魔法伯爵の娘

終章:つぼみの花




 走って走って走って。
 それでもまだ足りない。一分一秒でも早く、と逸る心はガルにも止められなかった。渇いた喉が水を欲するのに似ている。足りない、満たされない、渇きはます一方だ。
「こっちー! この部屋!」
 先に行くシルフィがひとつの扉の前でくるりと回ってみせた。ここまで来るとガルにもわかる。耳を澄ませれば聞こえてくるかすかな話し声のなかに、求めていた人のものがあった。
「アイザ!」
 走ってきた勢いをほとんど殺さないまま、ガルは扉を開け放った。大きな音に驚いて、振り返った濃灰の髪の少女と目が合う。
 いた。
 焦っていた心が、歓喜で埋め尽くされる。言葉にならない感情が溢れ出してガルはそのままアイザに駆け寄った。
「ガル!?」
 驚くアイザを力一杯抱きしめると、ようやく胸につかえていた息が吐き出されていく。アイザだ。アイザがここにいる。ここに、自分の腕のなかに。手を繋いでいてもほどけていく、けれど、こうしていれば、どこにも行かない。
「ちょ、くる、くるしい……!」
 腕の中でアイザがじたばたともがき始めたのに気づいて、ガルはゆるゆると拘束を緩めた。しかしその腕はしっかりとアイザを包み込んだままである。くっつきそうなほどの距離にアイザは顔を赤くして身をよじった。
「ち、ちかい、近いから。おまえなんでここにいるんだ? クリスは? 一緒じゃないのか?」
 離れようとするアイザをしっかりと抱きしめたままガルは首を傾げる。
「さぁ? たぶんあとから来ると思うけど」
「さぁって……おまえな……」
 いつもよく見せるアイザの呆れたような顔に、ガルは上機嫌ににこにこと笑っている。その笑顔に毒気を抜かれてしまったアイザも苦笑した。
「ママ!」
 シルフィも嬉しそうにアイザにすり寄って離れようとしない。二人にくっつかれたままアイザはどうしようと困り果てていた。
「……あれ? 恋人はいないんじゃなかった?」
「アレは一応まだ付き合ってない」
 ミシェルがアイザとガルを見つめながら不思議そうに呟いたところで、ちょうどクリスがやってきた。役目を終えたカーティスの姿はない。
「あら、クリス。思ったよりも早かったのね」
「……姉上」
 面白くなさそうなミシェルを、クリスはじとりと睨みつけた。
「こういうことに人の友人を巻き込むのも人の護衛を懐柔するのも近衛騎士団を使うのもやめてもらえますかね」
「だって兄さんたちはあんまりクリスをいじらないし、私が試練を与えるしかないでしょう?」
「それはそれでこれはこれ! 無関係の人間を巻き込まない!」
「だってクリスが全然アイザを連れてきてくれないから」
 ふくれっ面で抗議するミシェルにクリスはますますお説教しているのがアイザの耳にも聞こえる。ガルは相変わらずアイザを離す気はなさそうだし、シルフィもぴったりとアイザの頭にくっついている。
(ど、どうしよう……)
「……ルー」
 唯一助けてくれそうな存在を縋るように見おろすと、ルーは呆れたようにため息を吐いた。くいっと鼻先を動かすと、引き剥がされるようにガルとシルフィがアイザから離れた。
「は!?」
 見えない巨人につままれるかのようにガルは後方に引っ張られ、シルフィはふわりとルーの背に乗せられた。
(……たすかった)
 はー、とアイザが深呼吸してほっと安堵する。
「そろそろ離れなさい、アイザが困っている」
(いや、わりと最初から困っていたんだけど)
 ガルは一瞬ムッとしてから、すぐにアイザのもとへ寄ってくる。まさかまたか、とアイザが身構えたところで犬が待てをするように大人しく隣に並ぶだけとなった。だいぶ気は済んだらしい。
「そっちも落ち着いたか。それなら帰るぞ」
 ひととおり姉に説教したクリスがアイザとガルを見て告げる。わずかに残った紅茶はすっかり冷めていた。
(あ……)
 結局ミシェルに気の利いたことを言えないままだ、とアイザは顔を曇らせたが、ミシェルは憂いた表情を欠片も残さずに微笑みながら「またね」と手を振っている。
 アイザだけが後ろ髪引かれるように、その場を去った。



 ガルとクリスが通ってきたという道を、今度はアイザも一緒に帰る。心配性のガルは歩き出すとすぐにアイザの手を握り離そうとしない。
 地下水路に入ると湿り気のある空気に包まれた。ルーは湿気の多い薄暗さを厭い、別の道を行くといって別れたところだ。何かあれば呼びなさい、と言われたがガルやクリスもいるので別行動をとったのだろう。
「……なぁ、ガル」
「なに?」
 数歩先を歩くクリスにシルフィはじゃれついていた。アイザと離れている間に仲良くなったようだった。
「好きな人に好きって伝えることもできないのは、きっと辛いよな」
「そりゃ、辛いんじゃね」
 ――だって、とガルは続ける。
「誰だって、好きなものは好きだって、言いたいだろ」
「……そう、だよな」
 ガルの簡潔な答えに、アイザは下を向いた。薄暗い地下水道のなかでは足元すらよく見えない。一人でいたらすぐに転んでいたかもな、と思いながらしっかりと繋がれたガルと自分の手を見る。
(たとえ、好きでない人との結婚が避けられないとしても――)
 言えないままなのは、苦しいに違いない。言えないままでは、終わりにもできない。
「好きなら好きだって言いたいし、できれば好きになってほしいし、いつだって一緒にいたいし、いつも笑っていてほしいなって……そう思うよ」
 まるで自分のことを話すかのようにすらすらとガルが語るので、アイザは目を丸くした。繋がれたままの手をひっこめようとしたが、ガルはアイザの手を離さない。
「……ガルって好きな人いたのか?」
 言葉にしてから、自分でも驚くほどに声が震えていてアイザは動揺した。その動揺を落ち着かせるよりも先に、ガルが不思議そうな顔でアイザを見る。
「は? なんで?」
「……まるで自分のことのように言うから」
 少なくともアイザには、想像もできないような答えをガルは持っていたから。だから、思ったのだ。ガルは誰かが好きなんじゃないかって。恋を、しているんじゃないかって。
 しかしガルは「んんー?」と首を傾げた。
「別に、なんとなくだよ。俺ならきっとそうかなってだけ」
「……そっか」
 ほっと安堵するアイザの声に、先を歩くクリスは馬鹿馬鹿しい、とため息をついた。後ろの二人は無自覚に惚気てるようなものだ。
 恋愛の形は、ひとつじゃない。
 触れてはいけないものにどうしようもなく焦がれる感情を、自分では抑えきれないほどの執着を。
「……それを恋っていうんだろうが」
 地下水路に落ちたクリスの呟きは、二人の耳に届かないまま消えていった。

 無自覚な恋は、まだ花開くことを知らないまま。



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