魔法伯爵の娘

第五章:女王の魔法使い(1)


「《時と場所の狭間に眠る乙女を揺り起こせ。麗しき女王陛下の懐へ。渡れ、渡れそよ風にのって》」

 その声は、重厚な響きを持ちながら軽やかにその場を支配する。
(どうして、魔法使いが――)
 アイザのようなまだ殻のついた魔法使いを、正しく魔法使いと呼ばないのなら、このルテティア王国に魔法使いはいないはずだ。――いなくなったはずだ。最後の魔法使いと呼ばれたリュース・ルイスは死んだのだから。
 それを、アイザは確かに知っている。この目で死んだ父を見た日の記憶は、遠い昔のことではない。
 ふわりと浮遊する感覚と共に、アイザは光に包まれて目を瞑った。
 この魔法が、今までアイザが使っていたような子供だましの魔法とは比べものにもならなほど高位のものであることは、明らかだった。
(移動している? それも、瞬間的に?)

 ほんの瞬きひとつ。アイザが再び青い瞳を見せたときには、その目に映る光景は一変していた。

「……ここ、は」
 うつくしい大理石の床に、聖人の描かれた壁画、空を見上げるように高い天井。
 ――麗しき女王陛下の懐へ。唱えられた呪文を読み解くのであれば、ここは女王の居城、王都に辿り着いてから何度も見上げた城であることになる。体感した時間は、本当に一瞬だった。
「ん、ぐっ……!」
 アイザのすぐ隣にいたローブを着た老人が、突如腰を下り、ごほごほと咳き込み始めた。苦しげな呼吸は、他人の目から見てもただごとではない。
「だ、大丈夫ですか!?」
 少しでもよくなるようにとアイザがその背をさする。しかしそのアイザの腕を、騎士のひとりが引き上げた。
「それは放っておいてかまいません。女王陛下がお待ちです、お早く」
「な、でも、こんなに苦しんでいるのに」
 老人は今にも血を吐くのではないかというくらいに激しく咳き込んでいるのに、騎士たちは顔色ひとつ変えない。
「いつものことです」
 冷ややかなその目に、アイザは背筋を震わせた。まるで、壊れた道具を見るような眼差しだった。人に対して『それ』と呼ぶこともおかしい。
「……かまわん、老いぼれにかまっていないで……彼らの言うことをききなさい」
 枯れた声で老人がアイザに告げる。目尻に刻まれた皺が、アイザを安心させようと深くなった。
「でも」
 この場にはアイザと騎士のほかには誰もいない。アイザたちが去ったあとで、この老人は手当てを受けられるのか、休めるのかもわからない。
 葛藤しているうちに、騎士のひとりに力ずくで腕を引かれて、アイザの意思とは関係なく立たされる。騎士はずるずるとアイザを引きずって連れ出す。
「……あれはもうダメだな」
 扉を開けながら、ひとりがぽつりと呟いた。あれとはなにか。まさか、あの老人のことでも言っているのか。
(……こわい)
 ここは、本当にあの美しい城の中なのだろうか。
 すれ違う人も、アイザを連れて行こうとするこの騎士たちも、目に温度がない。招かれたなんて嘘のように、罪人のように引きずられる。しっかり歩こうとしても歩幅が違うせいでうまく歩けなかった。
 一秒たつごとに、心の奥の芯が冷えていく。
 騎士たちが突然ぴたりと立ち止まった。それは、一目見るだけで豪奢だと分かる、立派な扉の前だった。
「――お連れいたしました」
 よく通る騎士の声は、機械的で感情を宿していない。ぞくりと身を震わせながらアイザは自然と背筋を伸ばした。アイザの予想が正しければ、この扉の向こうにいるのは、おそらく――
「いいわ、入ってちょうだい」
 艶やかな声は、それだけで世界を彩る。
 騎士がゆっくりと扉を開けた。アイザがごくりと息を呑んで、すぐにそれは開かれる。そこには、とても四十を過ぎたとは思えないうつくしい女性がいた。
(この方が、女王陛下)
 こんな急に女王陛下に拝謁できるなどと思ってすらいなかったアイザは、心の準備もできていない。

「会いたかったわ、わたくしの可愛い魔法使い」

 歓喜を滲ませた声は、ただひとり、アイザに向けられていた。ゆるく波打つ金の髪は背に流れ、青い瞳はまっすぐにアイザに微笑みかける。
 直答を許されているのか、答えることが不敬なのか答えないことがそうなのか、アイザには分からずに困惑するしかなかった。部屋はどうやら女王の執務室のようで、護衛の騎士の他には誰もいない。
(どうして、だろう)
 女王はやさしく、艶やかに、微笑んでいる。けれど――
(……こわい……)
 じわりじわりとアイザの心を侵食するそれは、紛れもなく恐怖だった。
 ふと気を緩めたら一瞬で絡め取られるような眼差しに縛り付けられるような気がした。その瞳に宿るのは、おそらく執着といって間違いない。
「魔法伯爵、リュース・ルイスの娘、アイザ・ルイスと申します。お目にかかれて光栄です、女王陛下」
 わずかに震えた唇を一度噛み、アイザは静かにゆっくりと頭を垂れた。
「ふふ、緊張しているのかしら。怖がらなくていいのよ? あなたはこれからここで暮らすのだから」
 ――空耳だろうか。
 アイザは目を丸くして、女王の言葉を確認した。
「……暮らす……? いえ、わたしは、父の魔法伯爵という爵位を継いで町に――」
 戻らなければ。そうでなければ、なんのために王都を目指したのかわからない。困惑するアイザに、ふふ、と女王は笑う。
「戻る必要はないわ。あなたは、わたくしの魔法使いなのだから。そうね、爵位や呼び名は、今のうちは好きにしてかまわないけれど」
 女王は赤い唇で弧を描き、騎士たちを一瞥した。
「おまえたちは下がりなさい。侍女にお茶の支度をするように言って」
「しかし――」
「言うことが聞けないというのなら、同じことね。わたくしの目の前から消えなさい?」
 有無を言わさぬ女王の声に、騎士たちは部屋から出ていく。扉の向こうにはいるのだろう。けれど、女王とただの小娘をふたりきりにするなんておかしい。女王が、それを望むことも。
「……陛下……?」
「その呼び方は駄目ね。わたくしの可愛い魔法使い」
 いえ、と女王は白い指先を伸ばし、両手でそっとアイザの頬を包み込んだ。呼吸の音が聞こえるほどの距離だった。女王の青い瞳と、アイザの青い瞳が交錯する。

「わたくしの、可愛いむすめ」

 うっとりと酔うように、女王は告げた。

「あなたが継ぐのは魔法伯爵の地位ではないわ。あなたは、わたくしの跡を継いで女王になるの」



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