……)
 故郷のルテティアでは、滅んだとされる種族。ルテティアだけでなく、その存在が確認されている国は少ない。ノルダインにも獣人の里はなかったはずだ。
「獣人……?」
 ガルも驚きを隠せないのか、呆けたように呟いた。両親を失っている彼にとっては、初めて出会う獣人なのだろう。
 街から離れた自然多い土地で暮らすことの多い獣人は、街で暮らす人々と出会うことが極端に少ない。ゆえに彼らの文化や生態はほとんど知られていないし、研究もあまり進んでいない。独自の文化を持つゆえに、文明社会とは一線を引いている。
「なん、で」
 困惑するガルに無言のまま歩み寄ると、青年――レグはガルの腕を取り胸倉を掴んで軽々とガルを放り投げた。ガルは不意を突かれたためか、そのまま身体を地面に打ち付ける。普段の彼ならば受け身くらいはとれたはずだ。
「な」
 打ち付けた肩を庇いながらガルが顔を上げる。レグは既にガルを見下ろしていて、にやりと笑った。赤い太陽が二人を照らして、アイザからは二人の表情がよく見えない。レグがガルの耳元へ顔を寄せて、何かを呟いたようだということはアイザにもわかった。
「おっまえ……!」
 レグが何を告げたのかアイザにはわかりようもなかったが、その言葉を聞いた途端にガルはカッと火がついたようにレグに掴みかかる。先ほどまではわずかに残っていたはずの冷静さはどこかへ吹き飛んでいた。
「ガル……!」
 もう少しすれば誰かがくるはずだ。それまで大人しくしていればいい。けれどガルにはアイザの制止の声すら届いていないようだった。
「ルー、どうしよう」
 アイザが二人に割って入ることなどできるはずもない。自慢ではないが身体を動かすことはあまり得意ではないのだ。このままでは教師が来るまでに、頭に血が上ったガルは大怪我をしてしまうかもしれない。困り果ててルーを見下ろすが、ルーは「ふむ」と鼻をならすだけだった。
「大丈夫だ。おまえは見ていればいい」
「見ていればいいって……!」
 そうしている間にも、ガルは再び放り投げられていた。もう何度もアイザは悲鳴をあげそうになるのを堪えている。
 実技だけは得意で、成績も悪くない。むしろこのまま成長すれば、それは強くなるだろう――ガルがそう言われているのをよく聞いていたし、アイザ自身もそう思っていた。時折ガルが組み合っている姿を見る限り、彼はいつだって優勢だった。基礎の実技授業だから、経験の積んだ学生が少ないのも理由のひとつだとしても、ガルの実力は抜きん出ている。
 けれどどうだろう。今のガルは、まるで子どもが大人に挑んでは軽くあしらわれているようにしか見えない。ガルの訓練着はもう砂だらけなのに、レグの服には土埃などひとつ、ついていないのだ。それがますますガルを焦らせているのだろう、掴みかかる動作も単調になり、レグはつまらなさそうにガルの腕をひねり上げる。
「いっ、ぐ……!」
 肩を押さえられ、身体を地面に押し付けられたガルはもはや身動きは取れない。痛みに耐えるように奥歯を噛み締めレグを睨みつけた。
「ほんと、まだまだガキだな。身体もうまく使えていない。ただ感覚でやっているだけだ」
 はぁ、とため息を吐き出してレグはあっさりとガルから離れる。あのままガルの腕をひねれば、肩を脱臼するか、骨折していたかもしれない。だがそれをしないということは手加減しているのだ。いや、初めから手加減していた。レグは一度たりとも本気を出していない。
 そもそも彼に、ガルを痛めつけようという意思は感じられなかった。まるで、試しているように見える。
 ガルがあれだけ必死で噛みついても、手も足もでなかった。
「無知は無力だ。おまえみたいなのが獣人だと思われるのも恥ずかしいから、もう少し頭使って強くなれ」
 地面に伏せたままのガルを見下ろして、レグは告げる。

「……じゃないと、おまえは大事なものひとつ守れないぞ」

 レグは立ち上がらないガルを見下ろし、そして首筋を掻いたあとで何も言わずに立ち去った。赤い夕日に溶けていくように姿を消すレグを見送って、アイザは凍りついたように動かない足で一歩踏み出す。
(ガル……)
 圧倒的な強さというのは、ああいうことなのかもしれない。いくら魔法が使えても、アイザには助けに入る隙がまったくなかった。
 ガルは唇を噛みしめて、泥だらけになった手で固く拳を作る。怒りか、悔しさか、その両方か。震える拳を掲げると、地面に叩きつけた。
「ちくしょう!」
 吠えるようなその声に、アイザはびくりと足を止める。

「ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょおおおおおおおおお!」

 噛みしめた唇から、叩きつけた拳から血が滲む。それでもガルは地面に向かって叫び続けていた。



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