魔法伯爵の娘

第二章:ヤムスの森の民(2)

「……は?」

 思わずアイザはほうけて、口をぽかんと開けた。ガルはその口にパンを放り込む。
「つまり、アイザは国境騎士団に追われてて、そいつらから見つからないように王都に行かなきゃいけないんだろ? 俺が連れてってやるよ」
 いやいやだから――と反論しようとしてアイザは口に放り込まれたパンを噛みちぎった。もごもごとすぐに話せず、焦れるようにスープで流し込んだ。
「おまえ、騎士団に太刀打ちできるほど強いのか?」
「さぁ?」
 まさかと思って問うてみれば、ガルは首を傾げるばかりだ。
「それでどうやって王都に」
 国境騎士団に対抗できるわけでもないのに、どうしてそんなに自信満々にアイザを王都へ連れて行くなんて言えるのだろう。アイザは重いため息を吐きだしながら痛む頭を押さえた。
「簡単だよ、ヤムスの森を通って行けばいい。森は王都のすぐそばまで続いているから」
 ――ああなるほど、と納得できるほどアイザは馬鹿ではない。ヤムスの森は人を拒む禁断の森。一度入った人間は二度と出てくることはできないのだという。そんなことは子どもでも知っている常識だ。
「馬鹿か! それとも馬鹿にしてるのか! それだったら騎士団の目を欺いて街道を行くほうがよほど安全だ」
「大丈夫だよ、俺がいれば」
 だからその根拠はなんなんだ、とアイザは眉を顰める。
「今のアイザじゃどうせすぐ捕まるよ? 最低でも今日一日は寝てないと」
 少しめまいがしただけだ、と反論したいところだが、正直食欲もあまりない。あたたかかったスープはぬるくなってしまった。むぅ、とアイザが言葉を詰まらせた時だった。
「ちょっとガルー! 例の女の子は……」
 豪快な声とともに玄関が開いた。扉を開けた、人の良さそうな女性とアイザは目が合ってきょとんとする。
「――って、目が覚めたなら覚めたってすぐに教えなさいよこの子は!」
「いてっ」
 遠慮なく入ってきて、女性はガルの頭を小突いた。
「あんた大丈夫かい? 顔色はまだ悪いねぇ」
「え、あ……」
 心配そうに声をかけられて、アイザは困惑した。誰なのかと問えばいいのか、大丈夫だと体調を告げるか、そうこう頭を悩ませているうちにガルが女性を紹介した。
「隣に住んでるイスラおばさん。アイザが着てる服借りたんだ。着替えさせたのもおばさんだよ」
 言われてアイザは自分の着ている服を見下ろした。すっかり忘れていたが、確かにアイザが着ているのはアイザの服ではない。頭からかぶるような簡素なワンピースだ。
「お嬢ちゃんの服は洗濯して干してあるよ。晴れてよかったねぇ」
 昨日はあんな大雨だったのに、とイスラはカラカラと気持ちよく笑う人だ。
「ご迷惑をおかけしました」
「何言ってんの、子どもは大人に頼ればいいんだよ」
 アイザが丁寧に頭を下げると「育ちのいいお嬢さんなのねぇ」なんてイスラは笑った。
「ねぇおばさん、果物かなんかないかな。アイザまだ食欲ないみたいなんだけど」
「あとで持ってきてあげるわ」
「え、いやそんな――」
 気心が知れているからなのか、遠慮のないガルにアイザは慌てて断ろうとするが、イスラは聞く耳をもたなかった。
「遠慮しないの! ほらもう一眠りしなさいな」
 ぐいぐいと寝室に押し込められそうになって、ガルに助けを求めるが彼は肩をすくめて諦めろと告げてきた。

(話はまだ終わってないだろうが――!)






 心がどんなに抵抗しても、アイザの身体は休息を求めていたのだろう。イスラに半ば無理やりベッドに放り込まれて、気づけばあたりは真っ暗だった。いつの間にか日が暮れていたらしい。
(身体は丈夫なほうなんだけどな……)
 熱なんてもう何年も出してないし、倒れたなんて生まれて初めてだ。起き上がると長いこと寝ていたせいで身体が固くなっていたが、だるさはもうなかった。
 ぐぅ、と空腹を訴えてくるくらいには元気だ。
 ランプの灯りもないが、今日は月明かりが眩しいくらいだった。窓から溢れる月光を頼りに扉を開ける。
「ガル?」
 家の中は真っ暗だ。
 その暗闇のなかで、人影がひとつ。アイザはひゅっと驚きで息を呑んだ。

(目、が)

 ――光っている。

「アイザ、そこ危ないよ足元に荷物があるから」
 ガルの表情は見えないが、声音は変わらない彼のままだった。シュッとマッチをこする音がしてランプに火が灯る。明るくなった部屋の中で、ガルと目が合った。
「うん、顔色もいい」
 そう言って笑う金色の瞳は、もう光ってない。
 足元を見ると、そこには咄嗟に掴んで持ってきたアイザのカバンが転がっていた。
「ガル……」
 なんと問えばいいのだろうか、と考えながら、寝ぼけて見間違えだけなのではなかろうか、と思う。だって、人の目が光って見えるなんてそんなこと。
「猫みたいに形は変わらないよ」
 しかしガルは、なんてことないように笑った。
 そのセリフは、アイザが見たものが見間違いでも幻でもないことを告げている。
「……見間違いじゃなかったのか」
「うん、俺、獣人だから」
 隠しているわけではないのだろう。ガルは至極当たり前のことのようにさらりと告げた。
 獣人。だが、その種族は――。
「……十三年前に、絶滅したと」
 獣人と呼ばれる種族、また獣人とともに生きていた人間は、十三年に起きたヤムスの森の山火事で誰一人生き残らなかったと言われている。ヤムスの森の民と呼ばれた彼らは、豊かな森の外へ出ることはほとんどなく、その実態はよく知られていない。
「俺以外はね」
 さらり、と悲しみの欠片も感じさせない平坦な声でガルは答える。
「まだ小さかった俺は、炎から逃げてきた母さんに抱きかかえられていたって」
 座りなよ、とガルは笑った。テーブルの上にはアイザが眠る前にはなかった果物が籠に盛られていた。ガルは林檎をひとつとると、ナイフで器用に皮を剥き始めた。
「絶滅っていってもこの国でってだけで、他の国にはまだいるらしいしね。獣人って言っても、だいぶ血は薄くなってるらしくてさ。人が考えているみたいに獣の姿になるとかないよ。ただ夜目が利くのと、耳と鼻が人間よりずっといいってくらいかな」
 ――だから俺、普段はあんまりランプ使わないんだ、と。
 夜の闇も彼には効果がない。灯りをわざわざ用意する必要がないのだ。
「言ったろ? 俺がいれば大丈夫だって」
 ヤムスの森は、十三年前の炎によって民を失った。それ以来、人を拒む禁忌の森になった。だが、獣人であるガルは例外だろう。
 彼はただ一人、残された獣人。最後のヤムスの森の民。

 ――森は、彼を拒まない。

「林檎、擦る?」
「……そのままでいい」
 いつの間にか剥き終わった林檎は、食べやすいサイズにされて皿の上に乗っていた。ひとつ齧るとしゃり、と音をたて甘い蜜が口の中に広がる。
「おまえ、お人好しって言われるだろ」
「なんで?」
「普通は、赤の他人にここまでしない」
 倒れていたところを助けただけでも親切なのに、その上王都にまで送り届けようなんて。しかもアイザは誰が見ても、面倒事を抱えている上、手を差し伸べたところで褒美が手に入るわけでもない。
「困ってるなら助けるのは当然だろ?」
「もしかしたらわたしが嘘をついていて、本当に国境騎士団に追われているのかも」
「そうなのか?」
「違う。けど――」
 世の中には人を騙す人間もいる。この人のいい少年は、簡単に騙されるのではないだろうか。
 人は大人になるにつれ、いろいろな顔を覚えていろいろな仮面を被る。それは他人にやさしいものばかりではないことを、まだ十六歳のアイザですら知っている。
「アイザが嘘をついていないなら、女の子を追いかけ回してる奴らのほうが悪いに決まってる」
 しゃく、とガルが剥いていない林檎をかじった。
 アイザはガルを見つめたまま言葉を飲み込んだ。胸に鉛が詰まったみたいに、息ができなくなる。そんなアイザを見てガルは笑った。
「アイザ」
「……なんだよ」
 深呼吸するように返事をすると、ガルは嬉しそうに笑う。陽だまりみたいな笑顔だ。
「アイザ」
「だからなんだ。……ガル」
 わずかに躊躇って、目の前の少年の名を口にする。だってまるで、名前を呼んでくれと乞うように、アイザを呼ぶから。
 陽だまりが、まるで太陽に輝きを増す。
「俺はアイザがアイザだって知ってる。アイザだって俺が俺だって知ってる。ほら、もう赤の他人じゃないよ」

 女の子が困ってて、悪い奴らに追われててて、その女の子はもう他人じゃない。

 手を差し伸べるには充分すぎるくらいだ、とガルはにかっと笑った。

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