魔法伯爵の娘

第五章:女王の魔法使い(4)



 夜半に、アイザはそっと目を覚ました。
 部屋の中はしっかり暗くなっていて、アイザは手探りで寝台のそばの灯りをつける。紐を引くだけで淡い光を灯すそれは、一般家庭においてはまだ手が出せない高価なものだ。
 窓の外の月の位置を確認して、まだ夜明けには早いことを知る。
 眠りにつく前までは扉の外にも衛兵の気配があったが、それもなくなっていた。抵抗らしい抵抗もなく、静かに眠ってしまったからだろうか。それとも、アイザひとりでは何もできないと思われているのだろうか。
 あたたかな光で照らされたはずの室内は、依然として落ち着かない。
「……外の空気を吸ってこよう」
 衛兵に見つかれば素直にそう言えばいい。見張りがいなかったのだからアイザに落ち度はない。
 廊下を静かに歩いていると、外の庭園にランプの光が見えた。こんな夜更けに、と目をこらすと、それはアイザを城まで連れてきたときの魔法使いの老人だった。
(こんな時間にどこへ……具合はもういいのか?)
 老人の足取りはしっかりしている。そのことにほっとしながら、アイザはその背中を追った。


 その背はすぐに見つかった。ランプの灯りがまるでアイザを手招きするように居場所を教えてくれる。
「……何を、なさってるんですか」
 花壇に植えられた植物を摘み取る老人に、アイザは声をかけた。
 老人はアイザを仰ぎみてかすかに笑う。足音が聞こえていたのだろう、アイザに驚く素振りは見せなかった。
「見ての通り、薬草を採っている」
 老人の傍に置かれた籠には、既に摘み取られた薬草が入っている。
「こんな時間に?」
「夜更けのほうが薬効が高くなるものもあるのでね」
 へぇ、と零しながらアイザは老人の隣にしゃがんだ。アイザには薬草と野草の区別がつかない。もしかしたらガルのほうが詳しいのではないか、とアイザは思った。
「……早く部屋に戻ったほうがいいのではないかね、アイザ・ルイス」
 名を知られていることには驚かなかった。アイザをここへ連れてきたのはこの老人の魔法だ。アイザが何者なのか、知っていて当然である。
「見張りはいなくなっていたので」
「姿が見えないとなれば騒ぎになる。あのお方はあなたに随分と執心していらっしゃるのでな」
 いや、リュース・ルイスにか、と老人は苦笑まじりに呟いた。あのお方。それが示すのは、おそらく女王陛下のことなのだろうとアイザは目を伏せる。
「あなたの魔力は、リュース・ルイスのそれによく似ている。理性に囲われた、燃え盛る炎のようだ」
 ほのお、とアイザは繰り返す。魔力が似ている。それはアイザには理解できない感覚だった。父と容姿はまったくといっていいほど似ていない。
「……あのお方はたびたび魔法を所望されるだろう。けれど、できる限り魔法は使わないようにしなさい」
 あれは、子どもが玩具を欲しがるのと同じだ、と老人は不敬ともとれる言葉を吐き出す。
「何故ですか。父も……ずっと、魔法は使うなと」
 魔法使いであるのに。魔力を持つ者なのに。
 魔法を使えるほどの魔力を持つ者は、そう多く生まれるわけではない。それはまさに天賦の才だ。機械技術を進めたこのルテティアでも、依然庶民までその恩恵のすべては届いていない。それを補うための魔法があってもなんら不思議ではなかった。
 けれどルテティアから魔法使いは姿を消した。魔法伯爵、リュース・ルイスを残して。ルテティアにおける魔法使いは、ただひとりのはずだった。
「魔力は、精霊を呼び寄せるもの。魔法は、呼び寄せた精霊の力を借りて世界に奇跡を起こすこと。精霊なくして本来魔法は使えない」
「けど」
 魔法は使える。それはアイザが身をもって経験している。
「そう、精霊なくしても、魔法は使える。己の魔力を削って。……魔力はすなわち命と同義。魔力が尽きれば、命も尽きる」
 老人の訥々とした言葉が、夜闇に吸い込まれる。
 どくん、とアイザの心臓が鳴った。
「じゃあ、苦しげだったのは」
「命を削っているのだから、身体にも不調は出るものだ」
 言われて、はじめて魔法を使ったときのことを思い出した。雨に打たれて体調を崩したのかと思っていたが、あれは魔法を使ったことで身体が危険信号を出していたのだ。魔法を使うな、と。
「……その光水晶には、精霊の力が宿っているようだ。あと数回魔法を使う分にはそれで充分だろう」

『詫びというにはささやかだが、すこしわけてやろう』

 ヤムスの森で分け与えられた精霊の魔力は、既に数回使っている。それに、もうひとつ。この耳飾りの片割れには、父であるリュースが残した魔力が宿っている。
(魔力が、尽きれば――)
 命も、尽きる。
「……では父は、病で死んだのではないのですか」
 突然の死だった。誰もが病による死であると思ったし、アイザも今この瞬間までそう思っていた。アイザはほとんど、父が魔法を使っている姿を見たことがない。両手で数えられる程度だろう。
 けれど父は、リュース・ルイスは、かつて女王に仕えた魔法使いであった。その頃は果たして、アイザが知るように魔法を使わずにいたのだろうか。
「……随分と命を削っていたことは、確かであろうな」
 苦い表情を浮かべ、老人はアイザのかすかな願いを打ち砕く。
「わかっていて、どうして……!」
 リュース・ルイスも、この老人も、なぜ魔法使いを辞めない。なぜ命を削ってまで魔法使いで在ろうとする。
「そなたも魔法を使ったのなら、わかるだろう。世界が己の声に応える。言葉ひとつで奇跡が起きる。我々は、あの感覚を忘れられなかった愚か者だ。まぁ、多くは国を捨てたが」
 それに、と老人は続けた。
「魔法に焦がれているのは、あのお方も同じ。家族がありルテティアを離れられなかった魔法使いたちも、召し上げられて命を削った」
(それは、つまり――)
 アイザの脳裏には、騎士たちの会話が蘇った。まるで物を見るような。あれは、おそらくこれまで幾度となく使い捨てられた魔法使いたちを見てきたということではないのか。
 ひゅっ、と息を呑む。
 身体の芯が冷えて、震えが止まらなかった。なぜ、どうして、とこれまで繰り返してきた問いが行き着く果てはなく、アイザの心を乱していくだけだ。
「……だからあなたは気をつけなさい。あのお方の命に従った私が言うことほどおかしな話はないが……できることなら逃げなさい。若く才能ある魔法使いの雛が、むざむざ地に堕ちる姿など見せないでくれ」
 その言葉は、夜闇にしっとりと飲み込まれていくようだった。



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