魔法伯爵の娘

第五章:女王の魔法使い(5)








 ――昔から、ウィアは精霊が嫌いだった。

 魔力は魔法が使えるほど高くはないが、ウィアは生まれつき何もしなくても精霊を見ることができる体質だった。魔法使いですら意識しなければ、あるいは精霊が姿を見せようとしなければ、捉えることのできない精霊が。
 精霊と呼ばれるものたちは、いつだって楽しげで、いつだって自由で、そしていつだって彼の傍を飛び回っている。

 ウィアは、広い城の庭園で膝を抱えていた。どうして、という問いばかりが浮かんでは、しかたないのだという結論に達する。
 二人の兄は、昨年の流行病で死んでしまった。王の血を受け継ぐのはウィアただひとり。公爵家の従兄との婚姻も、まだ若い女王の即位を考えれば力添えとしてよくある手段だ。
 王女としてのウィアは、しかたないと受け入れている。ただ、ウィアという少女は、拒み続けていた。
 父王も病に侵され、余命いくばくもない。早急に王位は次代へと継がれなければならない。でなければ国が混乱する。
「姫」
 かさりと草を踏む音のあとに、ウィアの背後から声をかけられた。
「……そう呼ぶのはやめてと言ったはずよ、リュース」
 ごしごしと目をこすり涙のあとを誤魔化しながらウィアは答える。顔を上げればそこには王城一、いや、ルテティア一の魔法使いと言われる魔法伯爵、リュース・ルイスの姿があった。
 リュースの傍は眩しいひかりでいっぱいだ。それだけ、彼の傍に精霊がいるということである。彼の魔力に惹かれた小さな精霊たちがまるで蜜に吸い寄せられる蝶のようにやってくるのだ。
 若い頃から王に魔法使いとしての才を買われ、いつもその傍にいたリュースと、王の娘であるウィアには当然面識があったし、ウィアは特別リュースに懐いていた。
 ――それが幼い恋になろうとも不思議はない。
「……ウィア、そんなところにしゃがみこんではドレスが汚れる」
「お転婆なわたくしのドレスがどれだけ汚れようと、もう誰も文句は言わないわ」
 どうせ父に言われてご機嫌を取りにきたのだろう、とウィアは俯いた。実際に効果があるから自分でも笑いたくなる。
「わかっている。わかっているの。わたくししかいないということは。だから、セルヴェスとの婚姻もしかたないって。あの人のことは好きになれる気がしないけど」
 リュースに言われるよりも前に、ウィアは自分で現実を並べた。恋するひとから他の男と大人しく結婚しろ、なんて、言われたくはなかった。
「王の娘だもの。こういうこともあるって覚悟はしていたわ。だから、いいの」
 ぎゅ、と拳を作りウィアは唇を噛み締めた。しかたないと思っている。けれどウィア個人の心の中でどれだけ泣き喚こうとも自由じゃないか。
「……ウィア」
 大好きな声が名前を呼ぶ。
 年は離れているし、今は魔法伯爵という地位にあるがもとは爵位もないような生まれだ。結ばれるなんて思ってなかった。けれど、お転婆な王女と王のお気に入りの魔法使いであるなら、もしかしたら、と淡い期待をしていたことも事実。
「ほら、ごらん。ウィア」
 リュースは小さく何かを囁いた。
 つられるように顔をあげて、そして飛び込んできたひかりに目を奪われる。精霊たちが楽しげに空を舞って、そして――
「世界が君を祝福しているよ」
 青い空に、七色のひかり。
「……にじ」
 雨の気配もなければ、乾いたこの空気のなかで現れるものではない。
「きっと君なら、すばらしい女王になれる」
 たとえ添い遂げることが叶わなくても、このひとが傍にいてくれるなら。
 それなら、がんばれる気がした。





 それから数年。
 ウィアは女王として懸命にやってきた。女王としての務めと割り切って、好きにはなれない男との子どもも生んだ。一人目の夫が死んで、周囲の声に応えて二人目の夫を迎えた。その夫との子も生んだ。
「陛下、なぜ第一王子を廃嫡なさったんですか。まだ幼い、親元にいなければならないような子どもを」
「父親の違いが、のちのち王位争いにもなりかねません。災いの芽は早めに摘み取っておくべきです」
 いつだって女王として、国のために最善の選択をしてきた。
 ウィアにとって子どもは王位を継ぐ者であり、それ以上でもそれ以下でもない。自分と同じ青い瞳に見つめられても、いとしいという感情は湧いてこなかった。
 いとしいと思うのは、この世でただ一人。


 ――それが過ちであることはわかっていた。

 けれど、いとしいこのひとに縋りつかなければ、このひとのやさしさに沈みこまなければ、足元から崩れ落ちてしまいそうだった。女王という地位は少女にはあまりにも重く、今にも押しつぶされてしまいそうだった。
「……リュース」
 うわ言のように何度も何度も名前を呼んで、同じように名を呼ばれることを願った。
「……リュース、リュース」
 貴方の苦しげなその表情すら、歓喜へと変わった。
「そばにいて」
 子どものように甘えながら、名前を呼ぶ合間に幾度も乞う。そばに、そばに。ずっと、そばに。
「ウィア」
 望んだ己の名が呼ばれたのはただ一度きり、それすら幻のように小さく儚かった。


 子が出来た。
 三人目の子どもだった。
 彼と二人目の夫の、どちらの子であるかなど定かではなかったけれど、この子は彼との子に違いないと確信していた。
 胸の内を苛む罪悪感はあれど、それ以上の喜びがあった。
 この子と、彼がいるなら。この子と、彼がいる国なら。どんなに苦しくても、どんなに辛くても、まだがんばれる気がした。彼があの日言ってくれたように、すばらしい女王になれると思った。

 ――けれど。

 出産を終えたあとの思考でははっきりと考えることなどできなかった。嵐にでも襲われたのかという部屋の中でリュースは生まれたばかりの赤子を抱いていた。先ほどまで大きく泣いていたはずの赤子は、彼の腕のなかでスヤスヤと、眠っている。
 ああほら、やはりリュースの子だったのだ。
「……この子は、魔力が強すぎる」
 強張ったリュースの声に、赤子がぐずった。途端に、部屋に転がっていた花瓶が割れる。侍女が悲鳴を上げた。
「制御しきれない魔力が暴走しているようなものだ。このままではこの子は死んでしまう」
 城にはとうに精霊が近寄るようなことはなく、以前ならばリュースの傍にいたはずの精霊たちも今はいない。こうして部屋を荒れ果てた状態にしたのは、小さな赤子の溢れ出る魔力だった。
 リュースは腕の中の赤子を見下ろし、ぐ、と覚悟を決めるように口を引き結んだ。
「……このことは、他言無用に。この子は死産だったことにしなさい」
「……リュース?」
 何を言っているの、と声にはならなかった。リュースは厳しい表情のまま、侍女や助産婦に指示を出す。決して、このことは話すなと。
「女王陛下」
 いとしい声が、ウィアの名を呼んでくれることはなく。
 薄灰のリュースの瞳が、一瞬だけ哀しげに揺れた。
「……王城魔法使いの座を退き、お傍を離れます。この子は、私の子として育てましょう」
「リュース」
 何を言っているの。
 ずっと、そばに。
 添い遂げることはできなくても。
 女王と臣下としてでも。
 死がわたくしたちを別つそのときまで。
 そばに、いると。

リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、リュース、



「わたくしの、まほうつかい」



 貴方がいれば、わたくしは、女王でいられた。




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