可憐な王子の受難の日々
9:この身をもって、あなたをお守りします
その頃、彼女は少し変だった。
気づかれているとは思っていないだろう。しかし小さな頃から共に過ごしてきた、想いを寄せる人の異変に気づかない馬鹿はいないだろう。
「レイ、何かあったのか? 最近なんか変だぞ」
問い詰めると、彼女は少し困惑した。
他人では見分けることができないほどの、かすかな変化を、見逃さない自信は十分にある。
「――何もありませんよ」
数秒後には本当にいつもどおりの顔で、そう答える。
ここで納得してはいけないのだ。
ここ最近の彼女といえば、肌はかすかに荒れているようだし、注意力も以前の半分しかない。以前がありすぎるくらいだから十分だが。いつも一つに束ねられているはずの髪が下ろされている。それが目の下のクマと少しやつれた頬を隠すためだということにも気づいていた。
「誤魔化すなよ、騙されないからな。いったい何年おまえと一緒にいると思ってる?」
「――――――」
またレイの瞳が揺れた。
アドル様、と小さく呟く。
妙に色っぽいその呟きに、心臓が跳ねた。いつもとは違った、甘く優しい響きだった。
しかしすぐにレイの表情は一変し、獲物を狩る獣のごとく、人を殺める前の殺人犯にも似た冷たい顔をして、剣を引き抜いた。
彼女の背中を覆う長い銀髪を掴む。
次の瞬間に、美しい銀の長い髪が切り捨てられた。
はらりはらりと落ちていくそれに、アドルバードは少しの間見とれてしまった。夜空に落ちる流星のごとく、それは儚くも美しい光を放っていた。
何が目の前で起きているのか、分からない。
「――この身をもって、あなたをお守りします。アドルバード様」
幼い頃は世話役として共に遊び、数年前からは騎士見習いとして、去年からは正式な騎士としてずっと一緒にいた彼女は、そう言った。
自分の足元に跪き、剣を掲げてアドルバードに差し出している。
幼い頃に、そうやって遊んだこともあった。剣の誓いの、その場のワンシーン。
彼女が、自分をアドルバードと、略さずに呼ぶのは怒っている時か、真剣な時だけ――。
ああ、そうか。
彼女は本気なのか。
その時、起きている事態がすぐには理解できなかった。
呆然と立ち尽くして、ただ頭の中は冷静にそんなことを考えていた。
ハウゼンランドでは髪の短い女性などいない。長い髪を切るというのは不貞を働いた女性に課せられる刑であり、最大の屈辱のはずだ。
まして、女の騎士でさえ珍しいのに、剣の誓いまで――。
異例の女騎士。
異例の幼い主。
周囲からの声は、優しくはなかった。それでも彼女は全てを自分に託したのだ。たった十五歳で。たった十三歳の自分に。
自分は彼女に答えなければいけない。彼女のその気高く美しい心に見合うだけの、男にならなければ――。
「――あとで知ったことだけど、その頃のレイにはたくさんの縁談が上がっていたらしいです。なんせあの顔ですから。髪が長かった頃は男には見えなかったし。レイの家柄はそんなに良くないけど、レイの父親は俺の母の騎士で、王家からの信頼も厚かった。もちろん、レイ自身も。利用できる上に美人じゃあ、当然だったんだろうな」
ドレスを着ることは滅多になかったが、年頃の少女らしく長い髪を結い、ドレスを着たレイはとても綺麗だった。誰もが一度は目を奪われるほどに。リノルアースと並んで舞踏会の花だったのだ。
太陽の花、とりノルアースは褒められ、密かにレイを月の花を称える者がいたくらいだ。
「当時君は――」
「十三歳。レイの父さんも断り続けていたけど、中には伯爵公爵からの縁談もあったらしくて、断り続けるのは難しかった。だからレイは女であることを捨てて、俺を選んでくれた」
「やっぱり相思相愛ではないか」
「違う。たぶん」
「どう違うのかが分からん。分かるように説明したまえ」
偉そうな、いや偉いのか、などと考えながら、アドルバードは一度自分の頭の中で整理した。
好きだとか言われたことはない。言った覚えもない。
だから相思相愛と言われると違う――、と思う。お互いに信頼しているし、大事な存在であることには違いないんだけれど。
「……好きだって、言われたことないし」
「言わなくても分かるだろう」
「分かるわけないだろ」
アドルバードが即答すると、カルヴァは肩をすくめて、ため息を吐く。その仕草に、なんだか無性に腹が立った。
「何とも思っていないような相手の為に、すべてを投げ出すかね? 騎士殿はもう結婚さえ出来ないのだろう?」
「出来ないわけじゃない。求婚してくるような男はいないってだけで」
似たようなものだよ、とカルヴァが返す。
「私には、騎士殿が好きでもない相手との結婚を回避する為だけに剣の誓いを立てたとは思えないな。そういう人間じゃないだろう、彼女は」
「だったらどうして――」
「それは騎士殿に聞くことだろう。いや、その前に愛の告白をするべきだな、うん」
もう一度お茶を吹き出しそうになって、阻止しようと無理に飲み込むと今度は咳き込んだ。
「な、何考えて――」
「自分の胸に秘める愛を打ち明けるのだよ。そうすれば騎士殿も心のうちを明かしてくれるだろう」
「で、できるかそんなこと!!」
カルヴァは不満そうに唸る。
「十中八九、問題ないと思うがね」
「もしも振られたらどうしてくれる!? 相手はほぼ一日中、三百六十五日一緒にいるんだぞ!?」
気まずくて最悪。しかも剣の誓いは一度立てれば一生、破ることはできないのだ。
「まぁ、無理にとは言わんがね」
「そういう話が好きなら、あんたが片思いの相手を口説け」
「えーあー……ちなみにハウゼンランドは身分には厳しいのかな?」
逃げやがったな――アドルバードはカルヴァを軽く睨みながら、いいやとだけ答えた。
「家柄なんて気にする国だったらレイは俺の騎士なんかできない。爵位はないからな。レイの父親の働きで、特別に剣聖っていう称号があるけど」
アドルバードの返事を聞いて、カルヴァは満足げに微笑む。
「それは素晴らしい。良かったな」
何が素晴らしいのかさっぱり分からないまま、その話はそれで終わった。
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