魔法伯爵の娘

第六章:宰相閣下と王太子(5)


 急に黙り込んだアイザを前に、ガルは首を傾げた。赤い髪が暗闇のなか揺れる。金色の目がアイザの目を覗き込んできて、心配そうに問いかけてくる。
「――アイザ? 具合でも悪い?」
「ちが、」
 言葉に詰まって、ガルの気遣う言葉にもうまく答えられない。
「……ちがう」
 目を伏せて、ただそれだけどうにか答える。ゆるゆると首を横に振ると、滲んできた涙が零れ落ちてしまいそうだった。胸元をぎゅっと握りしめてアイザは一度目を伏せる。

 ――コンコン、というノックの音で一瞬にして緊張がはしった。

(そうだ、夕食……!)
 八ッとしてアイザは振り返る。ついさきほど、そろそろ運ばれてくる頃だと思っていたではないか。緊張で心臓が縮むかと思ったが、機械的だが礼儀正しい侍女は、アイザが返事をしない限りは勝手に扉を開けたりしない。
「ガル、そのまま静かに」
 ガルが頷いたのを確認して、慌ててアイザは部屋に入り、窓を閉めてさっと分厚いカーテンも閉じた。ふぅ、と深呼吸して何食わぬ顔で寝台に腰かける。
「……どうぞ」
 まるでうたたねしていたのだ、といったふうにアイザは目をこする。さきほど滲んだ涙が指先をわずかに濡らした。
「お食事をお持ちいたしました」
 やはり思ったとおり、ひとりの侍女が部屋に入り、テーブルに食事を並べていく。機械的なその動きはいつもと変わらなかった。
「のちほど食器を下げに参ります」
「……どうも」
 同じ動作なのに、侍女が部屋から出て行くまで恐ろしく長く感じた。口の中は緊張ですっかり乾いてしまっている。ぱたん、と静かに扉が閉まり、足音が遠ざかるとアイザはようやく肩の力を抜いた。
 胸の奥にたまっていた息を細く吐き出してから振り返り、カーテンも窓も開ける。
「……もういいぞ」
「今の誰?」
 ひょっこりと窓から顔だけ出してガルはきょろきょろと部屋の中を見ている。しかし当然のことながら、部屋にはもうアイザ以外はいない。
「侍女が食事を運んできただけだ」
 食事、という言葉にガルの腹がぐぅと返事するように鳴った。テーブルの上には食事がいかにもおいしそうに並んでいる。
「……」
「……腹減ったな?」
 緊張感に満ちた部屋の雰囲気をぶち壊し、ガルはへらっと誤魔化すように笑う。
「腹が減ってはなんとやらって言うし、とりあえず食べようぜ?」
「……なんとやらって……」
 ガルの腹の虫のおかげですっかり気が抜けてしまった。アイザは呆れたようにため息を吐き出して、椅子に座る。食事はパンにスープ、サラダもあるしメインディッシュの肉料理もある。肉はガルにやろうとアイザは皿をガルのほうに寄せた。代わりにサラダやスープを食べる。
「アイザ、全然食べてないじゃん」
 もごもごと口の中いっぱいに食べ物を詰め込みながらガルはほれ、と肉のひとかけらをアイザのサラダの隅にのせる。
「この状況で食欲がわくおまえが変なんだ」
 ひとり分の食事だが、アイザはあまり食欲もない。もともと多すぎるくらいの量なのだからひとまずは足りるだろう。
「だってこんな豪華なの一生食べることないかもしれないじゃん」
「……言うと思った」
 ふふ、と思わず吹き出しながらアイザはスープを飲んだ。不思議なことに今まで味気なかったはずの食事なのに、少しだけおいしい、と思える。
「確認してなかったけどさ、アイザはどうしたい?」
 パンの最後のひとかけらを口の中に放り込んで、ガルは直球すぎるくらいに問いかけてきた。どうしたいって、とアイザは困ったように小さく呟く。
「このまま、ここにいたい?」
「おまえは、わたしのこと……」
 知っていて、問うているのだろうか。不安そうなアイザに、ガルは顔色を少しも変えずに素直に答えた。
「女王の娘だって話なら、タシアンから聞いた。だから女王は、アイザを探し出して……たぶんもうここから出す気はないだろうって」
 つまりガルは「ここにいる」という選択肢がどういうことかわかっているということだ。
「……あの方は、たぶんわたしのことを娘とは思っていないと思う」
 少しでも娘と思っているのなら、名前を呼んでくれるのではないか。母らしく接してくれるのではないか。そんな期待が、なかったといえば嘘になる。
「わたしは、父さんの娘であることを誇りに思っている。たとえ父さんが過去にどんなことをしていても」
 だからこそ思う。女王がアイザを娘と思わないように、アイザもまた彼女の娘であると思えないのだ。
「わたしはアイザ・ルイスだ。……お姫様なんて、柄じゃないしな」
「なら簡単だ」
 ぺろりと手についたソースを舐めとって、ガルは笑った。すっと立ち上がって、その手のひらをアイザに差し出す。
「一緒に帰ろう、アイザ」
 アイザになにかあるたびに、アイザが立ち竦むたびに、差し出されたその手を見つめる。
「――うん、帰ろう」
 引き剥がされた手を再び重ねてみると、不思議なくらいにその体温が心地よく、そこにあるのが当然であるように思えた。

「で、アイザ。木登りは得意?」
「……ん?」





 宰相不在で、王太子が監禁されていたのはほんの一週間と少しのことだ。それにしては随分と王城が荒れるのが早いように思えた。とはいえ、もともと王城にいることはほとんどないタシアンには、王城の正しい姿というものが掴みきれていない。
「もとより、王立騎士団は女王に尻尾を振っては褒美をもらっていたからね。城と王都の警備を担う彼らと女王があれでは、崩れるのは容易いよ」
 イアランの心のうちを読まれたようなタイミングの良さに、タシアンは思わず言葉を飲んだ。
「顔に出ているよ、タシアン」
「思った以上に顔に出やすいですからね」
 くすりとイアランは笑い、レーリは無表情でごく当たり前のように付け加える。このふたりが揃うと厄介だな、とタシアンはますます渋面した。
「陛下は昔から機嫌がよければすぐに褒美を出していたからね。甘い汁を吸った奴らは味をしめている。邪魔な私や宰相を始末して、陛下を王として機能させてさらに私腹を肥やしたかったのではないかな」
 かつかつと歩む速度は一切緩めずに、イアランは答える。
「貴族や騎士がそれでいいわけが――」
 苛立ちを露わにするタシアンに、イアランは苦笑した。
「……いいわけが、ないけれどね。世の中、君のように実直な人間ばかりではない」
 私も彼らと同類だよ、と呟くイアランの青い目が、自嘲するように細められた。その苦い表情を、タシアンは数歩後ろから見つめ、目線を落とす。この王太子は、根の資質が女王に似ていると自身を評価していたし、それを厭うてもいた。
「だからこそ、アイザが心配なんだ。彼らにとって不利益な人間だと思われれば、女王という盾があっても害されかねない」
 イアランにとってはアイザは異父妹である。一度も会ったことのない半分だけ血の繋がった妹とはいえ、こんな事態に巻き込んでしまったことに胸が痛むくらいには、イアランも普通の人間だった。
「……彼女は、おそらく大丈夫です」
「面白い回答だね。信頼に足る人間に任せたように思えるけど、希望的観測にも思えるな」
 タシアン自身、素直に大丈夫だと断言はできない。そこまでガルを知っているわけではないし、お互い信頼関係を築けるほどの時間は過ごしていない。
 だが――
「重度のお人好しも、あそこまでいくと盲目的ですよ」
 タシアンには、ガルの金の目に宿るそれは、盲目的で献身的な、愛に似ているように思えた。


inserted by FC2 system