魔法伯爵の娘

最終章:魔法伯爵の娘(4)



 おそろしいほどに長すぎた夜が、明けようとしていた。

 あのあと、アイザは着替えを用意され、あたたかな湯に浸かって、念のためにと医師の診察を受けてあちこちにできていた擦り傷を消毒された。妙に沁みたことだけ覚えている。今までアイザのもとにきていた侍女ではない他の侍女が、心配そうにアイザを部屋へと案内した。そこは今までアイザが使っていた部屋ではなく、ガルが心配そうにアイザを待っていた。どうやら彼も同じように湯に入り手当を受けたのだろう。部屋には寝台もあったが、とても眠れるような状態ではなく――ふたりで毛布にくるまりぽつりぽつりと言葉を交わしているうちに、ガルは寝息を立てていた。
(きっと、疲れていたんだろうな……)
 アイザだって、身体は疲れ果てているのだ。けれど、意識が妙にはっきりとしていて眠気はまったくやってこない。高ぶったままの神経が落ち着く様子はない。このままでは眠れないのも当然だった。
 この身体に感じた重みも、熱も、血の匂いも、すべてどれだけ忘れようとしても消えないままだ。

 母と思ったことはなかった、ただの一度も。
 母娘であったことなどなかったはずだった。

 ――がちゃ、と突然扉が開いて、アイザは顔を上げる。
「……と、起きていたのか。ならノックするべきだったな」
 寝ていると思ったんだが、と苦笑したのはタシアンだった。彼もおそらく一睡もしていないのだろう、その顔には疲労の色が滲んでいる。
「いえ、ええと……」
 口籠るアイザに、タシアンは苦笑した。
「そういえば、まともな自己紹介はしてなかったな。俺はタシアン・クロウ。国境騎士団の団長をしている」
「アイザ・ルイスです」
 こうして話すのは初めてというわけでもないが、お互い何者であるかわかってからは話す機会などなかった。アイザも苦笑しながら立ち上がり名乗る。
「敬語はいい。そこで寝こけているのはいらんという前になかったけどな」
 じろりとタシアンがガルを見下ろした。ガルは子犬のようにすやすやと眠ったまま、ふたりが会話していても起きる気配がない。ガルらしい、とアイザは笑った。
 あー、とタシアンは言葉を探すように唸ったあとで、アイザを見下ろした。
「……女王陛下は、一命を取り留めた。おそらくもう大丈夫だろう」
 タシアンの言葉に、ようやくアイザは肩の力が抜けた気がした。
「そう、そうか……」
 よかった、と素直に口に出来ないのはひねくれているのだろうか、と思いながら、膝から力が抜けた。かくん、と崩れそうになるところをタシアンが慌てて腕を掴んだ。
「気が抜けたか。王太子殿下が話があるとおっしゃっていたんだが――あとにするか」
 タシアンの声にやさしさが滲んでいて、アイザは笑った。不器用でやさしいひとだ。起きているとは思っていなかったくせに、アイザが女王の容体を気にしていると思って知らせに来てくれたのだろう。
「いや、大丈夫」
 ほっとして力が抜けただけで、腰を抜かしたわけじゃない。足に力を入れれば、しっかりと立つこともできる。ぐっと力を込めると、背筋もしゃんと伸びる。
「なら、行くか」
 心配しているのだろうか、アイザの腕を支えたままタシアンが言う。あ、とアイザは丸くなっているガルを見た。
「ガルは――」
「転がしておけ。起きておまえがいなければ騒ぐだろう」
 アイザに対するものとは打って変わってぞんざいな扱いに、知らない間に随分と仲良くなっているのだな、とアイザは思った。



 タシアンに連れられて、王太子の部屋に通された。そこには金髪の、王太子と思われる青年と、壮年の男性がアイザを待っていた。
「はじめまして、のほうがいいかな。一応は君の異父兄になる。イアランだ」
 金髪の青年――昨夜もあの広場で顔を合わせた――がやわらかく微笑みながらアイザを見つめた。壮年の男性はおそらく宰相閣下で間違いないだろう。
「はじめまして……王太子殿下」
 異父兄、という言葉に落ち着かない気持ちになりながらもアイザは小さく答える。兄弟というものはもちろん今までいなかったこともあってどうすればいいのかわからなかった。
「イアランでいいよ。お兄様とかでもいいんだけど、さすがに周りがうるさいかな」
 茶化すようにイアランは笑った。堂々としている様はさすが王太子、という風情であったが、そういう顔をしていると、まだ十九歳なのだと思える。
「当たり前でしょう、誰に聞かれるかわかったもんじゃない」
 タシアンが苦い顔で即座に答えた。アイザの存在は未だ秘されている。それで王太子を兄などと呼ばせるわけにはいかない。宰相もこほん、とひとつ咳払いをしたので王太子は肩をすくめて笑った。
「さて、ここは人払いは済んでいる。……そこにいるのは宰相だ。君の事情も承知している」
 アイザが宰相を見ると、目礼のみで挨拶を交わした。
 イアランは真剣な眼差しでアイザを見据える。さきほどまでの年相応の表情は消え去り、上に立つものとしての威圧さすらあった。
「もうわかっているだろう。君は女王の血を、王家の血を引いている。……君はどうしたい、アイザ・ルイス」
 それは、随分と曖昧な問いだった。イアランの青い瞳が試すようにアイザを見つめている。
 どうしたい? ――それは、昨夜ガルにも問いかけられたものと同じだ。彼らはアイザの意志を尊重しようとしてくれる。少なくとも、アイザの希望を、聞いてくれる。
 静かすぎる部屋のなかで、誰も言葉を発さない。誰もがただアイザの答えを待っていた。アイザは一度目を伏せて、細く息を吐き出した。

「……わたしは、アイザ・ルイスです。その名以外の名は、必要ありません」

 その答えは、ずっと変わらなかった。
 王都を目指していたときから、女王の娘であると知ったときから、アイザはずっとアイザであることが誇りだった。
「君はもともと王都を目指していたようだけど?」
 女王に会いたかったのだろう、と言外に問われている。アイザは苦笑して「そのときは」と口を開いた。まだ何ひとつ、真実を知らなかった頃は、というべきだろうか。
「父の、魔法伯爵の地位を継ぐことができれば、と思っていました」
「では、それを望む?」
 イアランのいささか意地悪な問いに、アイザは首を横に振った。
「いいえ、わたしは魔法伯爵の地位には遠く及ばない、魔法使いなんてまだ呼べないほどのひよっこですから」
 もとより、国境騎士団の噂を信じて故郷のためにどうにか、と考えての行動だったが、国境騎士団がタシアンのような人がまとめる騎士団であるのなら、十分信頼に足る。きっとアイザの育った街をまかせても、悪いようにはならないだろう。
「では――故郷で暮らすのかな?」
 女王の娘とも名乗らず、ただのアイザ・ルイスとして生きる。それがアイザの選択だ。
 イアランの言葉に、アイザは「いえ」と首を横に振った。迷いない目で、イアランを見る。それはずっと、眠れぬ間考えていたことだった。
「国を、出ようと思います」
 アイザは馬鹿ではない。この騒動に厳しい箝口令がしかれたところで、おそらくアイザの存在の秘密は広がるだろう。
 それに――
「国を出て、魔法をしっかり学びたいと思っています。他国には、魔法を学べる環境がありますから」
 精霊との繋がりを絶たず、共存を模索している国は多い。このルテティアでは消え去った魔法使いも、他の国ではごく当たり前にいると聞いている。
 アイザの回答に、イアランはやわらかく微笑んだ。
「……そうだね、きっと、それがいいだろう」
 アイザがルテティアに残っていては、騒乱の種になりかねない。アイザは魔力が高いだけの、ただの女の子なのだ。己を護る術を持っているわけでもない。だが、女王の娘であることを否定するのなら、イアランが表だってアイザを護るわけにもいかなくなる。
 だからこそ、アイザの選択は最良の選択だ。
「それならノルダインのマギヴィル学園がいい。あの国は精霊とも縁深いし、魔法についてもしっかり学べる。紹介状を用意しよう」
「殿下の名前で紹介状なんて用意したら大騒ぎですよ」
 さっそく紹介状でもしたためようか、というイアランにタシアンが思わず口を挟んだ。
「それもそうか……ではタシアン、頼めるかな」
「言うと思いましたよ」
 え、とアイザが口を挟む暇もなく、男たちはとんとん拍子で話をまとめていた。そうゆっくりしているわけにはいかないが、けれどこうも早く計画を立てる予定ではなかったのだが。
「どちらにせよ、未成年の君の後見人がいるだろう。そうだな――タシアンがいいかな。リュースのあとの領地の管理もタシアンだしね」
 イアランがあっさりと告げたが、さすがにそれにはアイザもタシアンも「え」と目を丸くした。それはまったくの予想外だったのだ。タシアンが何か言おうと口を開くが、イアランはにっこりと笑顔でそれを封殺した。その様子に、アイザも思わず口を噤む。イアランには逆らわないほうがいいと本能が告げていた。
「……陛下はこのまま静養していただくことになる。私の即位はまだ少し先になるとは思うけどね」
 これだけの騒ぎを起こした張本人ともいえる女王を、もとの生活に戻すわけにはいかない。傷が癒えたところで西の離宮に移す、とイアランは零した。狂った女王のもとで暴走した王立騎士団も、大掛かりな再編成が必要になる。
「ルテティアは、女王とその前の代で精霊との共存を捨ててきた。けれどそれは、過ちだったんだと私は思っている」
 たとえば、機械の技術を発展させたところで、精霊とうまく付き合っていく道はあったはずなのだ。だがルテティアは精霊を――世界の祝福を捨ててしまった。人の世がすべてと言いたげに。
「少しずつ、精霊が戻ってきてもらえる国にしようと思っている。いつか君が、この国で憂いなく魔法を使えるように」
「……はい」
 アイザはイアランの決意に、しっかりと頷いた。
 いつか、この国で魔法を使ったとき、魔法使いの命が削られずに済むような――そんな、今まで当たり前であったはずの景色が取り戻すことができたなら。
 アイザの見据える未来も、夢ではなくなる。
「わたしは、ノルダインでしっかりと学んで父に恥じない魔法使いになります。そのときこそ――」
 アイザはまっすぐにイアランを見つめて微笑んだ。

「魔法伯爵の名を、拝命したいと思います」



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