君と肩を並べるまで
(4)
呼吸が、上手く出来ない。
以前より重くなったアドルバードを押しのけることはたやすいことではなく、またすぐに反応する余裕もなかった。恋愛面での不意打ちにはいつも弱い。
「――――んっ!」
唇がわずかに離れた隙に息を吸う。耳に届くのはお互いの吐息だけだ。
青い瞳と間近で目が合い、心臓が一度大きく波打った。青い瞳が再び目を閉じようとしていることに気づき、渾身の力でアドルバードを突き飛ばした。
――――ふざけるな。
羞恥の後に湧き上がったのは純粋な怒りだった。
身長を気にして、くだらないプライドを守ろうとして、何年もこちらを待たせているのはどこの誰だ。それでもそれがこの人の願いならと主従関係で満足しようとしているというのに。
それなのに。
「っ! ……最悪です、アドルバード様」
怒鳴ろうとしたのにも関わらず、一瞬にしてその心も冷めた。
悪かった、悪かったとは思っている。けれどこんな不意打ちのように襲われるのは心外だ。そんなに安い女だとでも思っているのだろうか。
――弟なんて思っているわけじゃない。思えるわけがない。好きだと伝えたわけでもない。けれど、想いは確かに伝わっていると思っていた。
しかしアドルバードはこちらの想いを疑った。
こちらの想いを家族への愛情と同じなのだと、アドルバードは思ったということだ。
胸が苦しくなって、言葉に詰まる。これ以上この場にいるのも耐えがたく、静かに踵を返す。アドルバードは言い返すこともなく、突き飛ばされたまま茫然と見上げたままだった。
「――休暇をください」
アドルバードのもとから去ったその足で、国王陛下の執務室へと向かった。許可を得て部屋に入ってから一番にそう言った。部屋には偶然父であるディークがいる。国王陛下はきょとんとした顔でこちらを見ていた。
「……突然だねぇ、レイ? でも休暇の許可は馬鹿息子にもらうべきじゃないのかい?」
君の主は私ではなく馬鹿息子のはずだよね? とからかうように、どこか諭すように微笑む。
「その馬鹿息子様からは許可が下りないような気がしましたので。国王陛下の権限で休暇を頂きたいのです」
馬鹿息子という言葉をそっくりそのまま、きっぱりと即答すると国王は面白そうに笑った。
「どうしてそこまで必要なんだい?」
「貞操の危機を感じるので」
至極真面目な顔で即答すると、国王陛下は年も考えずに大爆笑した。
「いいよ、許可しよう。どうせだから好きなだけ休むといい」
「ありがとうございます」
レイは綺麗にお辞儀をする。
「殿下も持った方だな。あれでも年頃なんだし」
くつくつと笑いを殺そうと努力しながら父が呟く。娘が身の危険を訴えているというのに笑うところだろうか。
「レイのおかげで忍耐力が培われたねぇ」
父と一緒になって国王陛下まで笑い始める始末だ。これでこの国は大丈夫なのだろうかと疑問に思うところではある。
面白がる大人達は放置して退出しようと扉へと向かうと――開ける前に扉は勝手に開いた。
「笑いごとではないでしょう!!」
そう怒鳴りながら入ってきたんは王妃であるアデライードだった。
双子の母親とは思えないほど王妃様は若々しい。髪はいつまでも艶やかで、もともと童顔なのかとてももうすぐ四十歳になるとは思えない。
「女の子を襲うような子供に育てた覚えはなかったのに! あなたがあんまりアドルをいじめるから性格が歪んでしまったのではないの!? しかもそれをディークと一緒に笑うなんて何事ですか!!」
鬼の剣幕で怒鳴る王妃を前に父も国王陛下も小さくなる。やはりこの国の男は女性に勝てないのだろうかとぼんやりと考えていると、腕をつんつん、とつつかれる。
「悪い方向にいっちゃった?」
そこには可憐な姫君が少しだけ申し訳なさそうに立っていた。王妃を連れて来たのも彼女だろう。
「いいえ、本気の喧嘩ではありませんから」
――少なくとも、私は。
「そう? ……なら、いいんだけど」
あまり納得していなさそうなリノルアースの髪を優しく撫でながら、王妃の説教が始まった部屋から逃げ出す。
「お茶でもどうですか? リノル様。温室でゆっくり」
リノルアースは少し悩むようなそぶりを見せ――やんわりと微笑んだ。
「いいわよ、レイも一緒ならね」
もちろん、とレイは答えながらリノルアースと共に花の咲き乱れる温室へと向かう。
――怒りはある。
それと同じくらいの悲しさもある。
けれどその感情で想いを見失うほど、自分は愚かではなかった。
紅茶を飲みながらも、リノルアースはまだ窺うようにレイを見ている。
自分のせいで喧嘩させてしまったという罪悪感があるのかもしれない、そんなことを気にする必要はないのに。怒りも悲しみも同じだけあるのに、頭は冷静だった。適確に原因を突き止めようと働いている。
「――今まで、あまりにも近過ぎたんですよ」
そう切り出すと、リノルアースがきょとんとした顔でこちらを見た。
「近過ぎたから、相手の想いに深く悩むこともなかったんでしょう。どうせ傍にいるのだから、と」
「……アドルのこと?」
リノルアースの青い瞳がレイを真っ直ぐに見詰めてくる。レイは苦笑して「私のことでもありますよ」と呟いた。
「プライベートと仕事の区別がなかった。一日の大半傍にいたのに」
「でもそれは、私とルイだって同じでしょう?」
「いいえ、異性として節度が保たれる程度には距離がありましたよ」
緊急時の他にルイがリノルアースの寝室に入ることはなかったし、着替えの時は当然別室で待機していた。入浴の際は危険な時でない限り送り迎えさえしていなかった。
「レイとアドルに節度がなかったということではないと思うけど?」
「それはそうですが――私が悪かったんでしょうね、その点は」
レイは腰から下げている剣に触れながら苦笑する。幼少の頃よりこの国で一番の剣士に育てられ、男にも負けないほど自分の腕を鍛え上げた。
「守る立場だから、油断していたんです。守られる立場の人間が何を考えているかも、分かっているようで分かってなかった。私がアドル様に負けるわけがないという意識もどこかにあったのでしょう」
一対一で、普通に剣で競うのであれば今でもアドルバードに負けることはないだろう。しかしそれだけでは片付かない感情が自分の中にあることをすっかり忘れていた。
「……そういうことは、アルシザスで学習したんじゃなかったの?」
同じようなことがあったはずよね、と呆れたようにリノルアースが呟いた。痛い言葉にレイは苦笑するしかない。
「学んだと思っていたんですけどね」
幼い頃を知っていると厄介だ。小さな子供が大人の男になったということに気づくのがどうしても遅れてしまう。
「しばらく、距離を置いた方が良いと思います。家も随分と放置したままですし」
ティーカップをかちゃん、と置いてレイは決心を口にする。
リノルアースはそんなレイをじっと見つめたまま頬杖をしてため息を吐く。
「そうね」
それがいいのかもね、呟いた声はどこか遠い。
父は相変わらず多忙で、同じように自分も家に帰る余裕はない。出来た弟は出来る限り家に戻っていろいろしてくれていたようだが――その弟も今は遠い異国の空の下だ。使用人に任せきりというわけにもいかないだろう。
「会えない時間が想いを募らせるっていうしね……本当かどうかは定かじゃないけど」
リノルアースの吐く言葉の後半はほとんど彼女の不安を声にしたものだったのだろう。
会えない辛さは、たぶんきっと彼女が良く知っている。
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