平凡皇女と意地悪な客人

9:絶対的で、悲しく孤独な皇帝に

 ――十二歳のときだった。
 パリスメイアは、母を卑劣な暗殺者によって失った。

 その日は、皇帝陛下が遠い領地へ視察へ行っているときだった。主不在の後宮は静かで、どの側室たちも部屋でひっそりとしていた。
「――覚悟っ!」
 突如部屋に飛び込んできた侵入者は一人ではなく、母はパリスメイアとアイラを衣装箱へと押し込んだ。皇帝の寵姫として恨みを多く買っていた母は、淑やかな姫ではなくどちらかといえば勇ましい人であった。
 けれど、母の一人に敵は多勢。勝敗は明らかで、敗北はつまり死を意味している。
「ははうえっ」
 暗い衣装箱の中でパリスメイアは悲鳴のように母を呼んだが、アイラに強く抱きしめられ出ることを許されなかった。アイラはパリスメイアの耳を塞ぐように強く強く、息さえ苦しくなるほどの強さでパリスメイアを抱きしめた。

 永遠にも感じるほど長いときが終わり、衣装箱が外から開けられたとき、パリスメイアは父の顔を見て泣き崩れた。母の部屋はもとの原型など欠片も残しておらず、むせ返るほどの血の匂いに満たされていて、パリスメイアとアイラが隠れていた大きな衣装箱の傍らには、血だまりができていた。母の姿はなかったが、なくてもすべて理解できた。理解できてしまった。

 母にようやく会えたときには、うつくしい母は棺に横たわっていた。
「パリスメイア」
 父は、このときは皇帝の顔も父の顔もしていなかった。最愛の人を亡くした、憐れな男だった。
「覚えておきなさい。忘れてはならない。これが王の伴侶は、不幸になる。……王に守る力がなければ」
「母上は、不幸などではありませんでした」
 女性の身でありながらも武芸を好む、アヴィランテでは異色の女性であった。けれど、そのすべてを父に認められ、愛され、不幸ではなかった。身分の低さゆえに正妃になれなくても、父の愛を疑うことは一度もなかった。
「……けれど、彼女の命を奪ったのは、皇帝の存在だ」
 守りきれなかった、と、小さく、本当に小さく、父は呟いた。おそらくパリスメイアに聞かれることすら、不本意だったのだろう。

 パリスメイアは、父のようにはなれない。父を超えることはできない。だって、女というだけでそもそもスタートラインが違うのだ。
 パリスメイアは皇帝になるわけではないけれど、皇帝になれないけれど、しかし、パリスメイアの伴侶が皇帝になることは決まっている。

 ――絶対的で、悲しく孤独な皇帝に。





「……パリス様、いくらなんでもジュード様がお可哀想です」
 昼食を終えて午後になっても、アイラは隙を見つけてはパリスメイアに不平を漏らす。長年一緒にいた彼女は、もうすっかりジュードの味方らしい。いつの間にそんなに骨抜きにされてしまったのか。
「何を言ってるの。むしろこれが適切な距離でしょう。私は未婚で、そうたやすく男の人と二人きりになるべきではなかったのよ」
「……ですが」
「アイラだって普段から言っているじゃない。男はケダモノだから、隙を見せてはいけませんって。彼には少し気を許しすぎていたくらいだわ」
 アイラは反論できないようだったが、少しも納得していない顔だった。
 パリスメイアの夫は、すなわちこのアヴィランテの次期皇帝だ。
 父に似ているジュードは素質として申し分ないだろうし、あの皇帝が雑用とはいえ手伝わせているくらいだから賢い人なのだろう。
 けれど、遠い北国からやってきた、別の世界の人だ。

 こんな汚れた国で、皇帝になどなるべきではない。

 コンコン、とノックの音がしてアイラが取り次ぐために扉を開けた。衛兵と二三言葉を交わしたあとで、アイラはパリスメイアに確認もとらずに「どうぞ、入っていただいてください」と言った。
「……アイラ? 誰か来たの?」
 パリスメイアの許可もとらないのなら、皇帝陛下だろうかとも思ったが、違う。皇帝はいつも取り次ぎなど頼まずにやってきている。
「ジュード様です。パリス様に直接お渡ししたいものがあるとか」
「……っ! 私に確認もせずに」
「皇帝陛下からお預かりしたものだそうですので、パリス様の許可は必要ないかと愚考いたしました」
 これはどう考えても、ジュードから逃げ回っているパリスメイアに対する嫌がらせだ。本来、主従としてはあるまじきことである。
「……わかったわ」
 ここでこれ以上駄々をこねても無駄だ。渡すものがあるというなら、さっさと受け取ってしまえばいい。
 ため息を飲み込んだところで、扉が開きジュードは姿を現した。
「おやすみのところ、申し訳ありません」
 ジュードは苦笑しながら、まずパリスメイアに詫びる。今朝の、部屋で休むという方便を覚えていたのだろう。
「……別に体調を崩したわけでもないんだから、気にされても困ります。それで、渡したいものとは」
「これです。陛下からお預かりしました。孤児院に関する報告書です」
 パリスメイアは受け取りながら「ああ」と思い出す。帝都の外れにある国営の孤児院だ。今年は麦が例年に比べて収穫が少なく、わずかにだが値が上がっている。それが孤児院に影響を与えていないか確認したかったのだ。
「どんなところなんですか、その孤児院は」
 ジュードに問われ、パリスメイアは言葉を探した。
「……帝都の外れシヴィラにあり、傍らにはルーヌ川が流れていて涼しい場所だそうです」
「知ってます。報告書に書いてあるじゃないですか」
 先ほどジュードが渡した報告書に、書いてあるものとそっくりそのままだった。
「行ったことないんですか? 貴女が管理しているのに」
「……あるわけないでしょう?」
 パリスメイアが不満げに、小さく答えた。その表情に、ジュードはくすりと笑みを零す。
「なら、行ってみますか?」
 まるですぐそこの庭にでも行きましょうというくらいの調子で、ジュードは言った。
「……え?」
「百聞は一見に如かずって言うでしょう? そんな報告書を何枚も読むより自分の目で一度 確認したほうが早いし確実です。情報は人の手が入った段階で、多少なりとも事実と歪んでくる」
 突然のジュードの話に、パリスメイアは目を白黒させた。
「な、何を言ってるんですか。そんなことできるわけ」
「陛下の許可は必要でしょうから、俺が話してみますよ。たぶん平気だと思いますけど」
 そんなわけがない。皇帝陛下は、父は、パリスメイアを大切に大切に、守るために後宮から出さなかったのだから。

「見てみたいんでしょう? 王宮の外を」


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