魔法伯爵の娘

第七章:王女のお茶会(5)



 雨が、降っている。
 もうずっと、あの日から止まないまま。

「――団長?」

 重苦しい眠りは安らぎを与えることなく、タシアンは夢現に呼ばれて目を開けようとした。けれど瞼はぴくりとも動かない。夢の余韻か、それとも呪いか。タシアンの頭には泣いているようなミシェルの叫び声がこだましている。
「タシアン」
 副官がタシアンの名を呼ぶのは、随分と久しぶりだった。国境騎士団に入ってからというもの、学園の日々を忘れ去るようにレーリはタシアンを上官として扱う。友人とは、もう呼ばないと言われているようだった。
 ゆるりと瞼が動き出し、タシアンの青い瞳が現れる。
「……どのくらい寝てた」
 のそりと頭を持ち上げながら前髪をかきあげる。机の上に散らばった書類を引き寄せて居眠りする直前までの記憶を掘り起こした。
「小一時間ほど。珍しいですね」
 珍しいというなら、レーリがすぐに叩き起こさなかったほうが珍しい。ここ数ヶ月はタシアンもかなり多忙を極めていた。実質上ルテティアの国政を担うイアランに信頼できる手駒は多くない。王立騎士団の不祥事もありタシアンのもとへ流れ込んでくる仕事は増えている。
「嫌な夢を見た……ああ、雨か」
 独り言のように呟いたあとで、どうりで、とタシアンは窓を打つ雨を眺めた。雨の日は、嫌なことを思い出す。

 振り切るために、振り返らなかった。
 刺すような冷たい雨の中、ただただ一刻も早くその場を去ることだけを考えていた。
 彼女にとって、自分が最悪の男になればいい。二度と会いたくないと思えるような、そんな最低な男であれば、彼女もきっとすぐに忘れるだろう。

 手元にある書類を見て、嫌な夢の原因はこれだろうな、と笑う。懐かしい名前を見た。ただそれだけだ。たったそれだけだが、タシアンにとっては急所のようなものだ。
「……あと一ヶ月半でマギヴィルは長期休暇ですね」
 レーリがぽつり、と世間話のように口を開いた。仕事中に無駄口を叩くのは珍しい。
「ああ、もうそんなに経ったのか」
 マギヴィル学園は年のはじまりのひと月ほど、長期休暇が与えられる。たいていの生徒は里帰りして、学生特区はすっかり空っぽになるのだ。
「アイザの迎えはどうしますか」
「そこあたりは殿下がうるさいからなぁ……」
 普通なら騎士団の誰かに任せるところだ。ただの生徒ならば迎えなど必要ないが、彼女はアイザ・ルイスである。おそらく本人さえもまだ自分の価値に気がついていない、金の卵。
 だからこそ、タシアンはガルをマギヴィルに通わせることにした。彼のアイザへの盲目的なほどの献身は、タシアンにとっては都合がよかった。ガルはきっと、何があってもアイザを危険から守ろうとするに違いない。
「あなたは行きたくないんでしょう?」
 夢を忘れかけていたところで、レーリがひやりと冷たい言葉を落とす。
 行きたくないんでしょう? マギヴィルへ。ノルダインへ。――彼女の住む場所へ。
「……今日は妙につっかかるな?」
「雨の夜ですから」
 表情ひとつ変えずにレーリは散らかっていた書類や資料を片付けている。ちくりと刺さる言い方も、もちろんわざとだろう。
「こっちが忘れた頃に嫌味を言わずにいられないなら、うちになんか来なきゃよかっただろ」
「勧誘してきたのはあなたですよ、団長」
 それはもちろんそうだ。タシアンが学園を去って、国境騎士団を任されて、レーリも卒業する頃合いだろうと思ったら、うちに来るか、と気づけば口にしていた。優秀なレーリがいなければタシアンの仕事は倍以上に膨れ上がるだろうということも、わかっている。
「だいたい、忘れたことなんてないでしょうに」
 たとえレーリが何も言わずにいたとしても、タシアンが忘れることなんてない。
「……」
 彼女はどうしている、と。
 問えばきっとこの副官は答えるだろう。彼が二ヶ月ほど前にノルダインまで行った折、彼女と会っているはずだ。いや、会っていなくともセリカには顔を合わせただろう。セリカはマギヴィルの教師になっているというから。アイザからの手紙にもその名はあった。
 唇をわずかに開いたあとで、タシアンは言葉ひとつ紡がずにきつく引きむすんだ。
 手元にある書類には、ミシェル・シュロス・ノルダインの名がある。
 それは、イアランの婚約者に彼女はどうかという内容の書類だった。ちょうど同い年で、交流も深い隣国同士。似合いの二人ではないか、と重鎮たちは乗り気である。この話に表情を凍りつかせたのはタシアンくらいだろう。イアランは何も言わずにタシアンをちらりと見ただけだった。
 数ヶ月後に迫るイアランの即位のために、婚約者を先に決めておくべきだという意見と、国内の情勢が落ち着くまでは待つべきだという意見でわかれている。タシアンはどちらでもない。しかしできることなら、イアランにもアイザにも不幸な婚姻だけは結んで欲しくない。タシアン自身がその不幸な結末そのもののようなものであるから。
 だがアイザはまだしも、イアランの婚姻に政治が絡まずに済むわけがない。それを考えれば相手が彼女なのは、良いことなのかもしれなかった。きっと彼女にならイアランも気を許すかもしれないし、殺伐とした夫婦関係にはならないだろう。
「こっちの書類は出来てますよね?」
「ああ」
「報告書、催促してきます」
 出来上がった書類を手早くまとめ終えると、レーリは未提出の報告書を取りに行った。ジャンやリックあたりは催促されてやっとという有様なのでいつものことだ。
 レーリが部屋を出ると、やけに雨音が大きく聞こえる。


『タシアン、あのね。……あのね、私』

 潤んだ目でこちらを見上げながら言葉を探す彼女の姿を思い出す。
 セリカ曰く、隠し事が出来ないという言葉通り、彼女の思いは筒抜けだった。彼女の顔はまさに恋する少女のそれで、そろそろ潮時なのだろうとも思っていた。
 ルテティアでの情勢も整い始めたと連絡がきている。ならばもう、決断するしかない。
『やめておけ』
 拒絶するために吐き出した声は、自分でも驚くほど平坦だった。彼女が、ミシェルが、困惑するように見上げてくる。その碧の目が不安に揺れていた。
『俺とおまえとじゃ、住んでる世界が違う』
 だからその胸に秘める想いなど、伝えないでほしい。どうすることもできない。応えてやることなどできない。タシアンは、国のために――イアランのために生きると決めた。恋なんて、そんなものは必要ない。
 タシアンの知る恋というものは、いつだって不幸を呼ぶものだ。
 だから。
『……やめておけ』
 応えて、やれないんだ。





 カーティスの案内で城内に入る。すれ違う使用人たちはガルやクリスを見ても顔色ひとつ変えずに己の仕事をこなしていた。ガルの知る、ルテティアの王城とは雰囲気からして異なる。あたたかな光が窓から降り注ぐような、やさしい空間だった。
「ここは?」
「城の離れだ。試練前の王の子がここで育つ」
 クリスが堂々としているのもそういうことなのだろう。クリスやガルという本来いるはずのない存在に対する使用人たちの『気づかぬふり』はこの離れを任されているからこその対応なのだ。
「……シルフィ。ママのいるところわかるか?」
 もうそれほど離れていないはずだ。ガルの肩のあたりをふわふわと飛んでいるシルフィに小声で話しかけた。シルフィは「うん?」と首を傾げたあとに何かを探るように遠くを見た。すんすん、とわずかにその小さな鼻が動く。
「うん、わかるよ。ママちかくにいる!」
 ちかづいている、と答えたシルフィに「そっか」と微笑んだ。カーティスがガルやクリスを騙しているということはなさそうだ。
 だがどれだけ耳を澄ましても、アイザの声は聞こえない。近くにいる。近づいている。それは確かなのに焦りは消えない。
「……アイザはこの先にいるんだよな?」
 ガルの問いはカーティスに向けたものだったのか、それともシルフィへのものだったのか。振り返ったカーティスは前者だと思っただろう。カーティスには見えていないシルフィはこくこくと頷いていた。
「ええ、もちろん。このまままっすぐ進んだ部屋に」
 カーティスがそう答えた瞬間、ガルは走り出していた。
「シルフィ、案内して!」
「わかったー!」
 楽しげにシルフィは笑いながらガルの前を飛んでゆく。一拍のちにクリスがハッとガルを捕まえようとしたが時すでに遅し。その背は瞬く間に小さくなった。
「こんの……馬鹿犬!」
 大人しく待てもできないのか! とクリスが腹立たしそうに吐き捨てたが、すぐに追いかけるような様子はない。
「……いいんですか?」
 カーティスがガルが走り去った方角を見て呟く。なるほど、咄嗟に捕まえるには難しいほどすばしっこい。一瞬でも判断が遅れれば彼に追いつくのは困難だろう。
「行き先はひとつしかない。ほっとけ」
 どうせこれからゆっくりと歩いて向かうのだから、とクリスはため息を吐き出した。急いだところで省略できる時間はせいぜい五分程度だろうに。
「……彼は、獣人ですよね」
 ガルの走り去ったほうを見やって、カーティスがぽつりと呟いた。赤毛と金の目は獣人によくある特徴である。それに加えてガルのあの身体能力からカーティスにもわかったのだろう。
「らしいな」
「なるほど……だからですね」
 一人で勝手に納得したようなカーティスに、クリスは眉を顰めた。
「何がなるほどで、何がだからだ」
 獣人についてはどの国も多くを知らない。ノルダインには獣人の里はなく、隣国ルテティアにおいては獣人は滅んだ、とされていた。人より優れた身体能力を持つというくらいのことしかクリスは知らない。ただ、独特の文化を持つということくらいの認識だった。だが文化など幼い頃に人里に預けられたガルには無関係のはずだ。
「獣人は、情熱的な人が多いので」
 カーティスは微笑んで答えを与えるようにみせかけて、それは正しくクリスの欲している正解ではないようにみえた。クリスはますます眉間の皺を深める。
「……おまえも大概性格が悪いな」
 鍛えられましたから、と微笑むカーティスにクリスはもう何も言い返さなかった。


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