イクトセイ

About 2001〜2008 Ikuto and Seika 《2》

 ――結局俺も、南高を受験することにした。

 別に、聖花は関係ない。ただ通学に時間がかかるところは嫌だっただけだ。南高なら電車で二駅で済む。
 合格発表のときは人混みのなかあいつの姿を見つけることはできなくて、けれど親から「聖花ちゃんも受かったって。よかったわねぇ」なんて聞いてもいないのに話してきた。
 そうか、受かったのか。
 また三年間、同じ学校なのか。
 ほとんど話すこともなくなったかつての相棒は、すっかり遠くなっていた。
 中学の卒業式でも、あいつは後輩に囲まれていた。聖花はこういうときに泣くタイプじゃない。笑ってありがとう、なんて言っている。
 クラスの奴らに紛れて、言えばよかったんだ。卒業おめでとう、高校でもよろしくなって。そうすればきっと、相棒に戻れなくても友だちには戻れた。
 けれど親しければ親しかったほど、一度築かれた壁は高い。
 小学生だった頃は男の子のようだった短い髪は、背中に届くくらい長くなって。中学ではポニーテールだったはずなのに高校に入ると陸上をやめて髪はずっと下ろされたまま。
「おーい、羽山ー」
 小学生の頃と比べると、幾分か大人びた聖花の声がした。その声に振り返ったのは俺じゃなく、別の男だった。すらりと背が高くて細い、いかにも文系といった感じの。
「なに」
「あたし今日美術室行かないから、よろしくね」
「はいはい」
 美術室ってなんだよ、と思いながらも俺はそのまま廊下を通り過ぎる。もはや他人だ、向こうも俺に気づくことはない。もともと男とのほうが気が合う聖花は、高校に入ると幾人か親しい男友達ができたようだった。中学生の頃と違って、そこに恋愛が絡まなければそれほど騒ぎ立てられることもなくなってくる。
 そしてそれは、高校二年の文化祭だった。
 人混みから逃げるように美術部の展示スペースにきて、息を呑んだ。大きなカンバスの上には、セピア色で描かれた聖花が笑っている。

 ――いしし、と。イタズラに成功した子どもみたいに。

 相棒だったあの頃と、変わらない顔で。
「……遠くなったなぁ、おまえ」
 閑散とした展示スペースで、俺ひとりが立ち止まっても邪魔にはならない。
 ぽつりと呟いた言葉は小さく、誰かに届けようと思ったものじゃない。ただ吐き出さずにいるには重くて苦しかった。
 聖花が歯を見せていしし、と笑う顔が、俺はけっこう好きだったんだなぁ、と思う。もう何年も、その笑顔が俺に向けられたことはない。それだけもう距離があるんだって思い知る。
(――……『幼さの余韻』ね)
 絵のタイトルを見てどきっとした。まるであの遠い日の聖花を知っているかのような言葉だった。そしてタイトルの下にある名前は、いつしか廊下ですれ違った『羽山』だった。
 聖花は、あの笑顔を、あの無防備さを、見せる男ができたということなのか。それは友人なんだろうか、それとも――。
(馬鹿か俺は)
 いらぬ詮索をして、自己嫌悪に陥る。関係ないじゃないか、もう。
 俺はもう、あいつの相棒じゃないんだから。



 その年の冬、何度か話したことのある子から告白された。
 今ままでは断っていたけど、なんとなくいいよって頷いてしまった。自分でもよくわからない。けれど周りにも彼女を持つようになったやつはいるんだから別にいいだろう、とその程度の感覚だった。
 リビングで携帯に届いたメールを見ていると、ひょっこりと遥姉が覗きこんできた。
「うわ、なに」
「はー? おねーさまにその口の利き方はなに? しっかもそれ女の子からのメールでしょ! あんたいつの間に彼女なんて作ったの!?」
 目敏い姉はしっかりメールの内容も見ていたらしい。週末、どこかに行かないかという控えめだけどわかりやすいデートのお誘いだった。
「いいだろ別に」
「そりゃどうでもいいけどー。あーそっかあんたもついに彼女ができたかー」
 にやにやと笑いながら遥姉は大きな声で騒ぎ立てる。美代姉がいないのが幸いだった。母さんはあらら、と面白がるように笑っていたが、追撃はしてこない。
「……ふぅん、彼女ねぇ……あんたのハジメテの彼女は、聖花じゃなかったんだー」
 久しぶりに他人の口から出てきたあいつの名前に、どきりとする。
「……なんでそこでその名前が出てくるわけ」
 ――どいつもこいつも、本当に俺とあいつをコイビトにしたいらしい。今はもう、会話すらしないのに。
「そうなるかなって思ってたけど、はずれたみたいねぇ」
「ねーちゃんだって裕昭にーちゃんとなんともないだろ、それと同じだよ」
 裕昭にーちゃんは、聖花の兄貴だ。遥姉の一つ上で、姉たちと裕昭にーちゃんはそれほど交流はなかった気がする。
「あたしたちはもともとそんな仲良くなかったしさ。でもあんたたちは、生まれた頃から二人一緒だったから」
 なんか、ずぅっとそのままなんじゃないかなって、思ったんだよねぇ、と笑う姉に、何も言えなくなる。
(――……そんなの)
 俺だって、そう思っていた時期はあったよ。コイビトとかそういうんじゃなくて、俺と聖花は何ひとつ約束しなくても、ずっと隣にいるんだろうって。
 けど違う。俺には俺の彼女がいるし、あいつもいつの間にか彼氏を作ってる。俺と聖花の世界が重なり合うことは、きっと、もうないんだろう。



 ――六月九日。
 もう俺にはなんの関係もない一日だった。
 六月十日の二人の誕生日は、中二の頃からただの誕生日前日になった。中一のとき、これが最後だなんて、あの時は思ってなかった。
「じゃあね、また明日!」
「うん、じゃあ」
 帰り道で彼女と別れたあと、なんとなく近所のコンビニに寄った。スイーツコーナーにあったのは、ショートケーキが二つ一緒に入った、五百円もしない安いケーキ。
(あいつ、いつもショートケーキだったなぁ)
 聖花の望む誕生日プレゼントはいつもケーキで、それも決まってイチゴの乗ったショートケーキだった。だから俺は、同じくケーキを頼みながらチョコレートケーキにしたりチーズケーキにしたりしていた。
 普段は全然女らしくないくせに、ケーキは一番ショートケーキが好きで、でもそれを口には出してなかった。らしくないと笑われるのが嫌だったんだろう。
 そのままショートケーキを手にとって、気がつけば会計を済ませていた。ケーキ二個なんて、男子高生の胃袋に収めるのはたやすいけれど、一つ食べたところで胸焼けした。
「なにこのケーキ。誰が買ったの?」
 冷蔵庫を覗き込んだ美代姉が声をあげる。俺、と答えるとなんでまた、と美代姉は笑った。
「明後日には食べられるのに」
「……なんとなく。それ食べていいよ」
 残っていた一つを美代姉に押し付けて、俺は自分の部屋にこもった。窓の向こうはお隣の小園家だ。漫画のように窓から窓へ行き来できるほど近くに建てれてない。間に駐車スペースがあるのは田舎だからなんだろうか。
 そのスペースを挟んで向こう側は聖花の部屋だった。昔、あいつがこの部屋に来ると窓から顔を出して「アタシの部屋が見える」と面白がっていた。
 分厚いカーテンの向こうから少しだけ溢れる光が、部屋にあいつがいることを告げている。
 たとえば、声を出せば届くほどの距離なら、窓から窓へそちらに行くことができたなら。
 俺はおまえに、誕生日おめでとうって、言えたのかな。
 二つセットのケーキを持って、子どもみたいに笑うおまえに、今も出会えたのかな。





 静子ばーちゃんが死んだ。
 高校三年の、夏のことだった。

 それまで病気なんてしたことなかったのに、風邪をこじらせてあっけないほどあっさり逝ってしまった。享年八十九歳、葬儀では誰もが長生きしたよ、と言っていた。
 けどばーちゃん、遥姉の振袖姿楽しみだって言ってたじゃんか。そのあとは、俺の成人式まで長生きしないとねぇ、ってさ。まだ先だよ。俺、高校も卒業してないよ。
 生まれて初めて接する、死だった。
 抜け殻になった身体は、どこか作り物めいている。何かが消え失せてしまったのだ、ということだけはわかった。それが魂と呼べるものなのかどうかはわからないけれど。
 聖花は、通夜にも告別式にも出ていた。黒い喪服姿の大人たちがたくさんいるなかで、俺と聖花だけが高校の制服で、それがなんだか妙に浮いていた。
 聖花は最初、唇を噛み締めて涙を堪えているようだったけれど、誰かが泣き始めると堪え切れなくなったのか、ぼろぼろと声もなく泣いていた。
 静子ばーちゃんは、俺と聖花が遊んでいるときいつもにこにこしてそれを見守っていた。聖花にとっては、もう一人ばーちゃんがいるようなものだったんだろう。
 葬儀が終わって、家に戻る。
 なんとなく静子ばーちゃんの部屋へ行くと、部屋の主がいないその場所はしんみりとしていて、色褪せた畳がやけに古めかしく見えた。
「……ばーちゃん」
 ――ばーちゃんが死んだ。
 それが日常に染み込んできて、俺もようやく理解する。ばーちゃん、死んじゃったんだ。もう会えないんだ。もう、いないんだ。
 そのまま畳の上に座り込んで、少しだけ泣いた。

「ここにいたんだ、郁人」

 しばらくして襖が開いたかと思うと、美代姉が俺の携帯を持って顔を出した。
「ほらこれ。あんたの携帯ちょっと前から何度もメールきてるみたいよ」
 葬儀の間マナーモードにしていた携帯は、メールでも電話でも物音一つたてない。その代わりにピカピカとメールの着信を告げるライトが点いていた。
 携帯を受け取って、メールを確認する。彼女からだった。
 大丈夫? 悲しいよね、と心配するようなメールから始まり、明日は学校来るんだよね、と確認があり、それから返信のない俺に対するどうしたの? が何度も届いていた。途中でうんざりしてメールを開かずに携帯の電源を落とした。
 悲しいなんて当たり前だろ。悲しくないはずないだろ、大丈夫なわけないだろ。そっとしててほしい。口先だけの心配なんてなんの慰めにもならないんだから。


 それから、急激に彼女に対する違和感が増えた。
 違う、何かが違う。言葉でうまく言い表せないけど、一緒にいてもなんの感情も沸いてこなかった。彼女が当然のように俺と一緒にいようとすることが、なぜかとてもおかしいことに思えた。
 そして秋になる頃には、彼女から別れを告げられた。ごめんね、もう無理。泣きそうな顔でそう告げた彼女を前に、なにが無理なのかさえ俺には分からない。
「……郁人くんは、最後まで私のこと好きになってくれなかったね」
 その言葉に、ごめん、としか言えなかった。まさにその通りだったから。

 そのあとにも何人か恋人と呼べる人はできたけれど、いつも向こうから別れを告げられた。
 表現しようのない違和感は、ずっと消えないまま。


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