平凡皇女と意地悪な客人
23:やくそくね!
パリスメイアは部屋に着くなりジュードに何も告げずに寝室に籠った。
『……まぁ、そうなんですか』
扉の向こうから、アイラの驚く声が聞こえる。それから何か会話している気配のあとで――それが途絶えた。ジュードが行ってしまったのだ、とパリスメイアの胸はきゅっと締め付けられる。
「ジュード様、帰ってしまうそうですね」
寝室の扉をそろりと開けて、アイラはとても残念そうに告げた。何故かこの侍女はジュードをとても贔屓にしているのだ。
「……そうらしいわね」
布団をかぶってしまうわけにもいかずに、パリスメイアは髪をほどきながら答えた。癖のない黒髪はすぐにするりと背に流れ落ちる。
「いいんですか? パリス様」
アイラが何かを探るように、パリスメイアに問いかけてきた。その目をパリスメイアは直視できず、目を逸らす。テーブルに飾られた花冠が目に入って、それはそれでいたたまれなかった。
「……いいもなにも、私が決めることじゃないわ」
我ながら捻くれた答えだと思う。ジュードのこともずいぶん捻くれた男だと思っているが、自分も人のことは言えないなと苦笑するしかない。
「パリス様がそうおっしゃるなら私は何も言いませんけど……」
たまには素直になったほうがいいですよ、という助言は耳に痛い。だがそれに頷く気力もパリスメイアにはなかった。
「――今度は泣かないでくださいよ?」
アイラがため息を零しながら告げる。
「泣くわけないじゃないの……って」
パリスメイアは呆れたように答えたあとで「え?」とアイラを見た。――……今、彼女はなんと言っただろう?
「……今度は、って?」
それはまるで、その言い方では以前もあったかのような言い方だ。
「え? ……パリス様、まさか覚えていらっしゃらないんですか?」
きょとんとした顔で、アイラが問い返してくる。お互いに会話がうまく噛み合っていないことに気づかされ、アイラが目を丸くしたまま口を開く。
「ジュード様とパリス様、随分と前に一度お会いしてるんですよ?」
――寝耳に水とは、まさにこのことだ。
もう十五年近く前のことになる。
ジュードを含めた、皇帝の異母妹家族がアヴィランテに滞在していたことがあった。パリスメイアが五歳になるかどうかの頃、およそ一か月に渡る滞在だった。
「シェリスネイア様にもジュード様にも、そりゃもう懐いていらっしゃったじゃないですか。パリス様は普段、人見知りなのに珍しいって陛下も王妃様も喜んでいらっしゃって」
アイラは昨日のことのようにすらすらと話す。年齢はパリスメイアとそれほど変わらないのに、彼女はしっかりと覚えているらしい。
「ジュード様の姉君にも懐いてましたけど、やっぱりジュード様に一番べったりでしたよ。一緒にシェリスネイア様から花冠の作り方を教わったけれどパリス様は作れなくて、それでジュード様がいらっしゃる間は毎日のように作ってってねだっていて」
ぽろぽろと次々に暴露される過去の話に、パリスメイアはどんどん小さくなった。
「ジュード様たちが帰るときなんてそりゃあもう、帰らないでって大泣きだったんですよ? それでもさすがに滞在延期ってわけにもいかなくて帰ってしまって。パリス様ったら不貞腐れて庭のどこかに隠れてしまって、風邪を引いたんですよ」
だから今度は泣かないでくださいよ、になるのかとパリスメイアは恥ずかしさに耐えながら思う。記憶を掘り返すと、確かにそんなこともあったような気もしてくるが。
「そのあとすごい大熱で……ああ、あの時の熱のせいで記憶も曖昧になってるのかもしれませんね」
「……そう、かもしれないわね」
パリスメイアは顔を引き攣らせて笑うしかない。熱のせいにしてしまえば良心もあまり痛まずに済む。
「ねぇ――ちょっと待って。花冠の作り方って、シェリスネイア様に教えていただいたの? 母上ではなく?」
ちょうど少し前に花冠を作ってもらう夢を見たが、ずっと母親に作ってもらったものだと思っていた。綺麗な指先が、するすると花冠を編んでいる姿を覚えているが、考えてみると指先ばかりを見ていて顔を覚えていない。
「王妃様に? ……無理ではないですか? あんまり器用な方ではありませんでしたし」
アイラの返事に、自分の記憶があちこちごちゃごちゃと混ざり合ってしまっているのだと知る。
話しながら寝支度を整えて、アイラは「おやすみなさいませ」と声をかけて退室する。一人ぽつんと部屋に残ったパリスメイアは呆然としながら横になった。薄暗い闇に包まれれば睡魔はやってくるだろう、と思ったけれど目は冴えている。
記憶の鍵をひとつ見つけると、するりと一人の少年の顔が浮かんだ。鮮やかな緑色の瞳を優しく細めて、その手のひらがパリスメイアの髪を撫でる。
――赤が似合うね、パリスメイア。
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「ジュード!」
幼いパリスメイアは、朝目覚めるとすぐにジュードの姿を探した。見つけるとぱっと目を輝かせて彼に駆け寄って、一日中ついて回った。
大人は微笑ましくその様子を見守っていたし、ジュードも妹のようにパリスメイアを可愛がっていた。
「わたしがジュードのおよめさんになってあげる」
それは、これほどまでに懐いていればいつかは出てくるだろうと誰もが思っていた言葉だった。
「まぁ、パリス様。ダメですよ、パリス様は陛下のたった一人の子なんですから」
ネイガスにお嫁に行かれては困ります、とアイラの母が――当時のパリスメイアの世話係が、微笑ましいやりとりにそう告げた。
「そうね、そんな大事なお姫様をもらうわけにはいかないわね」
くすくすと笑いながらシェリスネイアもそう言うので、小さなパリスメイアは「むぅ」と頬を膨らませた。幼いながらにジュードと一緒にいるにはお嫁さんになるのが一番だと思ったのだ。
「んー……じゃあ、ジュードをお嫁さんにもらってあげる!」
お婿さん、という単語を知らないからこそ出てきた言葉だった。
周りの大人たちがまぁ、と笑う中で、大人びた子どもであった彼は、優しく微笑んだ。
「いいよ。パリスメイアが大人になってもそう思っていてくれたらね」
髪を撫でるジュードを見上げて、パリスメイアは笑った。
「やくそくね!」
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その約束をした張本人がすっかり忘れてしまっているなんて、恥ずかしすぎて穴があるなら入りたい。
いつの間にか眠りについたパリスメイアのもとにやってきた夢は、すっかり忘れ去っていたジュードとの思い出だった。一度解けた糸は、ほろりほろりと解けて曖昧だった記憶がはっきりとしてくる。忘れていたというよりも、別の誰かと思い込んでいたものがほとんどだ。
そう、木登りをして降りれなくなったパリスメイアに「おいで」と手を広げたのもジュードだ。庭の中で、迷子にならないよいにと手を引いて歩いたこともあった。
――数々の違和感が、ぴたりとはまっていく。
忘れていたはずの記憶は、まるでこの時を待っていたかのようにほろりほろりと花開いた。
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