魔法伯爵の娘

第三章:森に棲む精霊(4)


 ひだまりの夢を見た。
 やわらかな毛並みに包まれて、絶対的な安心感を得て幼いアイザは眠っていた。
『ルー』
 いつだって、アイザの舌足らずな声が彼を呼べば、すぐにやってきた。
 ふさふさの黒い毛並み。ぴんと立つ耳。踏みしめるたくましい四本の脚。翠の瞳はいつも慈しむようにアイザを見つめていた。
『――アイザ、私のいとしい娘』
 いつだって一緒だった。起きているときも、眠るときも。
 もう一人の父であり、母であり、きょうだいであり、友人であった。





 彼はすん、と鼻を鳴らした。翠の瞳が、驚き言葉を失うアイザを見つめる。
「……その気配は、もしや、アイザか?」
 低い声は、やはり幼い頃にアイザを呼んでいたものと同じだ。狼が人と同じ言葉を発しても、アイザは驚くことはなかった。黒い狼――否、ルーは、精霊だった。それも、アイザがあちこちで見たような下位の精霊ではない。存在だけで周囲に影響を及ぼすような、高位の精霊だ。
「やっぱり、ルー……!」
 痛む足を無視して駆け出すと、アイザはその太い首にしっかりと抱きついた。ふかふかの毛と、日だまりの香りは記憶の奥底にあるものと変わらない。そのことが嬉しくてじわりと涙が滲んだ。
 抱きしめる毛並みは相変わらず艶やかで、老いなど感じさせない。黒い毛には一本も白いものは混じっていない。十年以上も前に別れたというのに、ルーの姿はそのときとまるで変わらなかった。
(生きてた、やっぱり生きていた……!)
 幼いアイザには、しゃべる狼が精霊であるだなんて考えはなかった。ルーが姿を消してからというもの、父にその真実を問うことができないまま、アイザはルーが生きているのかどうかさえ分からなかった。
 成長するにしたがって、ルーがおそらくかなり高位の精霊であること、そして父と契約をしていていたのだろうということを推測し、それならばきっと、どこかで生きているのだろうと――そう願うしかなかった。
「ルー……あれからどこに?」
「いろいろなところを回ったが……そうだな、十年ほど前にはここに落ち着いたか」
 十年、と小さくアイザは呟いた。アイザにとっては長い時でも、精霊であるルーにとってはそう長いと感じる日々ではなかったのだろう。抱きついてくるアイザに「大きくなったものだ」と嬉しそうに呟いた。
「……おまえがここにいるということは、やはりリュースが死んだというのは本当だったのか」
 ぽんぽん、とルーの尻尾がアイザを落ち着かせるように背を叩く。低い声は、どこか悲しげな響きをしていた。
「……知っていたのか」
 ゆるりとアイザは首に回していた腕をほどき、ルーを見つめる。
「噂好きな精霊は多い。それに――奴が生きていたのなら、おまえはその服を着ているはずがないからな」
 ルーの翠の目がアイザの着るマギヴィルの制服を見た。上着がないとはいえ、ベストとスカートの色が示すのは魔法科の生徒であるということだ。学園の傍にいるくらいなのだ、ルーはその服の色の意味まで知っているに違いない。
「あれは、おまえを魔法使いにはしたくなかったようだったから」
 ――アイザ、魔法を使ってはならない。何度も父が言い聞かせてきた声が蘇る。
 うすうすはアイザも感じていた。
(魔力を削って、寿命を縮めることだけを憂いていたんじゃ、ないんだろうな……)
 精霊のいないルテティアで魔法使いになることを恐れていたのなら、きちんと説明してくれればよかったのだ。アイザはもう理解できる年齢だったのだから。それをしなかったということは、おそらく魔法使いという存在そのものから、アイザを遠ざけたかったのだ。
(でも、わたしは)
 ぐ、と拳を作りアイザは唇を噛みしめた。
「それよりもアイザ。なぜここにいる? 基本的にこの森に生徒が迷い込んでくることはないのだが」
「それは――」
(あれ? そういえば今も眩しくない……?)
 ことの経緯を説明しながら、アイザは首を傾げた。ルーも見た目は狼といえども精霊だ。アイザが何の煩わしさもなく、眩しさを感じず相対している説明がつかない。今アイザは魔法具である眼鏡をしていないのだ。ルーの周りには淡いひかりを感じる程度で済んでいる。
「ルーのことは平気なのかな」
「おそらく幼い頃からの私の気配を覚えているから、おまえの身体が自然と調節しているのだろう。だがソレがなければ日常生活に困るだろうな」
 ルーは短く吠えると、途端に周囲が騒がしくなった。いなかったはずの精霊たちが集まり、アイザは思わず目を瞑った。瞼越しにも眩しさを覚える。
「おまえは昔から不器用だった」
 呆れたようなルーの声が聞こえ、瞼越しのひかりが落ち着く。そろりと目を開けると、眩いひかりは収まっていた。小さな精霊たちがひらりひらりとアイザとルーの周りを飛んでいる。
「……ルー?」
「私が調節した」
 ぱちぱちと何度か瞬きをしたあとで、アイザは小さく笑いながら礼を言った。ルーは気にするなというように尻尾を数度振る。
「探し物はソレだろう?」
 ルーが鼻先で示した先には、アイザの眼鏡を持っている精霊がいた。後ろめたいのか、アイザの手のひらの上にそっと眼鏡を置くと慌てて逃げていく。
「よかった、借り物だから失くすわけにはいかなかったんだ」
 ほっと胸を撫で下ろして、眼鏡が壊れていないか確認する。
「森の出口まで送ろう。背に乗るか」
「え」
 まだよちよち歩きの頃はルーの背に乗ったりもしていたような気がするが、アイザはもうそんな小さな子どもではない。 ルーは大きいし人が乗っても大丈夫そうに見えるが、それでも素直に背に乗るには勇気がいる。
「……足を捻ったのだろう?」
 すんすん、とルーがアイザの捻った足を鼻先でつつく。鈍い痛みにアイザも先ほど転んだことを思い出した。
「……大丈夫か?」
「おまえ程度を乗せて潰れることはないな」
 それならば、とアイザはルーの背に跨った。アイザの重みにもびくともせず、ルーは悠々と歩き始める。
「もしかして、まだ今も調節してくれているのか?」
 受け取った眼鏡をかけていないのに、視界は煩わしくない。うるさかった声も穏やかなものだった。
 ふむ、とルーは呟いた。
「どうにもおまえにはあれこれと世話を焼く癖がついたらしい」
 ルーも無意識のうちにやっていたらしい。くすくすと笑いながらアイザは感謝の意味も込めて首筋を撫でた。
「ルーは面倒見のいい」
「おまえが手のかかる子だったのだ」
 生まれてすぐに、高すぎる魔力を暴走させた。ルーか父のどちらかがつきっきりでアイザの魔力を制御していなければ、アイザはとっくの昔に死んでいただろう。
 精霊のひかりが抑えられた夜の森は真っ暗だった。夜の森で過ごすのは初めてではない。ヤムスの森を抜けるとき、あのときなんて森で野宿する破目になったのだ。
(――ヤムスの森……)
 
『この森を焼いたのは、他でもない――リュース・ルイスだというのに』

 あの森で出会った精霊の声が蘇る。
「……いきなりいなくなったのは、やっぱりヤムスの森のことがあったからか?」
 少しかたく艶やかな毛並みを撫でながら、アイザは静かに問いかけた。すぐに返事はなかった。ルーの翠の目が、遠くを見ている。
「……私は精霊だ。リュースと契約し、長い間共にいたが、それでも精霊なのだ」
 ヤムスの森の山火事。森の獣人の里を焼き、精霊を焼いた焔。
 精霊を害した魔法使いのもとに、精霊が共にあることなどできるはずがない。
「だからこそ、けじめのようなものだ。あれ以上、リュースと共にいることはできなかった」
 そう告げるルーの声は、リュース・ルイスとの別れを悔いているようにも聞こえた。少なくとも、アイザにはそう感じた。
「……ルーは、全部知ってるんだな」
(きっと、まだわたしが知らないことも、知っている)
 魔法伯爵である父と、女王であった母の間に起きたことも、その頃に何が起きて何が問題になったのかも。父が何を考えていたのかも――。
 アイザが知りたくて、知りたくなかったことを。
「私は、おまえがわずかでも知っていたことのほうが驚きだ」
 あはは、とアイザは笑った。苦笑いともつかぬ、乾いた笑いだった。
「いろいろあったんだ。……本当に、いろいろ。自分のことも、今は知ってる」
「そうか」
 小さくこぼし、ルーはアイザに問うた。
「……知っていてもなお、魔法使いになるのか」
「なる」
 即答だった。
 アイザ自身も驚くほど、考えるよりも先に唇が動いていた。
「父さんのしてきたことがどうであれ、わたしの生まれがどうであれ、わたしは父さんの娘であることを誇っているし、父さんの跡を継ぎたい」
 ぎゅ、と決意を固めるように拳を作る。
「……魔法は世界をしあわせにするんだって、ちゃんと証明したい」
 誰かを傷つけるためではなく、世界を壊すわけではなく、誰かの笑顔を作るための、誰かを救いあげるための、そんな魔法が確かにあるのだと。
 ルーはわずかに目を細め、ゆるりと尻尾を振った。
「ならば、マギヴィルはよい場所だ。しっかり学ぶといい」
 その声に、進む道が間違っていないのだと、背中を押されたような気分だった。うん、と小さく答えて、もう一度アイザは深く頷いた。
「父さんに負けない魔法使いになるよ」



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