魔法伯爵の娘

第三章:森に棲む精霊(4)


 走り去るアイザの濃灰色の髪を見送って、木の陰に身を潜めた男子生徒が呆れたように呟く。ひとつに結った黒髪がわずかに揺れた。
「馬鹿だなぁ」
 少女たちの様子を傍観していただけで仲裁にも入らず、その結末に苦笑するだけの男子生徒は魔法科の制服を着ていた。暗くなり始めたこの刻限に、紺色は身を隠すのにちょうどいい。
「編入生のあの子の魔力を多少なりとも感じる人間なら、喧嘩売ったりしないですよね。まぁあの子たち程度の実力だとわからないのも無理ないけど」
 男子生徒は自分の隣に、いや、自分の陰に隠れるようにして木にもたれている女子生徒を見下ろした。返答はないまま、彼女は緑色の瞳でちらりと彼を一瞥するだけだった。
 確かにアイザ・ルイスという編入生は異質だった。生徒のなかにはその異質さを理解している者も少なくない。類い稀な高い魔力を持ちながらも、魔法については基礎を知っている程度で、応用や専門の授業は一切受けていない。だから、彼女の実力を計り知ることのできない者は眉を潜めている。なぜあんな子が編入してきたんだ、と。もっと小さな、田舎の魔法学校にでも通えばいいじゃないか、と。
 特に魔法科の生徒の一部には、魔力がある、魔法を使える、という点からエリート意識を持つ者がいる。そういった者に目をつけられてしまったのだろう。
「森に行っちゃったみたいですけど、どうします?」
 マギヴィル学園の傍の森は精霊たちが多く棲む場所でもある。良き隣人とはいえ、不用意に立ち入れば精霊の怒りを買うこともある。ゆえに許可されていない者の立ち入りは禁じられていた。生徒たちが森に入るのは実習のときくらいで、それも複数人のグループを組んでのことだ。
「……サーベス先生にでも伝えておけばいい」
 面倒見のいいセリカ・サーベスなら急いで駆けつけてくるだろう。どうも個人的にもアイザ・ルイスと付き合いがあるようだった。
「でも、もう日が暮れますよ。この時間の森に、ろくな魔法も使えない子が入るってのは危なくないですか?」
 空が赤く染まり、東の空は既に夜を呼び始めている。完全に太陽が落ちるまでそう長くはかからないだろう。夜の森はただでさえ危険だ。しかも、あの森には精霊が多く棲んでいる。
「立ち入り禁止なのは分かっていて彼女も入ったんだから、自業自得だ。知るか」
 冷たいなぁ、と呟くとぎろりを睨みつけられたので男子生徒も口をつぐむ。
「ふたりともお待たせー! なーにこそこそしてんの?」
 小走りでふたりの元へ駆け寄ってきたひとりの女子生徒が短い髪を揺らして笑いかける。深緑の制服――武術科の生徒だ。
「遅かったなニ―リー。女の修羅場に遭遇してたんだよ」
 ニーリーと呼ばれた少女は、オンナの修羅場ねぇ、と繰り返して首を傾げ、丸い目で男子生徒を見上げた。
「もしかして例の編入生ちゃん?」
「まぁな」
 年若い少年少女が集まれば、そこそこの騒動は日常茶飯事だったとしても、平穏だった学園に突如投げ込まれた騒動の種はわかりきっている。ニーリーは苦笑してやっぱり、と零した。
「武術科でも噂になってるからね」
「そっちの編入生は?」
 同じタイミングで武術科にもひとり、編入生が入った。アイザ・ルイスほど話題にならないが、本来ならばもっと騒がれてもおかしくない――噂では、獣人の少年なのだという。
「彼はもうずーっといたんじゃないのってくらいに溶け込んでるよ。あれはあれですごいね」
 あはは、と笑い「そんで」と女子生徒は続ける。琥珀色の瞳がきらりと光った。
「……あんたはいつまで世間話してるつもりなの? ナシオン」
 にっこりと微笑みながら「とっとと先生に報告してこい」と目が告げている。目を逸らすとしばらく黙っていたもうひとりからも睨み付けられた。
「はいはい、じゃあ俺が先生のところに行ってきますかね……」
 女子ふたりに睨まれて勝ち目がないことはよく知っている。
 ちらり、と修羅場を繰り広げていた女子生徒たちを見ると、脱ぎ捨てられたアイザ・ルイスの上着を握ったままどうするんだと喚いている。全員で罪をなすりつけ合う姿は実に滑稽だった。
 太陽が無情にも沈む。暗闇を呼び寄せる夜とともに、遠くから赤い髪を揺らして少年がこちらに向かって走ってきていた。



 くすくすと笑う声が聞こえる。反響するその声はアイザの頭に響いて思考することを妨害する。
 見えない、ということは、その存在を認識しないことと同義である。つまり見えるということは、その存在を認めることになる。先ほどから耳障りなほどに聞こえてくる数多くの声は、音は、精霊によるものなのだろう。
 それは、淡い青のひかりだった。
 女子生徒が呼んだ風の精霊のひかりだ。アイザはその目で青いひかりを追いかけながら森を走った。夕闇がいつのにか夜の闇に変わる。しかしアイザの目に森のなかは明るく眩しいほどだった。
〈――アイザ。アイザ・ルイス〉
〈私たちが見える不思議な子〉
 なぜ名前を知っている。
 なぜわたしを知っている。
 耳から、頭から、どこからかともなく響いてくる声にアイザは苛立つばかりだ。
 眼鏡を持ち去った精霊は、まるで追いかけっこを楽しむようにアイザの手が届かない数歩先をゆく。アイザが足をもつれさせて立ち止まれば、ほら早く、と言わんばかりに待っていた。
(精霊に関わると、ろくなことがないな)
 今はこうして追いかけっこで、ヤムスの森では水底に引きずり込まれた。つくづくアイザは精霊と相性が悪い。
 早く戻らないと、寮の門限もある。夕飯にだって間に合わなくなるかもしれない。まだマギヴィルに来て日の浅いアイザは部屋に間食できるようなものを置いていないのだ。下手すれば朝まで何も食べられなくなる。
「待、て……!」
 息も途切れ途切れに手を伸ばす。精霊はふふ、と楽しげに笑ってアイザの手から逃れた。逃すものかとアイザが一歩踏み出すと、足元をおろそかにしていたせいだろう、木の根に躓いた。
 あ、と思う間もなく転んでしまった。反射的に手をついたからよかったものの、制服に土や葉がついた。
「い、たた……」
 やわらかな土のおかげで怪我は免れたが、転んだ拍子に軽く足を捻ったようだ。これではもう先ほどのようには走れない。
「……今日は厄日なにかか……?」
 はぁ、とため息を吐き出しながら足をさする。ガルと口論になるし、女子生徒には絡まれるし、精霊には馬鹿にされてこのままだと朝まで空腹に耐えることになる。いや、そもそもこの足で森を出られるだろうか。
 きらり、と翠のひかりが目の前で揺れる。そういえば、いつの間にか騒がしさがなくなっていた。
 精霊の姿が見えない。追いかけていた精霊も見失ってしまった、と思いながらも静けさを取り戻した森を見上げた。ふわりふわりと魔力の残滓のようなひかりが漂っているが、目を焼くほどの眩しさはない。精霊のひかりとは違う。
(なんで、静かになったんだ……?)
 それに、姿は見えないが精霊の気配はかすかにあった。痛む足を庇いながら立ち上がり、ゆっくりと歩く。夜の闇は依然として遠く、淡い翠のひかりが森を彩っていた。
 それらのひかりに誘われるように前を見ると、そこには大きな樹があった。その幹の太さは人が何人も抱え込まなければならないほどで、天に広がる枝が深い緑を茂らせている。
 そしてその根本に、一頭の黒い狼がいた。丸くなり眠っているようだったが、アイザには気づいている。耳がぴくぴくと時折動きながらこちらを向いていた。
 その黒い毛並みは、あわく翠色のひかりを帯びている。さきほどから見えているひかりは、あの狼の魔力なのだろう。この空間そのものが彼の力によって何か作用しているのかもしれない。
 アイザは青い瞳を見開き、そのうつくしい獣に魅入った。ゆっくりと立ち上がり、薄く開いた唇を動かした。
 ――アイザは、彼を知っている。

「……もしかして……ルー?」

 ぴくり、と耳が動いた。
 ゆるりと開かれた狼の目は、翠。アイザの記憶にあるものと同じだった。


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