平凡皇女と意地悪な客人

24:私と、恋をするんじゃないの

 目が覚めてから、夢が悪酔いのように頭の中でぐるぐると渦巻いている。幼い自分がジュードを呼ぶ声が耳に残っていた。

「ジュード・ロイタニア!」

 パリスメイアは居てもたってもいられず、朝食のそこそこに八つ当たりのようにジュードのもとへ駆け込んだ。
「――どうしたんですか、急に」
 朝早くからの突然の来訪者に目を丸くする彼は、今日も北国の衣装を着ていた。まるで、もう帰るのだと言っているかのようだ。
 それがまた、パリスメイアには腹立たしい。
「なんで言わなかったの!」
 掴みかかる勢いでパリスメイアは吠えた。
「言わなかったって……なんの話ですか?」
「初対面じゃないじゃないの! なんで会ったことあるんだって言ってくれなかったの!」
 覚えてなかったこちらが悪いとは思う。けれど、幼かったのだから仕方ないではないか。もしもっと早くに教えられていれば、すぐに思い出したかもしれないし、態度だって違ったかもしれないのに。
 パリスメイアの怒りをよそに、ジュードは「ああ」と呟いた。
「……綺麗さっぱり忘れている人に、実は昔会ったことがあるんですよなんて言います?」
 言ったところで信じないでしょう? とジュードは首を傾げた。確かに何を考えているかわからないような彼からそんなことを言われても、パリスメイアは信じなかっただろう。
「それは、でも!」
「覚えていないならいないで、別にいいかなぁ、と」
 けろりと呑気なジュードの声に、パリスメイアは唇を噛みしめた。――そんなに簡単なことだったのだろうか。どうにか思い出した記憶の欠片は、少なくともパリスメイアにとっては、大事な思い出なのに。

「――でも、少しは思い出したもの」

 憮然とした顔で、パリスメイアは小さく小さく呟いた。まるで駄々をこねる子どものようだ、と頭の片隅で思う。幼い記憶が蘇って、まるで心も引きずられるように子どもっぽくなってしまう。
「……じゃあ、あの約束も?」
 ジュードの低い声が、背筋を撫でるように耳元で囁かれる。途端にカッと顔が赤くなった。
「その様子だと、覚えてるんですね」
 すっかり顔に出てしまっているパリスメイアは、今更隠し事なんてできるはずもなかった。じろりと睨むと、心なしかジュードは嬉しそうに笑っている。
「……貴方、あんな子どもの戯言を本気にして来たっていうの?」
 パリスメイアは覚えていなかった。けれどジュードは覚えていて、その上でアヴィランテにやってきた。しかも、パリスメイアの結婚相手になるかもしれない、なんて状態で。あんな、面倒事に巻き込まれることも承知で。
「――まさか。そこまで純情じゃないですよ」
 ジュードは笑った。その一言に、パリスメイアの胸がちくりと痛む。まさか、と笑ってしまわれるほどのことなのか、と卑屈な声が聞こえる。
 ――でも、とジュードが小さく零した。

「……アヴィランテに来ないかと言われて、一番に思い出したのは貴女でした」

 やわらかく、ほのかに甘いその声が響く。
「パリスメイア」
 名前を呼ばれる、それだけで泣きそうになる。幼い頃にパリスメイアを呼んでいた声とは違う、低い声だ。けれど、宿るぬくもりが同じだ。
 きゅ、と涙をこらえて、俯いたままジュードの上着の裾を握りしめた。
「……本当に、帰るの?」
 帰らないでと子どものように縋り付けなかった。パリスメイアにはこれが精一杯で、そしてそれはジュードにも伝わっているはずだった。
「帰れと言ったのは貴女ですよ?」
 けれど意地悪な彼は、こういうときパリスメイアを甘やかしてくれない。幼い頃はそれはそれは優しかったのに。どこをどう間違って、こんな捻くれた性格になったんだろう。時は残酷だ。
 帰れと言ったパリスメイアの言葉は、本音なんかじゃないと彼は知っているんだろうに。

「私と、恋をするんじゃないの。ジュード・ロイスタニア。本当の、本物の恋を」

 裾を握りしめていた手を離すと、パリスメイアはそのままジュードの胸元を引き寄せてキッと睨みつけた。
 ジュードは余裕の表情を崩さないままで、それがまた本当に憎たらしい。パリスメイアはそのまま胸元を引き寄せ、背伸びをした。
 ――方法なんて知らなくても、キスはできる。
 唇はほんの一瞬だけ重なった。こんなのはキスじゃないと言われても、パリスメイアには正真正銘の初めてのキスだ。
「それともここで貴方が退場するのが本当の恋というのなら、私は二度とごめんだわ」
 キスのあとの甘やかさなんてない。パリスメイアは睨みつけたまま宣言すると、ジュードはくすりと笑った。
「……随分と挑戦的な誘い文句ですけど、帰ってほしくないなら素直に帰らないでと言えばいいんですよ?」
「帰らないでと言ったら帰らないでくれるの?」
「疑い深いですね、何度も言ったじゃないですか」
 くすり、とジュードが笑うと、大きな掌がパリスメイアの髪を撫でる。ああ、このぬくもりも優しさも知っている。
「貴女が望むなら、いつまでも?」

 ――パリスメイア。

 いつからか躊躇いなく呼ばれる自分の名前に、パリスメイア自身はまだ慣れずにいる。呼んでいるジュードは、まるで何年も前からそう呼んでいるのが当たり前のように自然に呼ぶのに。
「なら」
 乞えば手は届くのだろうか。パリスメイアは震える声で言葉を紡いだ。

 かえらないで、と。


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