魔法伯爵の娘

最終章:魔法伯爵の娘(1)



 木登り、というよりもガルが使った樹で今度は降りる、というものだったが、当然アイザは木登りもその逆もやったことがない。そんなお転婆な子ども時代を過ごしていないのだ。
「んじゃ、俺がアイザを背負うか」
 思わず躊躇ったアイザを見てガルはあっさりとそう言ったが、アイザは即座に首を横に振った。
「いや無理だろ……」
 アイザとガルはそれほど身長が変わらないのだ。体重は考えたくないが、おそらく、きっと、アイザのほうが重い。 決して太っているわけではないが、女性のほうが脂肪が多いのは世の常である。
「んー……。でも慣れてないなら危ないし」
 頑なにガルに背負われることを拒むアイザに、ガルも渋る。危ないか危なくないかで言えば、ガルがアイザを背負ってもいても危ないのではないか。下に降りるまでに落とされたりしないか、とアイザとしては不安になる。命綱の準備なんてもちろんない。
「お、降りるだけなんだからわたしでもできる」
 とはいえここは二階で、その高さから下を目指すというのはやはり恐怖心を煽る。バルコニーから下を見て、アイザは顔が引き攣った。
「……ん。時間もったいないしやっぱ俺が背負ったほう早いや」
「え? う、わっ!」
 言うのが早いか動くのが早いか、ガルはアイザを荷物を担ぐように肩に持ち上げた。大人しくしてくれるのであれば背に乗ってもらったほうがいいが、おそらく押し問答になるだろう。
「ば、や、おろせ……!」
「下についたらおろすよ」
 ガルはアイザの体重など感じていないかのように、バルコニーの手すりからひょいっと樹に飛び移った。足が地につかない不安定な状態に、アイザは思わずガルの上着を握りしめる。
「心配しなくても落としたりしないけど」
「いや、だって、絶対重いだろ……!」
 アイザの身体を、ガルの肩と片腕で支えているような状態なのだ。背負われるより負担が大きい気がする。
「前のときも思ったけどアイザは軽すぎるくらいだろ。もっと食べたほうがいい」
「は? ま、前……?」
 少なくともアイザの記憶にはガルに抱えられるなんてことは初めてだが。こんな恥ずかしいこと忘れるはずがない。
「最初、アイザが倒れてたときな。あのときも俺が運んだって言ったじゃん」
(そういえば……!)
 あのときは目を覚ましたばかりで頭もはっきりしていなかったし、懸念事項がありすぎて運んでくれたときに重かっただろうなんて考える余裕はなかったのだ。
 そうしているうちにガルは枝から枝へ、器用に地上へと降りる。
「ほいっと」
 とん、と降り立つと、ガルはアイザを支えながら立たせた。地面に足がついてほっとする。
「……急がないと、食器を片付けに来た侍女に気づかれる」
 素直にありがとうと言うのは癪で、アイザはガルを急かした。結局しっかりと食事もとったので、侍女がやってくるまでの猶予はそう長くない。
「こっち」
 ガルはアイザの手をとって、やって来たときの人気のない道を選ぶ。夜も更けてきて闇は濃くなる一方だ。わずかに顔を出していた月も、また雲の向こうに隠れてしまった。そうしてもたらされる暗がりが、ガルとアイザの味方になる。
 どくどくと心臓が激しく鳴り響く。早足で庭園のなかを駆け抜けながら、自然と口数も少なくなった。
(はやく、はやく――)
 気持ちばかりが逸る。この息苦しい城壁の向こうへ、一分一秒でも早く近くに、と。
 天が味方したのか、衛兵にはまったく見つからなかった。しかし、しばらく走ったところで、ガルが急に立ち止まった。

「っアイザ!」

 ぐっと痛いくらいにガルがアイザの手を握りしめ、背に庇った。
「ガル……?」
 アイザには何が起きたのかわからなかった。だがガルは何もいない庭園の暗がりを睨みつけている。
「人がいる」
「人って、誰も……」
 アイザの目に映るのは夜の闇に包まれた暗い庭園だけだ。人影のようなものはまったく見えない。
「いる、たくさん」
 警戒するガルの低い声に、アイザも緊張する。獣人である彼がアイザの気づかぬ異変に気づいたとしても、おかしなことは何ひとつない。

「――こんな夜更けに、窓からおでかけなんてダメじゃない。いけない子ね」

 闇夜に響く艶やかな声に、背筋が凍った。
「……女王、陛下……」
 突如夜の庭園に姿を現したのは、麗しい女王と、あの老人の魔法使い。そしてアイザとガルを囲む、王立騎士団だった。
「まったく、国境騎士団の仕業ね。そんな野良犬で、わたくしのかわいい魔法使いを拐かそうとするなんて」
 艶めかしいため息を合図に、王立騎士団がガルの背に庇われていたアイザの両腕を拘束する。
「――っはなせ!」
 抵抗するも、大人の男ふたりに敵うほどの力があるはずもない。
「アイザ!」
 咄嗟に食いかかろうとしたガルは騎士によって取り押さえられ、反抗すると地面に押し付けられた。
「ガル!」
 暴れれば殴られるか、下手すれば騎士たちの腰の剣で斬りつけられるかもしれない。アイザはそれを危惧したが、ガルの金の目は闘争心を隠そうとしなかった。
「その薄汚い野良犬を地下牢へ入れなさい」
(地下牢なんて……!)
 そんなところへ放り込まれて、そのあとどうなるかわかったものではない。アイザは慌てて声を上げた。
「待って、待ってください! 彼は王都に来るまで協力してくれたんです!」
 どうしてこんなことを――もっとマシな弁明があるだろうに、と頭の片隅で思った。それでもアイザは拘束された身体をねじるようにして少しでも女王へ近づきながら声を上げ続ける。
「ガルがいなければ、王都に来ることなんて出来なかった! だからっ……!」
(わたしはどうだっていい。けど、ガルは――)
 巻き込まれただけの彼を、罪人にするわけにはいかない。
「あら、そうなの。では褒美を与えねばね?」
 アイザの咄嗟の言葉などに耳を貸さないだろうという予想はたやすく裏切られ、女王は素直に受け止めて微笑んだ。
 女王が侍従に目配せすると、侍従は慣れているように盆に載せられた小袋を差し出した。
(褒美って……)
 アイザは拘束されたまま、ただ見ていることしかできない。ガルは依然として地面に押さえつけられたまま唸るように女王やその周囲を睨みつけている。
 女王は艶然と笑みを浮かべ、小袋をガルの顔の目の前に投げつける。かしゃん、と金属の擦れるような音のあと、地面に打ち付けられた袋の口からは金貨が零れ落ちた。
「な――」
 アイザが驚き、声を漏らした。
 それは、庶民では手にすることもできないくらいの量の金貨だった。
「野良犬なら野良犬らしく、それを拾って、早くここから出て行きなさい」
 冷ややかな青い女王の目がガルを見下ろしていた。その言葉に、ガルを押さえつけていたふたりの騎士は離れる。
 零れ落ちた金貨が、暗がりのなかで己の存在を主張するように虚しく輝く。アイザはその輝きを呆然と見つめながら、ぐっと詰まるような胸の痛みを感じていた。
「…………んで」
 ぼそりと、ガルが呟く。地面に伏したまま、ガルの手が零れ落ちた金貨を握りしめた。
「……なんで」
 固く金貨を握りしめたまま、ゆっくりとガルは立ち上がる。赤い髪が、仄かな明かりのもとで揺らめく。

「あんたがアイザの母親だっていうんなら! だったらなんで、こんなふうにアイザを悲しませるようなことができるんだよ!」

 叫び声とともに、握りしめられていた金貨が地面に叩きつけられる。金貨が悲鳴のような音を立てていた。



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