魔法伯爵の娘

最終章:魔法伯爵の娘(3)


「ガル、急ごう」
 手はしっかりと繋いだまま、ガルとアイザは庭園を駆けている。アイザは息を切らしながらも、ガルにそう声をかけた。
 王城の中は次第に騒がしくなり始めていた。おそらくアイザの放った炎が他の人間の目にもついたのだろう。
「なんで? あれだったらそこそこ時間稼ぎできるんじゃ――」
 あれだけの炎であるなら、どうしても消火には時間がかかる。消火にあたらない人間が炎を避けて迂回するにしても、アイザとガルの姿を一度確実に見失うのだ。いくら王城を知り尽くした騎士団とはいえ見つけるまでに多少の時間はかかるだろう。
「あれは幻覚だ。すぐ気づくことはないと思うが、気づかれたら足止めにはならない」
 さすがにアイザもあの場を焼き尽くすような本物の炎を出すことはできなかった。魔法は、世界を愛する力だ。誰かを害するためにあるものではない。あの場で本当に炎がうまれたら、庭園だけでなく城も焼きかねない。
 たとえヤムスの森を焼いたのが父であったとしても、父がアイザに伝えてきた信条だけは、曲げてはいけないような気がしていた。
「……そっか」
 どこかほっとしたようにガルが呟いた。
 うつくしく整えられた庭園は、森を駆けるよりずっと楽だ。水分を含んだ苔で足を滑らせることもなければ、木の根に躓くこともない。だが障害になるのはそんなものではなかった。
「いたぞ!」
 だが、これだけ騒動になっていれば、当然あの場にいなかった王立騎士団にも気づかれる。アイザとガルは、一見しても夜の王城にいるには不自然なふたりだった。
「――くそっ」
 相手は多勢、人数で攻められればアイザとガルはたちまち窮地に追いやられた。
(逃げ道がない――)
 角を曲がれば騎士と遭遇し、迂回すればまた見つかるというのを繰り返して、アイザをガルは庭園を抜けて王城の中央にある広場まで迷い込んでいた。
「おまえたちは女王陛下に対する不敬と、危険な魔法の使用した大罪人だ。大人しくしてもらおうか」
 身に覚えのある罪状ではあるものの、はいそうですかと捕まるわけにはいかない。
「誰がっ……」
 ガルが唸るように声を上げるが、その声すら飲み込まれそうな空気だった。
 どこを見ても、王立騎士団がいる。逃げる隙がまったくない。アイザとガルは完全に四方を囲まれてしまっていた。
(もう一度、魔法を使って逃げ道を作るか――?)
 けれど、どんな魔法を使えばいい。この場にいる騎士たちの動きを、一瞬だけでも止められるような術は咄嗟に浮かんでこなかった。ただでさえアイザの魔法は、本の知識だけで使っているレベルのものだ。大掛かりなものも、繊細な魔法もアイザは使えない。唇を噛み締めて、アイザは騎士団を睨みつける。どちらかがこの緊張を壊したら、きっと騎士団は一斉にアイザたちに飛びかかってくるだろう。
 膠着状態が続くなかで、女王が息を切らしやって来た。
「女王陛下……!?」
「――通しなさい」
 騎士たちが驚きを隠さずに女王に道をあけた。アイザとガルの目の前に、再び女王が立つ。
(どうして、追いかけてきたんだろう)
 女王の瞳は、まるで何かに戸惑うように揺れていた。アイザとガルを取り囲む騎士団の照らす灯りは、そんなに些細な表情さえ見せてしまう。
 女王は何かを言おうと口を開いては、何も紡げずに閉じるという行為を繰り返していた。アイザからはもう何も言うことはできない。吐き出されるべき言葉はもう残っていなかった。
(だって、)
 アイザが乞うても、女王がアイザに思いを返すことはないのだと、十分に思い知らされたから。

「――アイザ! ガル!」

 背後からふたりを呼ぶ声に、アイザもガルも振り返った。そこにいたのはタシアンと――その隣に二人の青年。彼らの後ろには国境騎士団が幾人も従っている。この状況では無条件で味方だと思える存在だった。
「無事に、王太子も見つけたんだ」
 ガルの一言で、見覚えのない金髪の青年が王太子なのかと予想できた。どことなく女王と面差しが似ている。これでどうにかこの状況を打破できるかもしれないと、アイザの胸にも希望が灯る。
「国境騎士団め……!」
 王立騎士団の誰かが、低く吐き捨てた。緊迫した空気は彼らの登場で殺伐としたものに変わる。王立騎士団の騎士たちは剣に手をかけていた。
 そのときだった。
「何をしている! そこにいるのは大罪人だ! 早く射殺せ!」
 鋭い声が広場に響いた。それは、炎の向こう側に取り残されていたはずの騎士たちである。

「アイザ!!」

 叫んだのは、ガルだったのだろうか。それとも、他の誰かだったのだろうか。
 広場を囲む二階から、アイザを狙って矢が射られた。まっすぐに線を描き、矢はアイザに向かって飛んでくる。咄嗟にアイザを引き寄せようとしたガルが、矢が放たれると同時に飛びかかってきた騎士に取り押さえられた。王立騎士団の壁の向こうのタシアンたちが間に合うはずもない。
 アイザも何が起きているのか理解出来ず、魔法を使う余裕さえなかった。すべてがひどくゆっくりと動いているように見えて、その中でしっかりと自分にめがけて飛んでくる矢に、アイザは死を覚悟した。
(しぬ――……?)
 こんなところで。ほんの数日前までは、魔法伯爵を父に持つというだけの、ただの街娘だったアイザが。身体は驚くほどにぴくりとも動かなかった。思考すら鈍くなって、その矢は間違いなくアイザを射抜くだろうと思われた。
「アイザ!」
 凍りついた時間を引き戻したのは、高い女性の声だった。
 永遠のような一瞬のあとで、アイザはあたたかい何かに包まれていた。痛みは身体のどこにもない。ただ、とす、と矢が確かに何かに刺さる音だけは耳に届いていた。

 ただの一度も、その声に紡がれることのない名前だった。そのはずだった。

「……か、ぁ……さ……?」

 そのとき、どうしてその言葉が出たのかはわからなかった。
 アイザの目には、アイザを抱きしめるようにして矢を受けた女王の背から、じわりじわりと鮮血が滲んでいく姿が映るだけだ。
「矢を射た者を捕らえよ!」
 王太子の命令が、その場の空気を瞬間的に動かした。王立騎士団には女王を射た――射てしまった、という動揺が生まれ指揮系統が崩壊している。
「早く医師を!」
 駆けつけてきたタシアンが、そして多くの国境騎士団が王立騎士団を制圧していく。しかしその光景をアイザは驚くほど遠くに感じていた。
 アイザの服が、女王の血を吸って重くなる。ガルがアイザのそばに駆け寄った。金の目が、アイザの瞳を覗き込む。今夜なかなか姿を見せない月のような輝きのその瞳さえ、アイザには遠い。
「アイザ! 怪我は!?」
「陛下!」
 金髪の青年が――王太子が女王の意識を確認するように呼ぶ。ふるりと震えた女王の金の睫毛の奥から、青い瞳が覗いた。
 白い手が、そろり、とまるで怯えるようにアイザの頬を撫でる。
「――わたくしの、かわいい、むすめ」
 弱々しい声は、だがしかしはっきりと、そう告げた。
 アイザ、と女王の唇が動く。アイザはぴくりとも動かなかった。動けなかった。駆けつけた医師と騎士たちによって女王が運ばれていくその瞬間まで、アイザは言葉ひとつ紡げなかった。
「……アイザ」
 ガルがそっと、冷え切ったアイザの手を握りしめる。
 じわりじわりと伝わる体温に、ようやくアイザの指先が震えて、胸の奥でつかえていた息が吐き出された。



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