魔法伯爵の娘

第七章:王女のお茶会(1)



「アイザ!?」
「ママ!」
 足元に現れた、大きな円を描く幾何学模様。
「クリス、ガル……!」
 手を伸ばしたが、それはおそらく届かないだろうとアイザは分かっていた。チリチリと肌を焼くような魔法の粒子。ふわりとした浮遊感。足元から地面が消え失せて、それでも落ちるような感覚はいっこうにやってこない。
(――ああ、まただ)
 明らかに異常な現象が起きているのに、アイザはあまり動揺しなかった。今回は身の危険はなさそうだし、何よりルーも一緒にいる。初めてのことでもないから、冷静に考える余裕があった。
 瞬きひとつ。
 その一瞬で、アイザの青い目に映る景色は一変していた。
 屋外の森の気配は消え失せ、頭上にはシャンデリアがある。臙脂の絨毯はアイザの足をやわらかく受け止めて、天井まである大きな窓からは陽光が降り注ぐ。整えられた調度品はどれも一級のもので、こんな部屋をアイザは知っていた。

「こんにちは」

 冷静に周囲を確認するアイザの目の前にはクリスによく似た可愛らしい女性が一人。淡い金の髪がまっすぐに背に流れ、理知的な碧の瞳がアイザを見ていた。彼女がクリスの言っていた姉だろう。
「……こんにちは」
 こうも呑気に挨拶していてよいものか、と思いながらもアイザは挨拶を返す。女性がくすくすと笑って目を細めた。
「驚いた。全然びっくりしてないのね? 顔に出ていないだけ?」
「こういう急な招待は二度目なので」
含みを持たせたアイザの返答に、女性は苦笑した。
「ごめんなさい。こうでもしないとあなたと話す機会がなさそうだったから」
 こほん、と改まって咳をすると、女性は口を開いた。
「はじめまして、私はミシェル。ミシェル・シュロス・ノルダイン。クリスの姉です」
「はじめまして。アイザ・ルイスです」
 女性に、ミシェルにつられて思わずごく普通に挨拶をすると、姿を消したままのルーが「何をやっているんだ」と言いたげに尻尾でアイザの足を叩いた。
(だって、悪い人には見えないし……クリスのお姉さんだし)
 警戒心がないとルーは言いたいのだろうが、警戒する理由が見当たらないのだ。
「お茶の用意があるの、どうぞ座って?」
 にっこりと笑う姿も、クリスのようにわざとらしい作り笑顔ではない。示されたソファに素直に腰を下ろすと、侍女ではなくミシェル自ら紅茶を淹れ始めた。
「あなたとずっと会って話しがしたかったのに、クリスったらそのうちってはぐらかしてばかりだったから。つい強硬手段に出ちゃったの。ごめんなさいね?」
 紅茶の注がれたティーカップがアイザの前に置かれる。自分の分も用意すると、ミシェルはアイザの向かいに腰を下ろした。
「いえ、まぁ……」
(別にどうでもいいというか……むしろ)
「……どうして私に?」
 クリスの友人、というだけでは興味を持つにはいささか無理がある。
 ミシェルはふわりと笑った。そうすると、クリスによく似ている。姉弟というのも納得だ。
「もちろん、あのクリスが仲良くルームメイトとしてやっていけているっていうのも気になったきっかけなのよ?」
 ミシェルはティーカップにひとつ角砂糖を落とす。それを銀のスプーンでくるくるとかき混ぜると、すぐに紅茶のなかへ溶けていった。
(あのクリスって……癖はあるけどそんなに問題児ってわけではないと思うけどな)
むしろクリスは人との距離をうまくとっている。相変わらずアイザはガルたちの他に友人らしい友人はいない。
「それで、クリスとは付き合ってるの?」
「ぐほっ」
 目をキラキラと輝かせてミシェルが投げかけた問いに、アイザは口に含んだ紅茶を吹き出しそうになった。行儀作法なんてどこかに吹き飛ぶ。
「は、は!?」
(空耳!? いやでも確かに付き合ってるのどうのって――)
「だって本当に珍しいのよ。クリスは気難しい子だし、うまくやっていける子なんて今までニーリーとナシオンくらいだったんだから。だからつまりそういうことなのかしらって」
 そういうこともどういうこともない。この場にクリスがいたらきっと怒っている。
「ちが、違います! クリスは友人です!」
「王族とかどうのとか気にする必要はないわよ? うちはそういうの寛容だし、あなたのことも多少は知っているし」
「いや遠慮とかそういうんじゃなくて、本当に違います!」
 遠慮なんて、本当にありえない。
「なんだ、残念。クリス、今は女の子にしか見えないけど顔は悪くないでしょう? もしかして誰か好きな人でもいるの?」
「す、すきなひと……?いや、そういうこと考えたことないので」
 好きな人とか、恋人とか。そんなことを考えている暇なんてない。なんのためにノルダインにやって来たのか考えてればどう過ごすかなんて自ずと決まってくる。
(あれ? 今)
「……わたしのことを、多少は知っているって……」
 クリスもアイザの事情は知っていた。まさかミシェルも? とアイザは困惑した顔でミシェルを見た。
「……あなたの後見人は、タシアン・クロウなんでしょう? 学園への紹介状を書いたのも彼だって聞いたわ」
「そう、ですけど……彼とお知り合いなんですか」
「知り合いも何も。クリスのことを知っているんだから、うちの王族が成人までにどう過ごしているかは知っているんでしょう?」
「ええ」
 性別を誤魔化し、生まれを隠して一般の生徒同様に過ごす。それが決まりだったはずた。つまりミシェルの場合は男装していたのだろう。
「タシアンはね、私のルームメイトだったのよ」
「ごふっ」
 思わずまた口に含んでいた紅茶を噴き出しそうになったが寸前のところで堪えた。高くて良い紅茶だ。吹き出すなんてもったいない――が、気管に入って少し噎せる。
 ごほごほ、と何度か苦しげに咳をしたあとで、アイザが声を上げた。
「タ、タシアンが!?」
「そうなの。これでも私はマギヴィルの武術科を卒業してるのよ。もちろん、男としてね」
 誇らしげに力こぶを作るような仕草をするミシェルの、その細腕のどこに武術科でやっていけるだけの力があるというのかアイザはとても信じられなかった。ガルの授業中の姿を何度か目にしたことがあるが、体術や剣術だけでなく様々な武器を使いこなせるように多種多様なカリキュラムがあったはずだ。
「セリカは知っているわよね? 彼女は私の護衛だったの」
 アイザはミシェルの口からとんとんと明かされる事実に驚かないようにするのに必死だった。とりあえずお茶はなるべく口をつけないようにしている。そうですか、と小さく零してアイザはクッキーに手を伸ばした。昼食も食べていないのでさすがのアイザもお腹が空いてきたのだ。
「……あれ、タシアンとセリカ先生と知り合いってことは、レーリとも?」
 レーリとセリカは知り合いだったし、セリカはタシアンのことも知っていた。それならばとアイザが問いかけると、ミシェルは「ええ」と微笑んだ。
「レーリは友人よ」
「それならもしかして、レーリが言っていた会わなくてはならない友人って……」
 アイザとガルと別れるときに、レーリはそんなことを言っていた。マギヴィルの卒業生だと言っていたから、学生時代の友人なのだろうと予想はしていたが――それがまさか王女様なんて。
「そんな風に言っていたの? 確かに久々にこちらに来るっていうから顔を見せに来てとは言ったけど」
(そりゃ王女様から顔を見せに来いと言われたら断れないだろ……)
「レーリからもあなたのことは聞いていたし、本当に気になっていたの。あのタシアンが紹介状を書いてあげるなんて、どんな子だろうって」
 ミシェルが苦笑しながらティーカップを置いた。少なくなった紅茶を見つめながら、まるで遠い昔を思い出すように、ぽつりと呟いた。
 その口ぶりだと、タシアンとは疎遠になってしまっているように聞こえた。
「……タシアンと連絡は」
 アイザを見たミシェルの碧の瞳が、悲しげに細められる。泣き笑いのようなその顔に、なぜかアイザは胸が苦しくなった。
「タシアンとは、会っていないの」
 もう会えないの――会って、くれないの。ミシェルは消え入りそうなほど小さな声で、そう答えた。



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