平凡皇女と意地悪な客人
5:そんなに、皇帝になりたいの?
ほんの少しの、弱い毒から身体を慣らしていく。しかしそれは十歳の子どもにとっては拷問以上のものだった。 熱、身体中を走る痛み、呼吸困難、幻覚、毒によって症状は違えど、幼い身体が耐えられるものではない。
パリスメイアは泣きながら父に聞いた。
「どうして、こんなことしなきゃいけないんですか。苦しいしつらいし、嫌です」
それまでは厳しくも甘やかすばかりだった父に、パリスメイアはこれだって嫌だと言えばやめてくれるに違いないと、思っていた。しかし父は、皇帝は、悲しげに微笑んでパリスメイアの黒髪を撫でる。
「そうだね、さぞ痛いし苦しいだろうね。けれどパリスメイア。この痛みが、苦しみが、いつか君の命を救うんだよ」
父の言葉は、見事に未来を言い当てていた。 パリスメイアが初めて毒薬を盛られたのは、十二歳の時。犯人は側室の一人だった。
幾人かいる側室の中でも特にパリスメイアを可愛がってくれていた女性で、彼女からもらった菓子を、パリスメイアはなんの疑いもなく口に入れた。
三日三晩熱に苦しみ、パリスメイアが寝台から起き上がれるようになったときにはその側室はもういなかった。逃げおおせるはずもないので、処刑されたのだろう。
盛られた毒は、少女の身体を死にいたらしめるには十分な量で、毒に慣らされたパリスメイアでなければ即死でもおかしくはなかったのだという。
パリスメイアはそして学んだ。 真に信頼できる他人などいないのだと。父以外の誰にも、信用はできない。
このアヴィランテで、生きていくには、一人でしっかりと、この足で立つしかないのだ。
「パリスメイア姫」
王宮の書庫へと向かう途中、一人の男に声をかけられた。そばについていた侍女や護衛が止めないということはそれなりの地位の男ということだろう。
しかし、パリスメイアの記憶にはない。
「……アイラ」
後宮でもずっとパリスメイアのそば付きの侍女である一人に声をかけると、アイラは心得ているようでパリスメイアの耳元で囁く。
「姫の叔父上にあたるサージェス様です」
――つまりは父の異母弟か。
「……何か御用でしょうか」
「いえいえ、近頃姫が得体の知れぬ珍妙な客人と親しくされているとのことで、ご忠告をと思いまして」
笑みを浮かべているが、男はちっとも笑っていない。パリスメイアはすぅ、と心が冷えていくのを感じた。
「どんな甘い言葉を吐き出そうとも、その男が欲しているのはこのアヴィラの皇帝の地位です。ゆめゆめ騙されてはなりませんよ」
「ええ、もちろん。心得ておりますわ。貴方に言われるまでもないことです」
パリスメイアはにっこりと笑う。
「彼が信用に足るか否かは自分の目で確かめますわ。貴方のご子息のように使用人を孕ませてばかりの屑でないことを祈っております。そんな男では皇帝に相応しくないですものね?」
「……なっ」
「御用はそれだけでしょうか? このあたりは皇帝陛下の命により立ち入りを制限されている区域なのですが、貴方はどうやってここまでいらっしゃったんでしょう? まさか陛下から直々にさきほどの忠言を頼まれたのかしら。それだとしたら大変失礼な物言いをしてしまいましたわ、陛下に謝罪しなくては」
「いいえ、陛下はご存知ないことでございます!姫の御身を案じるばかりに出過ぎた真似をいたしました、失礼いたします!」
パリスメイアは「あら」と微笑みを絶やさぬまま、逃げ帰る男の背を見送った。馬鹿な男だ、逃げたところで陛下の耳には入るのに。
――皇帝の座が、欲しいだけ。
わかっている。パリスメイアの持つ魅力などそのくらいだ。どんなにやさしくされようと、そのやさしさの先には帝国の玉座に手を伸ばしているのだろう。
「姫様、あんな戯言お気になさいませんよう。ジュード様はそんな方ではありませんわ」
アイラが苛立ちを隠さぬままそう言ってくれるが、パリスメイアはどうして今の今まで忘れていたのか不思議の、真実だ。
書庫の扉を開けると、先に来ていたのだろう。ジュードが書面から顔をあげた。
「遅かったですね?」
「……ええ、まぁ」
パリスメイアの心は冷えたまま、冷静にジュードを見つめ返した。護衛も侍女も、書庫の入り口に控えているので、室内にはパリスメイアとジュードしかいない。
「……貴方は、どうして私にかまうの?皇帝陛下の命令だから?それとも」
口に出すと、驚くほどするすると言葉になる。
「……そんなに、皇帝になりたいの?」
問うと、ジュードは訝しげに眉間に皺を寄せた。ぱたん、と栞も挟まずに本を閉じる。
「誰にそんなこと吹き込まれたんですか?」
どきり、とパリスメイアは緊張した。吹き込まれた。これでは確かに、あの男の思う壺なのかもしれない。
けれど。
「……違うって、言いたいの?」
そう言われてもとてもじゃないが信じられない。
ジュードはパリスメイアに歩み寄ると、苦笑した。するりと伸びてきた腕から逃れようとするが、とん、と本棚に背が当たる。
「……そういう意地悪を言われると、攫ってしまいたくなりますね」
本棚についたジュードの手が、まるで檻のようにパリスメイアを逃がさない。どこも触れられているわけではないのに、パリスメイアの身体は芯からかっと熱くなるようだった。
「さ、攫ってしまっては皇帝にはなれないわよ?」
「そうですね、それが?」
いったい何が問題だというのか、という顔のジュードに、パリスメイアは「だって」と続ける。
「それでは、欲しいものは手に入らないでしょう?」
手に入れるために手段を選ばないというのはわかるが、その手段が間違っているではないか。
「……手に入りますよ、ちゃんと」
呆れたようにジュードが呟いたが、パリスメイアにはさっぱり理解できなかった。
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