魔法伯爵の娘

最終章:魔法伯爵の娘(2)



 夜の闇の中を切り裂くようなガルの叫び声は、アイザの胸を痛いくらいに強く打った。そのあとで、ようやく胸の痛みの訳を知る。
(悲しませる――そうか、悲しかったのか)
 女王には、アイザの言葉など届かないと思った。アイザにとっての恩人など、彼女にはどうでもいいことだと思った。しかし声は意外にもあっさりと届きアイザの願いも聞き受けられ、けれど、女王はアイザの恩人を、アイザが守ろうとした人を、野良犬と呼んで蔑んだ。
「他でもないあんたが! アイザを傷つけるなよ!」
 ガルの、迷いがないまっすぐな声は、足踏みばかりで動けずにいるアイザを叱咤しているようでもあった。こんな風に、アイザのために怒ってくれる人を、肉親であるはずの女王が、踏みにじった。
(……それが、かなしかったのか)
 母とは思えずにいたくせに、完全な他人だと断じることも出来ていない。こんな風に、かすかな希望に縋りたくなるくらいには。
 アイザはどうしたい、と問いかけてきたときのガルの声が蘇る。
(そうだ、わたしは――)
 帰るんだ。この王城を出て、王都を出て、生まれ育った街へ。
「――この無礼者!」
 騎士たちが殺気立って剣に手をかける。アイザは女王の傍に控える魔法使いを一瞥した。突然この場に現れたのは、おそらくどこからかここへ魔法で移動する魔法を使った上で、姿を隠す魔法も重ねて使っていたからだろう。魔法での瞬間的な移動が可能であることは、アイザ自身がよく知っている。あのときほどの距離はないとしても、これだけの大人数だ。
(ただでさえ、身体を壊しているような状態なんだから……)
 顔色こそ夜闇のなかで確認することはできないが、今は立っているのもやっとのはずだ。
 それなら――
(わたしが魔法を使っても、きっと反撃はできないはず)
 老人は己の魔力を削る以外に魔法を使う手段はない。けれどアイザには、左耳の光水晶も、首から下げたままのリュース・ルイスの魔力を宿した対の耳飾りがある。
 アイザはもう、迷わなかった。
「《斬り裂け、風の乙女!》」
 アイザの左耳の光水晶が瞬く。その瞬間、アイザを捉えていた騎士たちの間に刃のように鋭い旋風が生まれた。
鎌鼬のような風が、アイザと騎士を引き剥がす。
「ガル!」
 呼びながら手を伸ばした。振り返ったガルの金の目がアイザをとらえる。
「アイザ!」
 ガルがアイザの名を叫びながら、その手を掴み引き寄せる。アイザのすぐ背後で騎士がアイザに手を伸ばしていたところだった。
「このっ――」
 ふたりに掴みかかろうとする騎士に気づいたアイザは、もう一度意思をもって言葉を投げる。
「《そのまま舞って! 近づけないで!》」
 王立騎士団がアイザやガルに触れようとすれば、警告するように風が巻き起こった。
 その風がガルやアイザを傷つけることはなく、ガルの赤い髪は風に揺れているだけだ。拘束から解放されたアイザは、背筋を伸ばしガルの隣に立った。
 騎士たちはアイザの魔法を警戒している。彼らの知っているような、繊細で作り込まれた魔法ではない。アイザが使っているのは荒削りの、魔力を形にしてそのまま投げつけているだけの、子ども騙しの魔法だ。
 けれどそんな魔法でも、彼らには防ぐ術がない。
 女王が、驚きの表情を浮かべ、アイザを見ていた。
「……わたしは、あなたの娘なんかじゃない」
 アイザが女王を真っ直ぐに見据えて口を開いた。アイザの青い瞳が、燃える炎のように強い光を宿す。

「わたしは、魔法伯爵の娘です」

 その声に恐れも迷いもない。ただ事実を伝えるようにはっきりとその場に大きく響いた。
 アイザ・ルイスという名以外のものはいらない。『アイザ・ルイス』とは、リュース・ルイスの娘であると証明する、確かなものだ。アイザの誇りだ。
 巻き起こる風が止んだ。アイザの濃い灰色の髪が、背に流れるように落ちる。継続的に同じ魔法を発動させられるほど、アイザは魔法の使い方を覚えていない。だが騎士たちの警戒は簡単にはとけなかった。
「な、何をしているの、捕らえなさい!」
 女王の声に騎士たちが苦い顔でアイザを捕らえようと動くが、アイザの耳元で再び光水晶は輝いた。ぽつり、とアイザの唇が動く。
「《立ち塞がるもの、阻むもの、すべて焼き尽くせ!》」
 言い切ると同時に、庭園は炎に包まれた。アイザとガルを守るように、騎士たちに立ち塞がる壁のように、炎は赤く赤く燃え上がる。
 容赦なく襲いかかる炎とその熱に、騎士たちは反射的に身を守ろうと後ずさった。炎を恐れるのは動物の本能だ。頬を撫でる熱風に、誰ひとりとしてその炎の壁を越えてアイザとガルを捕えようと動くものはいなかった。
「アイザ行こう!」
 ガルの手をしっかりと握り締めて、アイザは駆けだした。
 何度離れても、何度引き剥がされても、その手は約束されているかのように、何度も繋がれる。
「――待ちなさい!」
 混乱に包まれるなかで、女王の声だけがアイザとガルを追いかけた。その声にアイザは立ち止まり、赤く燃える炎の向こうの女王を振り返る。青い瞳と、青い瞳が交錯する。
「……邪魔なものは焼き払えと、そう言ったのは貴女です」
 女王陛下、とアイザは告げると再び駆けだした。炎の壁の向こうで、そのふたつの背はどんどん遠ざかっていった。



 ――それはまるで、城を去ったリュースの背を見ているようだった。

 何が、間違っていたというのだろうか。
 きっと君なら、すばらしい女王になれる。リュースの言葉を信じて、今までずっとよき王になろうとしてきた。時には非情な選択も、国のためには下してきた。もちろん、正しい道を歩んでばかりではなかっただろう。けれど、それでも、頑張ったつもりだった。頑張りたかった。
 ――それは、どうして?
 だって、リュースと、この子が。この子がいる国なら、と呟きかけて、この子とは誰のことだったのだろうと思う。
 よき王とは、よき母なのか。
 本当に守りたかったものは、守れていたんだろうか。
「――……」
 女王の赤い唇がかすかに震える。
 王立騎士団の騎士たちは、アイザによって放たれた炎をどうにかしようと必死だった。
「……わたくしの、魔法使い」
 それは、アイザのことだったのか、それともリュース・ルイスのことだったのか。
 呆けるように呟かれた女王の声を聞き届けたものは誰ひとりとしていなかった。炎は、追手を拒むようにアイザとガルが駆け抜けた先に立ち塞がっている。
 しかし女王は、その炎が見えていないかのようにドレスを翻し駆けだした。

「――女王陛下!」

 炎は女王を焼くことなく、女王はそのまま静止の声も聞かずにふたりの後を追うように駆けていく。炎は弱まる気配を見せずにどんどん燃えているように見えるが、よくよく注視すれば燃え広がることもなく、庭園の木々を焼いてもいない。
「幻覚か……!」
 騎士のひとりがその絡繰りに気が付いて奥歯を噛みしめる。己の身を焼くようなものではないとわかれば、恐れるものはいない。
「あの小娘が来てから、陛下がおかしい」
「やはり、アイザ・ルイスは――」
 続きの言葉を濁すひとりに、騎士団の誰もが自分の記憶を掘り起こした。
 もとより、リュース・ルイスは女王の愛人だったのでは、と昔から噂されていた男だ。アイザ・ルイスが女王の子であっても不思議ではない。
 もし、アイザ・ルイスが女王の娘であるのなら、王家の血をひいているというのなら、騎士である以上逆らうことなど許されない。
「だからどうしたというのだ。あの小娘自身が否定していただろう」
 もとより、公にされていない情報に恐れる必要などない。
「我らが女王にあのようなものは必要ない」



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